比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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青春18きっぷの・・・飯田線の終着駅・・・中央本線との接点・・・辰野駅の今昔

2020-09-11 | 鉄道と駅 甲信越編
・・・彩風人の写真帳・・・
青春18きっぷ・・・乗り鉄、駅鉄の旅です。
今回はJR東海道線からJR飯田線、JR中央線を・・・コロナ禍戒厳令の出る前の三日間の急ぎ旅・・・
今日で3日目、最終日、豊橋から飯田線、中央本線新宿まで500㎞に及ぶロングトラベル。

飯田線の終着駅、豊橋駅から195.7㎞、標高722m・・・辰野駅(長野県上伊那郡辰野町辰野)。
7時間30分近い長い旅でした。JR東海飯田線の管理はここ辰野駅で終わりです。駅舎、構内はJR東日本の管理下になります。
天竜峡駅発の電車213系はそのまま中央本線に乗り入れて諏訪方面に向かいます。


1906年中央東線の辰野駅として開業、そのご中央本線に。新宿駅より219.9㎞、1909年飯田線西町駅が開業、1916年飯田線が乗入。
単式ホーム2面2線(1線は行き止まり0番線)、島式ホーム1面2線。JR東日本塩尻駅管理の長野開発受諾業務駅。1日の乗客数516人。
かつては飯田線から中央本線への乗換え駅、中央本線の特急、急行、普通列車がすべて停車する交通の要衝でした。1983年岡谷駅と塩尻駅を直線で結ぶ塩嶺トンネルが開通して一変、中央本線のすべての列車はこの駅を通過することなく新宿駅側から塩嶺トンネルを抜けて塩尻、松本、大町方面へ。飯田線は乗換えなく諏訪方面への乗り入れになり通過駅に。塩尻駅へは辰野駅発の通称辰野線に。

かつては蒸気機関車、夜行列車、特急電車の停車した駅・・・長いホームにその面影を見る。
※撮影日は3月27日。

明治の時代、辰野駅が交通の要衝になったわけ・・・中央本線の計画が出されたとき①名古屋方面から足助、根羽、飯田方面に向かって三州街道153号線沿いに②飯田から駒場、清内路、南木曽に③岡谷から塩嶺峠の下をトンネルで抜いて塩尻に、塩尻から旧中山道沿いに・・・という3つの案が出され、勾配。工事の難易度などから現在の路線に決定されたそうです。時の飯田市出身の帝国議会衆議院議員、鉄道省鉄道局長伊藤大八は伊那谷を通す案を強く推し。かなわず代案として塩尻から辰野町に鉄道を迂回して諏訪へという路線を実施させたといわれ「大八回り:」と呼ばれたそうです。
政治権力によるものともいわれますが、当時のトンネル掘削技術では塩嶺トンネルは至難で迂回させたとも。実際に清水トンネルが開通したのは25年後の1931年のことです。中央本線が木曽谷を走るか伊那谷を走るか、工事の難易度、木曽谷の木材資源もこともあり、どっちが良かったのでしょうか。

塩嶺トンネルが計画され挫折し、そのご開通したのは90年後の1983年のことです。距離にして27.7㎞が11.7㎞になり1/3弱に、新宿~松本間は30分以上短縮されました。

辰野町・・・1889年伊那富村、辰野村が合併して伊那富村に。1947年辰野町に。朝日村。川島村、小野村を合併して現在に。人口18600人、農業、精密、光学工業など、短期大学、県立高校、私立高校が。
ひと晩数千匹の蛍乱舞といわれる松尾峡・・・江戸時代、明治時代からの蛍の名所といわれ1926年県の天然記念物に、1960年代観光目的で外部から多量のゲンジボタルが放流され、現在の蛍は在来種から移入種に入れ替わっているという指摘がされています。

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