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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

巣鴨といえば・・・洗い観音・・・塩大福

2010-04-25 | 道をゆく 東京散歩
4月18日 新宿御苑から、次はどこに行こうかと考えてオバアチャンの原宿巣鴨地蔵通商店街に。

JR山手線巣鴨駅、駅を降りるとそこは国道17号線(中山道)、道路を渡って少し歩くと17号線と分かれて旧中山道、巣鴨地蔵通です。右上の標識・・・車両通行禁止の説明ですがよくわかりません。車はほとんど通れないようです。
さてこの雑踏の中に入っていきます。


巣鴨といえばとげぬき地蔵(曹洞宗萬頂山高岩寺)といわれますが、メインイベントは洗い観音です。自分の体の痛いところと同じ場所を洗うと治るんだそうです。給料日の銀行のATMの前のように行列ができています(30分待ち)。先代はタワシで洗っていたので顔もわからぬほど磨り減り、6年前交替、今はタオルを提供して洗ってもらっています。


巣鴨といえば塩大福・・・

買いました。豆大福と塩大福。甘いもの大好きです。

巣鴨といえば・・・買いませんでした

巣鴨といえば・・・庚申塚・・・ボタ餅です・・・ここはお蕎麦屋さんなんですが。
巣鴨駅から巣鴨商店街を約800mブラブラしますと都電庚申塚駅に。
テッチャンではありませんが電車を見ると写真を撮りたくなります。東京で唯一の路面電車(路面を走っていませんが)都電荒川線(早稲田~三ノ輪橋間12km)庚申塚駅。旧中山道、街道といえば庚申信仰(猿田彦大神)がありますがその話は・・・省略。写真を撮ってるサイドは王子方面行きのホーム。このホームにもボタ餅屋さん(こちらはオハギと表示)があります。焼きそばもあります。


都電に乗って王子の飛鳥山に行きます。なぜか超満員です。

ようやく春が・・・新宿御苑の・・・庭園を歩く

2010-04-24 | 道をゆく 東京散歩
4月18日の日曜日、新宿御苑。八重桜が満開です。久しぶりの 今日の人出は最高・・・ですが広いので人はまばらに見え、静かです。

玉藻池・・・江戸時代(1772年)に内藤家が玉川上水の余水を引いて造庭した「玉川園」。

中の池

下の池

《余談》新宿御苑は江戸時代信濃国高遠藩内藤家の中屋敷(下屋敷ともいわれるが)、内藤家は三河以来の家康の側近、家康江戸入府の際、功績があったとかで、甲州街道、青梅街道、鎌倉街道の交叉する交通の要衝の地を拝領した。とうじは何もない武蔵野台地の野原だったと思われる。明治維新に官有地となり、1872年農事試験場、1879年宮内庁御料地、農園新宿植物御苑、1906年皇室庭園新宿御苑、1949年国民公園として一般公開。明治維新のとき、近代農業の振興という目的で広大な土地を緑地として継続したことが、結果的に新宿という巨大都市に緑地帯があるということになりました。改革とかいって民間に格安の値で払い下げられなくてよかったです。

