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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

2011年冬の水元公園・・・対岸のみさと公園を歩いた

2011-01-25 | 道をゆく 東京散歩
1月21日、久しぶりの東京。旧友が飯でも食おうかということで午後の3:00に池袋で食事会決定。
さて、その前に別の旧友に電話して水元公園を散歩することに。

最寄りの駅はJR常磐線金町駅・・・「寅さん」でおなじみの柴又帝釈天に行く乗換駅、江戸川を渡ると松戸市矢切です。


近ごろはPCに路線案内というのがあり、出発駅と到着駅と到着時間を設定すれば、出発時間、交通経路、乗換駅まで教えてくれます。東上線高坂駅、池袋駅、JR西日暮里、金町駅・・・約1時間半。
深川清澄公園近くに住む古い友だちと10:00に待ち合わせ。バスで水元公園に。

東京都立水元公園・・・92㌶、皇居と同じくらいの広さ、1729年(享保年間)灌漑用遊水池として井沢弥惣兵衛により小合村に開削された小合溜井を中心に1965年公園として開園。
井沢弥惣兵衛・・・紀州の百姓の出身、幕臣として吉宗の下で見沼代用水開削、手賀沼新田開発、多摩川・木曾三川の改修などに腕を振るった。

散策の目的は・・・ない・・・ただ歩くだけ
今日は水元公園の対岸の埼玉県立みさと公園にコースをとり水元(小合溜)一周を目指す。

埼玉県三郷市のみさと公園の落雨松の並木道から・・・小合溜を挟んで対岸が東京都の水元公園。メタセコイアの森が見える。

見上げると梢になにやら小鳥さんの集団が。マヒワの群のようです。

対岸の水元公園の野鳥観察舎のあるバードサンクチャリという地域です。カワウのコロニーが見えます。これだけのカワウがいるということはカワウに食われてもその数を減らさない繁殖力がある魚が川の中にいるということです。カワウが増えて生態系が狂うということはありません。


糞害だと憤慨しないでください。これが自然の営みです。木はぜんぶは枯れません。

散歩していると木々や小鳥に目がいってしまいます。落葉したメタセコイア、ポプラ、落雨松、秋楡、トウカエデなど眺め、マヒワ、モズなど小鳥さんに興味のない人(この人は樹木のことは詳しい)といっしょですから歩きながらコンデジで撮っています。水鳥はカワウ、ヒドリガモ、アイガモ、オオバン、カイツブリなど。
小合溜の西の端まで大場川に沿って閘門橋方面に向い約2.5km歩きます。

水元公園の園内地図クリック

狭山丘陵の谷戸を歩く・・・野山北・六道山公園

2011-01-15 | 道をゆく 東京散歩
1月12日、狭山丘陵の西の端、東京都立野山北・六道山公園を散歩しました。
地域は埼玉県の西の端の入間市、所沢市に接し、東京都の武蔵村山市、瑞穂町にまたがる広大な丘陵自然公園です。

野山北公園の管理所の赤坂駐車場に車を置いて野山北・六道山インフォメーション・センターで地図をもらって出発。尾根づたいのアップダウンのない散歩道です。北側が高い鉄網フェンスで囲われているのは東京都の水がめ村山貯水池・山口貯水池の保護林を守るためです。
ランニングの人、サイクリングの人、遠くから来たというおばあちゃん、熟年夫妻など、ときどき人に逢うていどでした。


落葉樹の重なる快適な散歩道と思って歩いていましたが最後に見なければいいものを見ました。もう7~8年になるそうです。こういうことをやってはいけないというサンプルでしょうか。片付けるのは簡単のようですが・・・あえて醜いものを置いているのかな。


六道山公園・瑞穂町立文化の森にある展望台・・・ここは標高205m・・・「馬鹿と煙は高いところが好き・・・」で登ってみました。あいにく富士山は霞んでいましたが東京スカイツリーが棒のように見えました。


