比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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久しぶりの・・・陶芸の里・・・益子町・・・城内坂の風景

2019-12-26 | 道をゆく 関東
12月1日・・・久しぶりのロングドライブ・・・栃木県益子町方面へ・・・
真岡鉄道のSL・・・C11が東武鉄道に譲渡されるということで・・・ラストランが12月1日行われ、その日は快晴ということもあり行ってきました。
真岡鉄道真岡線の終点茂木駅より二駅手前の笹原田駅あたりでC11 325・・・を撮って引き返し駅鉄をしながら陶芸の町「益子」へ。

益子駅の南の踏切を渡って益子の市街を東に、信号のある城内坂の交差点から400mばかりが益子の中心街の城内坂、陶器店がずらりと並び、一番奥に巨大な狸が鎮座する益子焼窯元共販センターが。

久しぶりの陶芸の里・・・益子・・・です。
城内坂の風景・・・LUMIX FZ85パノラマ機能で・・・。両側のほとんどが窯元の販売店です。

大塚はにわ店・・・店頭に並ぶレプリカの埴輪・・・

LUMIX FZ85・・・パノラマ機能で城内坂の風景・・・真っすぐの道がアールを描いてしまった。

益子町・・・栃木県南東部、芳賀郡に属する、南部は茨城県との県境、人口22000人。江戸時代は益子村、1894年年明治の大合併では単独で益子町に、1954年昭和の大合併で七井村、田野村と合併して益子町に。平成の大合併では合併協議会は成立せず。戦国時代は宇都宮氏の郎党益子氏が益子城を構え、1589年廃城。江戸時代は那須黒羽藩飛び地支配で益子陣屋が、1852年笠間で修業した大塚啓三郎が黒羽藩の庇護を受け益子城のふもと(根古屋)に窯を開く。台所用の日常雑器であり、鬼怒川、利根川水運を流通経路として江戸に運ばれ地域経済を潤した。明治期に入ってもその勢いは衰えず、大正時代に民芸運動の陶芸家濱田庄司(のちに人間国宝)が益子に住み、ますます益子焼の名が広まっていった。窯元260、陶器店50.日用雑器から発展した焼き物なので益子焼という独自の焼き物はなく多様。
益子古城跡、西明寺古城跡,黒羽藩陣屋跡、益子陶芸美術館、陶芸メッセ、旧濱田庄司邸などを見たいのだが、まだ見たことがない。


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