《蛇足》わらじ騒動の顛末・・・信州高遠藩33000石内藤家の中屋敷(別荘みたいなの)、維持費がたいへんだったでしょうね。よく「百姓から絞れるだけ絞れ」といいますが(そういうバカ殿もいましたが)実際はそんなことはできません。百姓を疲弊させてしまったら元も子もありませんから。
内藤家は1691年大阪の富田林から転勤してきた譜代大名。前の年の元禄検地で実高39000石あったため領地調整、表高どおりになります。まあそれでも地味にやってれば何とかなったようです。ところが7代目の頼寧という殿様が大阪加番(1年間の大阪城の警備担当)になったため財政を圧迫します。役付き手当てが年27000石出るのですが出費(殿様、スタッフの大阪出張・滞在経費)のほうが多いのです。国許の家老たちは苦肉の策で、成年のお百姓は男子1人に1日わらじ2足(8ヶ月480足)、女子は月木綿1反(8ヶ月8反)・・・5年間という臨時徴収策を講じます(人頭税みたい)。士分は「お借り上げ米」という一時的な給与カット。
1822年、10000人規模のデモ(わらじ騒動)が起きます。結末はお役人のうち郡代の興津某ほかが領外追放(何時の世にも下っ端が責任を取らされます)。騒ぎを起こしたお百姓の処分は不明。財政再建は豪農たちの建策により解決したというからしまりません。
まあこの騒動の記録は藩史としては記さないでしょうし、百姓衆だってかくかくしかじかという記録を残せないでしょうし、見てきた人もいないわけですから、事の顛末は不確かです。ただ一揆の首謀者は打ち首が定法の時代ですから百姓も必死だったに違いありません。

広大な公園を歩いているといろんな思いが浮かんできます。

ようやく春が・・・新宿御苑から・・・ドコモビル

2010-04-21 | 道をゆく 東京散歩
4月18日の日曜日、八重桜満開の新宿御苑に来ました。58㌶の庭園(1㌶は1町歩、3000坪、100m四方)。周囲3.5km、ゆっくり歩いて1時間、ダラダラ歩いて2時間くらいの散策が楽しめます。

フランス庭園・・・鈴懸の並木道です。この広い草原を1組のファミリーが独占していました。
NTTドコモビルが見えます。いつのまにかドコからかモコッと立ち上がっていました。

サクラドコ?のビル?

オマケ・・・・
カメラオタクでないので詳しく知りませんが、リンホフとかテヒニカとかいわれたカメラ系なんでしょうか。
バックパッカー姿の欧米系の青年。
アイコンタクトで笑顔で挨拶。


 快適な散歩が続きます。

ようやく春が・・・新宿御苑の・・・八重桜を見に行った

2010-04-19 | 道をゆく 東京散歩
4月18日 日曜日。新宿御苑に八重桜を見に行った。

JR新宿駅南口、国道20号線(甲州街道)が線路を跨いで横断しています。その道に沿って行くと道路下にJRA馬券売場ビル・・・今日は皐月賞の日だった

新宿御苑の新宿門。 

苑内の散策路。沼杉(落雨松)の大木。気根(膝根)がニョキニョキ生えています。

今年の春は散々でした。遊び好きのわたしでもなかなか外に出られません。春に三日の晴れ間なしといいますが、三日どころか二日と続きませんでした。岐阜の薄墨桜を見に行こうかな、越後の雪割草街道に行こうかな・・・すべて天候不順でダメ。
最後の晴れの日に、東京の新宿御苑に行きました。これが結果的に交通費などいちばん安い
ヤンゴトなきひとの観桜会を真似たわけではありません

上野の森から・・・アメ横へ行く

2010-04-19 | 道をゆく 東京散歩
上野の森の散歩はボツボツ終了です。今日の〇〇会の会合場所は市ヶ谷で1:00。時間はまだ大丈夫。不忍池から池之端、不忍通り、春日通りに出て、中央通リ広小路、、道を横断すれば御徒町のアメ横。ここをブラブラします。

通称アメ横・・・本名は知りません。JR上野駅からJR御徒町駅までの500m、高架下の商店街、その脇の商店街。キレイでないこの商店街はホッとする空間です。


アメ横の中にお寺がある。左側に「摩利支天山」という幟が見られる「徳大寺」という寺です。その向こうに「二木の菓子」という幟があります。初代林家三平師匠が「二木二木二木二木二木の菓子」と連呼したCMで有名です。


こういう風景が好きです。全国どこに行ってもこういうところを覗きます。
これだけでも安いんですが「いくらになるの」と聞いてみるのが面白いです。


JR高架下の風景です。右に「昇竜」という看板があります。大きな餃子の店です。その向こうの「大統領」の看板・・・朝からお酒の店です。ここの焼き鳥、煮込み、一度食べてみたい。