宮野入谷戸から岸たんぼへ。
谷戸・・・地方によって谷地、谷内、谷津、谷戸、谷那など・・・丘陵地の小さな谷の集水域、湿地をいうようです。ここ武州西部(多摩地区)では谷戸といったようです。
谷戸は最初は湿地・・・小さな沼に・・・小さな田んぼから谷が開けていくにしたがい大きな田んぼになって行きます。


この丘陵は尾根から谷戸が何本も南に向って落ち込んでいます。谷戸の終点は農家です。

古民家・・・説明板に・・・江戸中後期の名主格の家。この地域の農家の家を図面取りして復元したとあります。古いものではなく新築ですね。間口10間,奥行き5間くらいか。大戸があって潜り戸があって、通し土間に竈、流し、厩が2つ。上がり端からお勝手、囲炉裏のあるデイ(居間)、座敷と奥の間。互い違い4間造り(田の字構造)、2LKです。座敷にはちょうど小正月、繭玉が飾ってありました。50坪くらいですが、むかしの家は半分が土間です。居室が狭いように感じます。茅葺入母屋、2階があるようで物置、隠し部屋、養蚕などに使われたのでしょうか。門は冠木門に屋根をつけた腕木門。


ここの古民家は誰でも自由に出入りできるように開放されています。囲炉裏にチロチロ薪が燃えています。土間に入って大戸の構造や上を見上げて梁や竹材も使った天井を眺めるのもいいものです。写真もいっぱい撮りましたがここでは省略します。管理する人がいていろいろ説明してくれました。新潟から来たという研修生のお嬢さんもにこやかに挨拶してくれました。

赤坂谷戸・・・出発地点の駐車場に戻りました。ここまで15000歩、3時間。


たいへん壮大な公園ですが周遊コースが住宅街に出てしまうところと案内板のわかりにくさが欠点のようです。

狭山・・・とは今では市の名前になっていますが武蔵の国の西のほうの入間川、多摩川の水系の間の台地をいうようです。埼玉県入間市、所沢市、東京都武蔵村山市、東大和市、東村山市、瑞穂町にかかっています。狭い山という意味ではなく小さな山(丘)の塊をいったのでしょう。小夜(さよ)、小霧(さぎり)、小乙女(さおとめ)とかいう小(さ)です。
狭山丘陵として形をとどめているのは東西11km、南北4km、Yahoo地図の空中写真で見ると緑の部分が見えます。東京都の水がめ多摩湖、狭山湖をを守るため開発を免れた貴重な緑地です(中に西武鉄道系の大公園がありますがこのことも結果的に緑地を守った要因になっています)。
狭山茶というブランド茶が有名でこの範囲はもっと広く東京多摩地区から埼玉県入間・比企の地区から採れるお茶をいいます。水田が出来ない丘陵地だからお茶を作ったのでしょう。「色の静岡、香りの宇治、味は狭山」なんて勝手なCMが江戸時代にあったそうです。

バードウォッチングも兼ねて、双眼鏡、コンデジを持参。最初にジョウビタキの♀を確認、宮野入谷戸でアオジを確認、岸たんぼの横の林でゲラのドラミング確認、赤坂谷戸でカケス確認。いずれも写真を撮れるような状態ではなかった。三脚を担いだ鳥撮りさんは1人だけ。

むかし淀橋浄水場・・・いま新宿副都心

2010-11-06 | 道をゆく 東京散歩
11月5日朝、東京に出ました。ウン10年前の田舎村の中学生の同級会(5人だけでしたが)。

新宿小田急百貨店12Fから新宿新都心、西新宿という街を見ています。
ガラス越しですが足下の道路を見ているとコワ~ッ
むかしは淀橋町、そのむかしは角筈村といわれたところです。


むかしの淀橋浄水場のあたりです。淀橋浄水場は1998年玉川上水の水を浄水するために作られたわが国の近代水道設備の原点です。1965年東村山浄水場に移転しその役目を終え、1966年新宿西口地下広場、1970年京王プラザホテル、そのごは続々と高層ビルが建ち現在のような街になりました。

鉄骨とガラスでできたような特異なビルは東京〇ー〇学院の校舎らしい。

カメラはコンパクトデジカメ Canon PowerShot SX110、3枚の写真の合成です。
合成ソフトは上記のカメラを買ったときついていたZoomBrowserEXです。技術は要りません。手順どおりにやればソフトが勝手にやってくれます。

ようやく夏が終わり・・・新宿御苑を歩く

2010-09-21 | 道をゆく 東京散歩
9月18日・・・残暑の終わったかなという日、東京で暑気払いとかいうむかしの友たちの集まり。何かと理由をつけて集まりたいのだと思う。

集まりは午後1:00。せっかくの上京だから午前中は友だち夫婦三組で新宿御苑散策。ベストシーズンは八重桜と紅葉のころであろう。でも鬱蒼とした森の中を歩くのは気持ちがイイ。

池を挟んでドコモビルが見える。
 
ドコからモ・・・ドコモビルが見える。

この時期に咲くタイワンホトトギスを見に来ました。台湾から沖縄に自生する絶滅危惧種。その写真は次回に。

園内をユックリ1時間、園内のレストラン「ユリの木」で食事ということになり、園内管理のおじさんに「ユリの木」の場所を聞いたら落葉高木の「ユリノキ」の場所を教えてくれました。

わが懐旧の・・・東京都町田市木曾・・・境川団地

2010-06-04 | 道をゆく 東京散歩
むかしむかし・・・そのむかし・・・わたしたちが住んでいた街・・・町田市木曾。
東京都住宅供給公社境川住宅。

バス停すぐそばの交差点。小田急線新原町田駅(現町田駅)南口はこの道をまっすぐ4km。
当時の新原町田駅は南口は小さな出口だけ、バスターミナルのロータリーもない小さな駅前広場でした。

毎朝、バスに乗ったバス停あたり。むかしの我が家は正面左に見える18号棟にありました。

むかしの我が家の窓から・・・水道の水圧塔が見える風景。

むかしの我が家から階段を下りたあたり。自転車置き場とか駐車場。子どもたちの社交場です。

団地中央部に公設市場がありました。まだスーパーマーケットなどない時代です。

信号の左側は30クラス以上はあったと思われるマンモス小学校。
いまは校舎はそのままで町田市教育センターになっています。

草叢の中で花と遊ぶ少女。草叢の右に膝までしか深さのない境川が流れていました。
境川は東京町田市と神奈川県相模原市と境を流れる川です。

今は、川の流量も多くなり川幅も広がり高いコンクリートの護岸、フェンスに守られています。

むかしばなしです。わたくしごとです。

広い・・・広い・・・とにかく広い・・・昭和記念公園

2010-05-06 | 道をゆく 東京散歩
4月24日・・・朝早く八王寺市郊外の独立行政法人・森林総合研究所・森の科学館に桜を見に行きました。
まだお昼前、このまま帰っちゃつまらないと、立川市・昭島市に跨る昭和記念公園に寄って行くことにしました。

国営昭和記念公園といいます。昭和天皇在位50年を記念して1983年に開園。昭和は1926年からですから計算が合わないのですが、アバウトに考えましょう。約150㌶・・・皇居の1.5倍・・・歩くだけで疲れました。あとでわかったのですが電気バスもレンタサイクルもあったのです。

立川口から入る長いエントランスを歩いて噴水、そのさきがふれあい広場。

今から40年余のむかしベトナム戦争のころ平和を願って作られたアメリカの歌。
木々の緑・・・紺碧の空・・・ガキの泣き声が聞こえるぜ・・・ワナ・ワンダフル・ワールド 
 I see trees of green・・・I see skies of blue・・・I hear babies cry・・・What a wonderful world