昭和20年代・・・わたしはよく知りませんが。全国どこにでもあった闇市の雰囲気ってこんなんでしょうか。いまはそんな街はどこにもありません。ここだけそのときの街がそのまま残っています。好きです。欧米人もアジアの人もいっぱいいます。バックパッカーの欧米人の夫婦、ザックを背負った奥さんに「ヘビー?」と聞いたら「オー・イエス」といいました

ふたたび上野の森で・・お花見通り

2010-04-15 | 道をゆく 東京散歩
4月10日、ふたたび上野の森のお花見の風景。桜はハラハラ・・・葉桜の季節に向かっています。
でも上野公園メインストリート・・・お花見大宴会街道は賑やかです。

土曜日の午前中、まだ大宴会は始まっていません。大きなブルーシートに一人ポツネンと座っています。新入社員かな。大学の新1年生かな。それとも場所取りアルバイトか。分別ゴミの収集所もキチンと用意されています。


イイことですね。明るい太陽の下で大いに遊んでください・・・飲みすぎないで

桜の下のシャガの群落。

上野の森で・・東照宮から弁天様に

2010-04-13 | 道をゆく 東京散歩
4月10日、上野の森の中の気ままな散歩です。
大噴水のほうから桜並木に、土曜日の午前、桜は散りかけていますがブルーシートは健在です。

上野東照宮・・・初めての訪問です。大きな石鳥居から桜並木と石灯籠、銅灯篭の参道が続きます。ここの石灯籠。一つ一つ見て歩くと面白いです。寛永年間、聞いたことのある武将・諸大名の名前が並んでいます。寄付ですね(強請かな)。


上野東照宮・・・駿府城(静岡)で臨終の床についていた家康を天海僧正とともに見舞った伊勢津藩主藤堂高虎は家康に天海、高虎とともに三人一緒に眠るところを造って欲しいと遺言され1627年上野にあった下屋敷に東照大権現(家康)を創建します。この話は??? 天海僧正、藤堂高虎が合祀されたという話は聞きません。藤堂家の下屋敷は社殿の寄進に関係なく1625年の寛永寺の創建のために公収されていたはずです。
1651年三代将軍家光がこの本殿が気に入らなかったらしく改築。この建物が現存し国指定重要文化財です。
《蛇足》・・・東照宮は全国に500余あるそうです。もう一つ蛇足・・・上野の地名は藤堂高虎の生地伊賀上野にちなんで。

本殿が近づいてきました。よく見ると本殿は修復中です。写真に写った東照宮は本物に見えますが・・・実は神殿を覆う修復のための養生シートに実物大で印刷したものです。凄いですね。この印刷技術は。私も近づくまでわかりませんでした。


次に不忍池の中に浮かぶ不忍弁天堂に。ここも初めての訪問です。清水観音堂の正面の不忍池の畔から橋を渡ると参道が。
不忍弁天堂・・・1624~1644年常陸下館藩水谷家が不忍池に中の島を築き弁財天」を祀ったといわれる。寛永寺境外祠堂。そのご築堤され橋を通して陸続きになった。戦災により焼失、1958年再建。