公園の中を流れる残堀川・・・東京都西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎・・・狭山池というところが水源の多摩川水系一級河川、14.5km。江戸時代から掘割工事で河道改修を繰り返していたよう。武蔵村山市内に残堀、伊奈平という地籍がある。伊奈は関東郡代伊奈一族のことであろう。残堀という地名は掘割の一部が残ったのであろうか。
ザンボリザンボリと水量豊かな川みたいだが瀬切れ(渇水)状態。理由は河道改修で透水層の上を通したからといわれる。

とにかく広い・・・歩くだけでくたくたになる。
なぜ広いのか・・・かつての飛行場だからである

1922年陸軍立川飛行場。1945年敗戦によりアメリカ軍が占領、Tachikawa Air Baseに。
1960年北多摩郡砂川町(現立川市)で拡張工事反対のデモ隊が衝突した砂川事件・・・このためかどうかは知りませんが多摩飛行場(横田基地)を拡張して移駐することになり、1969年移駐完了、立川基地は全面停止。1972年敷地の東側が自衛隊立川駐屯場に。1977年立川基地は日本に全面返還。

敷地の中央が現在の昭和記念公園。敷地の西側に広大な未使用敷地が放置され野生動植物の楽園になっているようである・・・刑務所の統合設備を建設予定とか・・・どうなっているのだろう。
立川飛行場、砂川事件・・・もう知る人はわずかでしょう。かつての帝国陸軍飛行場、米軍基地が、大きな公園になっています。
昭和記念公園・・・みんなが生き生きと自然に親しんでいるところを見れば・・・What a wonderful world・・・世の中なんて素晴らしいんだ・・・って思います・・・
でもそのそばに本州最大・・・713㌶・・・Yokota Air Base・・・

横田飛行場・・・立川市、昭島市、武蔵村山市、羽村市、瑞穂町、そして3300mの滑走路に沿って国道16号線の走る街・福生市(フッサ)・・・5市1町。1950年代朝鮮戦争のときはここからB29爆撃機が朝鮮半島に向けて飛び立ちました。FUSSAはかつては・・沖縄のコザの街に似たリトル・アメリカ・・・でした。国道のそばの金網の向こうには普天間、嘉手納のような光景が見られます・・・。
ちなみに・・・Yokotaは武蔵村山市の中にあった小さな集落の名。大戦終了前、アメリカ軍が多摩飛行場を空中写真撮影して地図を検索して集落名から名づけたという。なんとも情けない命名秘話。

八王子・・・森の科学館で・・・桜を見る

2010-05-01 | 道をゆく 東京散歩
4月24日八王子の森の科学園に行ってきました。桜の写真は4月26日ブログアップ済みですので、ここでは森の科学館がどんなところか紹介します。

独立行政法人・森林総合研究所 多摩森林科学園
八王子市廿里町(とどりまち)、八王子は関東平野の西、奥多摩山地、奥相模山地が壁になった甲州街道、青梅街道、日光脇街道、浜街道など交通要衝の地。森の科学館は八王子市市街地から国道20号線に沿って進んだJR高尾駅のすぐそば、ほとんど四方が住宅地に囲まれた丘陵地に約40㌶。この山に隣接して昭和天皇御陵があります。
徳川時代の幕府直轄領が1921年宮内省帝室林野管理局林業試験場に、1947年農林省に、2001年独法に。

約1700本の桜が植えられています。観光のためではありません。桜の遺伝子の保存のためです。ていねいにサクラの樹種の名札がつけられています。


入り口が標高180mくらいか、最高点が270mくらいのようです。緩やかな登りで1時間の散策。途中にベンチや東屋、トイレもありゆったりと休憩やお食事が楽しめます。


山が笑っています。最高点あたりから八王子市街地を。樹木約700種、ハクビシン、アナグマ、ガビチョウ、ソウシチョウなど外来動物もいますが鼠、モグラ、リス、蛇など自然環境を維持する動物もいっぱいいます。
典型的な元・・・里山です。麓はかつて浅川といわれた地。ちなみに里山とは・・・林業試験場にも勤めた京大名誉教授、森林生態学の草分け、森の人と呼ばれる故四手井綱英さんが1960年代に里山再生を提唱して以来の言葉です。


四季を楽しむことができますが、ここのウリは4月中旬からのサクラです。ソメイヨシノ以外にもたくさんのサクラの樹種があり回遊路で楽しめるようになっています。
専用の駐車場がありません。高尾駅あたりの民間駐車場かお寺さんの駐車場がありますが調べてから行くことです。

《蛇足》宮内庁帝室林野局という言葉が出てきます。その前は御料局といったそうです。江戸時代すべての土地(例外もありますが)は徳川幕府と各地を封ぜられた封建領主のものでした。明治維新でそのすべてが官有地になります。そして森林部門の管理が宮内省に。一番多いときで200万㌶、市町村有林、官立大学演習林、民間などに払い下げられたりして140万㌶に。さて官有林が農林省でなくて宮内省に、これにはわけがありますが・・・省略。戦後になって農林省になります。封建時代、宮内省、農水省・・・体制は変わりましたがやっていることは変わりません。日本の国土の70%が山林。山を水を国が治めることは行政の鉄則です。水は命の源だからです。
独立行政法人森林総合研究所・・・大事な研究機関だと思います。ただ実態について私は知りません。巷間伝えられるような高給を食む理事が大勢いなければいいのですが。高度な専門知識・技術を持つ人の天下りもいいと思いますが、功なり名遂げた人たちでしょうからいままでの1/4ぐらいの俸禄でお勤めしてもらいたいものです。

最後にここの情報を教えてくれたnaoママさんにお礼申し上げます。

2010年4月の・・・東京スカイツリー

2010-04-30 | 道をゆく 東京散歩
4月18日 新宿御苑から始まる散歩のオマケです。東京スカイツリーが見えます。

写真位置は東武浅草駅と業平橋駅の間の隅田川を渡る鉄道橋の下のあたり。

ズームアップして・・・

さらにズームアップ・・・飛行機が飛んでいる


東京スカイツリー(634m)・・・テレビ・ラジオの電波塔。竣工は来年の秋。あんな高いところ、絶対に行きません
東京タワー(332.5m)が作られたのは1958年(昭和33年)。昭和が遠くなります。サビシイナア

ところでパリが最もキレイニ見えるところ・・・知ってますか。
エッフェル塔の上だそうです。そこにいる人はエッフェル塔が見えないからです。

春の東京ブラリ散歩・・・三ノ輪橋から・・・浅草へ

2010-04-29 | 道をゆく 東京散歩
4月18日東京散歩・・・新宿御苑、巣鴨地蔵通り、王子飛鳥山、王子から都電に乗って三ノ輪、浅草へ。

都電荒川線のターミナル三ノ輪橋駅・・・関東の駅100選、1913年王子電気軌道の駅として開業。1943年都電に。都電荒川線・・1970年代、都電路面電車は消えていったが唯一生き残った。99%が路面でなく専用車線であり、利用客が多く黒字が見込まれたからだとか。


三ノ輪橋駅・・・荒川区南千住にあります。道路を渡ると台東区三ノ輪のようです。浅草まで1.5km・徒歩20分ぐらい、ホンとは歩いて樋口一葉記念館など見て行きたかったのですが今日は歩きすぎて疲れたのでパスして、浅草までバス。
三ノ輪橋駅から5分ぐらい歩くとバス2駅目?で明治の女流作家樋口一葉(5000円札の顔)が住んでいたという下谷竜泉・・・
名作「たけくらべ」
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く・・・・・」
の舞台になったところですが今はその面影は影も形もありません。竜泉寺、大音寺などわずかにとうじを偲ばせる名前のお寺さんがあります。