弁財天・・・ヒンドゥー教の河の女神、仏教にとりこまれ弁才天、神教では七福神のメンバー。

弁天堂のうしろを抜けると不忍池の中にサクラの回遊路が。

回遊路を渡り終えると不忍通りから上野広小路、JR御徒町駅方面に出られます。アメ横をブラブラします。

《蛇足・・・ではなくて》東照宮の参道の右側、あるモニュメントがあります・・・「広島・長崎の火」です。

上野の森を行く(蛇足)・・・上野公園の父ボードウィン

2010-04-05 | 道をゆく 東京散歩
上野の森を歩いています。上野の森といわれるこの地帯、公園と博物館、美術館、学校とゆったりとした都市空間です。

明治維新の年といわれる1868年、恭順の意を表して江戸城を明け渡した徳川家の中の抵抗分子(彰義隊)が上野の山にバリケードをつくってヒキコモリます(上野戦争)。兵力、兵器の差はいかんともしがたく簡単に鎮圧されますが広大な寛永寺の大伽藍群は灰燼に帰します。朝廷に刃向かった賊軍の財産ですからすべて没収。1870年新政府は上野の山に医学校、病院の建設を計画。計画を相談されたのがオランダ医師ボードウィン(ボードワンとも)。上野の山を視察、壮大な敷地を緑地として残すように具申します。医学者としての目以外に都市学者の目を持っていたのでしょうか。コンクリートより緑を・・・です。新政府の役人もエライ これを承認して1873年太政官達で東京府公園に指定します。

かくしてボードウィンは「上野公園の父」となり博物館前の大噴水公園の林間に上野公園100年を記念して1973年ブロンズとして鎮座することになりました。
ところがこの像はボードウィンの弟の写真を間違って使い彫塑したことが2005年判明、2006年ボードウィンが大阪に滞在した折のお寺の住持さんが活動してあらためて彫塑しなおし2006年設置しなおしました。

ボードウィンの「都市に緑を」という思想はそのごの東京の都市づくりに影響を与えたのでしょうか江戸城、芝離宮、浜離宮。有栖川記念公園。新宿御苑、小石川植物園・,神宮内苑・外苑・・・東京というところはあんがい緑の多い都市なのです。

明治新政府が上野の森に作ろうとした医学校はのちに加賀100万石前田家の大名屋敷跡に建てられます。現在の東京大学本郷キャンパスです。

上野の森は・・・芸術の森だ

2010-04-05 | 道をゆく 東京散歩
上野の森を駆け足で歩いています。
JR日暮里駅から谷中墓地を抜けて寛永寺の境内を突っ切り上野公園内へ。

旧東京音楽学校奏楽堂(東京藝術大学奏楽堂は別)。正しくは旧本校舎、1890年日本最初の木造西洋建築様式で建設。1972年老朽化のため犬山市の明治村に移築されようとしたが建築界、音楽界の識者、市民グループの反対運動により撤回され台東区に移譲。国指定重要文化財。
二階中央の演奏ホールでは演奏会も催されており、建物内部の一般公開も行われております。急ぎの散歩なので通り過ぎただけです。ホールにはわが国最古のパイプオルガンがあります。中に入って静かな時間を過したいですね。


東京国立博物館・・・上野寛永寺本坊跡です・・・収蔵11万点、国宝87点、重要文化財622点。1972年1877年上野寛寺本坊跡で勧業博覧会を開催、1881年ここを博物館の本拠と定め煉瓦造りの洋館が完成。写真の本館は1937年竣工のもの。広大な敷地の中に本館(重要文化財)、表慶館(重要文化財)、東洋館、法隆寺宝物館、平成館がある。この中に入ったのはむかしむかしむかし1回だけ。


上野の森を歩いています。訪ねたいところがありましたが方向感覚を失いタイムアップ。待ち合わせの国立西洋美術館前の庭に。フランスの彫刻家ロダン(1840~1917年)の14世紀イタリアの詩人ダンテの叙事詩「神曲」をテーマにした未完の大作「地獄の門」です。。「神曲」も「地獄の門」もよくわかりません。よく見ると門の上に「考える人」がいます。何をしてるのでしょうね。鋳造作品は世界に7基展示されているそうです。


考える人」・・・「地獄の門」から独立してベストセラーになります。ブロンズは大小あわせて4サイズ。世界に数10基が展示されているようです。「考える人」という名前は鋳造職人がつけたニックネーム。


国立西洋美術館の前庭・・・国の登録記念物・・・だそうです。
国立西洋美術館・・・1959年完成、フランスの著名な設計者ル・コルビュジェの設計。ル・コルビュジュが設計した世界7カ国23の建造物と含めて2008年フランス政府が世界文化遺産に登録推薦文を提出、2009年登録見送り。再審査を申請か?