バスに乗って浅草国際通り、ロック前で下車、浅草寺は回収中でブルーシートの中、仲見世をブラブラ、買わないのだけれど人形焼屋、芋羊羹屋、扇子屋、千代紙屋などを見て、「梅園」でアンミツなど食べようと思ったら行列・・・断念。


このあと「春のうららの隅田川」へ。「見ずやあけぼの長堤に」のソメイヨシノはすでに葉桜・・・水上バスの駅のあたりから東京スカイツリーをカメラに収めて今日のオノボリさんは終了。本日、27000歩、歩きすぎだ。

王子界隈・・飛鳥山公園・・・澁澤栄一邸跡

2010-04-27 | 道をゆく 東京散歩
4月18日・・・東京にオノボリサンで出てきました。新宿御苑からオバアチャンの原宿こと巣鴨・庚申塚・・・都電荒川線に乗って・・・そして王子に。駅前の音無親水公園から広い道を跨道橋で横断すると飛鳥山公園

桜の名所として有名ですがはじめての訪問です。JRの線路に沿って400m、幅は100m弱かな。それほど広くはありません。西洋庭園でもなし日本庭園でもなし遊園地でもなし武蔵台地の崖の上の丘に桜を植えた散歩道という感じ。
桜の散った広場に思い思いにシートを敷いて楽しんでいます。地域住民の憩いの場です。


18世紀のはじめ、八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環だったのでしょうか市民に憩いをとここを整備して桜1700本を植えたのだそうです。今と違って上野の森の花見は飲み食いご法度、ここは無礼講あり、長屋の花見ですね。庶民の閉塞感のガス抜きだったのでしょうか?
1873年、太政官布達で上野、芝、深川、浅草とともに公園となります。むかしはこの山の上から瓦投げなるものがあったそうです。庶民のフラストレーションの解消(ガス抜き)ですね。

公園の中に飛鳥山博物館、紙の博物館(王子は洋紙抄造の発祥の地)、澁澤記念館があります。どこにも寄りません。疲れました。

日本の近代資本主義企業の父・澁澤栄一の邸宅跡があります。公園の土地か私有の土地かわかりませんが1877年澁澤栄一はここに別邸を作り1901年ごろから本邸(本邸は港区三田綱町にありますがここもまた本邸?)として住みました。戦災で焼失、今は庭園と2つの建物(青淵文庫、晩香廬)を残すのみ。

青淵文庫・・・1925年澁澤翁傘寿の祝いに建造。書庫、接客用。八重桜が美しい。土曜日の12:30~15:30一般公開。


澁澤栄一(1840~1931年)武州血洗島村(現深谷市)に生まれた幕末から明治、大正を。昭和を生き抜き500以上の企業の設立、経営にかかわり近代資本主義の父といわれた人。この人のことは偉人伝とか郷土の偉人とかで本がいっぱいあります。偉人には間違いありませんからここでは省略。
偉人伝には書かれない話》この人は論語の精神で企業を起こし経営したといわれますが聖書は読まなかったのか男女の倫理観がなく妻妾同居、その子は20人を超えたそうです(明治という時代はそれが不道徳ではなかったようです・・・そして近代資本主義の父としての業績と関係ありません)。嫡子篤二さんはそれを見習ったのか放蕩三昧、ついには禁治産者扱いのように廃嫡されています。祖父、父を反面教師として育ったのでしょうか孫の敬三さんはマジメなかたで家業をついで第一銀行副頭取、日本銀行総裁、第二次世界大戦直後の大蔵大臣を務め、新円切り替え、財産税導入、財閥解体などを手がけ、公職追放、自ら導入した財閥解体ですべての財産を国家に物納。この人の顔は財界人の顔より民俗学者としての顔のほうが光っていますが・・・省略。

飛鳥山公園の崖を下りてJRの鉄道線路の上の橋を渡り東側に出て都電荒川線の王子駅方面に向います。