上野の森で・・・日暮里駅・・・上野寛永寺

2010-04-03 | 道をゆく 東京散歩
上野公園の散策です。桜咲く上野の森のお花見でもなく動物園に行くわけでもなく目的は別にあるのですが・・・時間はたっぷりあります。朝の7時過ぎに家を出てJR日暮里駅に着いたのは9時。

ホーム階段上の南口駅を出てJR山手線(ヤマノテではなくヤマテです)内回りを眺めます。内回りって東京駅から上野、田端、池袋と時計と逆の回り方の列車編成をいいます(このごろ知りました)。ところがこの線路は山手線ではなく京浜東北線であることがあとでわかりました。石垣の上が上野の山、つまりこの高さが武蔵台地の段丘の高さです。


さてJR線の内側の上野の山方面に坂を登ります。塀越しに見えるのが天王寺毘沙門天。江戸の大工の意地と技を書いた幸田露伴五重塔」(1891年発表)のモデルの谷中五重塔のあったお寺です。谷中五重塔は1644年建立、1772年焼失、1791年再建、明治維新の彰義隊戦争、震災、戦災にも耐えていましたが1957年放火により焼失。


振り返って日暮里駅。ちなみにニッポリは新堀の当て字か。


坂を上りきると谷中霊園(谷中墓地とも)。お花見の穴場です。お墓で花見なんて・・・といいますが花を愛でるのが日本人の美徳。お墓のホトケさまも喜んでいるのでは。
日本の公営墓地のハシリ。1874年明治新政府は天王寺の寺域の大部分を接収し府立墓地とした。10㌶、7000基の墓。寛永寺、天王寺の墓地も含まれる。
徳川家、徳川慶喜、高橋お伝、鳩山一郎、横山大観、森繁久弥などホトケ様にビッグネームが多い。
有名人の墓を巡り歩くオタクをハカマイラーという。ちなみにわたしはハカマイラーではない。


さて谷中墓地を突っ切って寛永寺坂を横切ると寛永寺の左横通路に。この道はお寺の中に。「お早うございます」と声をかけてくれたご婦人が「通り抜けられますよ」と教えてくれた。東京の人は人情があって親切だ。

寛永寺・・・寛永寺の子院「大慈院」の土地に1879年川越喜多院から「根本中堂」(天海僧正の住した僧院)を移築したもの。


正門から見た寛永寺。門というにはあまりにも・・・どういったらいいのだろうか。

天台宗東叡山寛永寺・・・1625年(寛永二年)徳川三代将軍家光開基、天海僧正開山。現在の上野公園全体・・約30㌶、最盛期はその2倍の寺領だったそうです。京都に倣って江戸城の北東(丑寅)の方角(鬼門)に東の叡山として、寛永寺は元号が寛永(改元は家光の征夷大将軍の即位で)ということから。徳川幕府の円熟期です。寛永寺の中心は現在の国立博物館前の大噴水のあたりその後ろの博物館あたりに本坊がありました。
明治維新・・・すべてはパ~になり没収。明治新政府のものになり、動物園や博物館や美術館になったり、学校になったりして、寛永寺の面影はわずかに残るばかりです。

寛永寺本坊の正門(国指定重要文化財)。1868年の上野戦争で焼け残り国立博物館の正門として使われていたが1923年関東大震災後、国立博物館右脇の輪王寺両大師堂の境内の中に移築。


薬医門(主柱に控え柱の4本柱構造・・・四脚門は六本柱構造)に潜り門付き。上野戦争のときの弾痕が生々しい。菊の御紋章の金具が見えます。
寛永寺本坊・・・管主は三代から天皇家の御子(皇子)がなった。輪王寺宮法親王といい天台宗座主として日光輪王寺、東衛山寛永寺、、比叡山延暦寺の三山すべてを管掌した。