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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

厳寒の佐久平・・・佐久市田口・・・新海三社神社の三重塔を尋ねる

2022-02-21 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳
今日のプチドライブ・・・上田市丸子から依田川の谷へ、佐久平の立科町へ、国道142号線を佐久市に向かい臼田あたり。龍岡城五稜郭址、新海三社神社の三重塔、貞祥寺の三重塔を訪ねる予定。

新海三社神社の三重塔・・・佐久市田口宮代。1515年建造、国重要文化財。
神社に三重塔? 明治以前までは神仏混交、新海三社神社の別当・・・新海山上宮本願院神宮密寺の伽藍であった。明治の廃仏毀釈のころ、神社の宝庫という理屈を並べて解体を免れたという。氏子の中に知恵者がいたのだ。それを許した明治政府側の関係者も知ってて知らぬ顔をしたんだろうな。






日本の近世以前の三重塔は102(うち国宝が13)。信州には10(うち国宝が2、重要文化財が3)あります。
残存の理由は戦乱が少なかったからです・・・信州にお出での際はぜひ見に来てください。
※撮影日は1月28日。

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厳寒の佐久平・・・佐久市田口・・・新海三社神社を尋ねる

2022-02-20 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳
今日のプチドライブ・・・上田市丸子から依田川の谷へ、佐久平の立科町へ、国道142号線を佐久市に向かい臼田あたり。龍岡城五稜郭址、新海三社神社の三重塔、貞祥寺の三重塔を訪ねる予定。

新海三社神社・・・佐久市田口宮代。佐久3庄36郷の総社。
創建年は不明、近くに古墳、遺跡が出土、古代からの社と推定。祭神は佐久地方開発の開祖興波岐命を筆頭に出雲系の父の建御名方命、伯父の事代命、天皇家系の誉田別命・・・。
社名の新海新開の意味であろうか。
三社神社の意味は・・・興波岐命を祀る東本社、建御名方命を祀る中本社、事代命を祀る西本社・・・の三社が鎮座していることから。

新海三社神社・・・拝殿・・・

東本社・・・1467~1572年のころに造営と推定。国の重要文化財。一間社流造り。

東本社後方に・・・明治以前の神宮寺の三重塔。1515年ころ建立と推定。国の重要文化財。
明治の廃仏毀釈のころ神社の宝庫と偽り解体を免れた。

三重塔は次回に・・・
※撮影日は1月28日。

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厳寒の佐久高原・・・塩の牧の名刹・・・真楽寺を尋ねる

2022-02-18 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

浅間山を見に軽井沢まで・・・プチドライブ・・・県道80号線(浅間サンライン)普賢山落交差点近く・・・真樂寺を尋ねました。
真言宗智山派真樂寺・・・長野県北佐久郡御代田町塩野。古代の官営牧の塩野牧の地。大和王朝時代の586年、用明天皇が浅間山の噴火を鎮めるため勅使を派遣して祈願した勅願寺として開山したという。火災、水災により三度場所を替え現在の地に。

仁王門を潜り、参道を進み石段を上がると・・・
観音堂・・・1665年建立。本尊の聖観世音菩薩が置かれている。梁行3間、桁行3間。元は茅葺、現在は銅板葺。

唐破風の本堂・・・

三重塔・・・建造年不明、1751年再建。
建造年の関係で重要文化財になっていませんが長野県宝になっています。

日本の近世以前の三重塔は102(うち国宝が13)。信州には10(うち国宝が2、重要文化財が3)あります。
残存の理由は戦乱が少なかったからです・・・信州にお出での際はぜひ見に来てください。

甲賀三郎龍神伝説の「大沼の池」です。
龍神伝説・・・むかし甲賀三郎(平安時代に望月に住んだ武士の三男、後に近江国甲賀の領主に)は兄二人に騙され蓼科山の深い穴へと落とされた。三郎は暗い世界をさまよい、やがてこの世へ生還。そこが御代田町塩野の真楽寺の泉。三郎の体は龍になって佐久の山を越え諏訪湖に至り諏訪の神となったという。
※撮影日は1月25日。

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厳冬の浅間山・・・軽井沢町中軽井沢から・・・きょうの浅間山

2022-02-15 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

厳しい冬の寒さが続いています。
浅間山を見に軽井沢まで・・・プチドライブ・・・

国道18号線、中軽井沢を流れる湯川を超えるあたり。旧中山道沓掛宿跡を示す石標があります。
江戸時代の沓掛宿は沓掛村、明治の大合併で東長倉村に、1923年軽井沢町に。
JR沓掛駅は1956年に中軽井沢駅に改称・・・1963年沓掛地区は中軽井沢に地区名変更。


浅間山・・・湯川の畔に建つ長倉神社鳥居、朱色の神橋・・・



長倉神社の由緒書です。
社叢内に・・・沓掛時次郎の碑・・・が。
沓掛時次郎は劇作家長谷川伸(1884~1963年)が1928年に書いた劇中の人物、フィクションの人物が記念碑に? チョッとおかしいですが、いまは地名から消えた「沓掛」の名をひろめました。
※撮影日は1月25日。

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2022上田塩田平・・・長福寺、夢殿・・・アルカイック・スマイルの菩薩像

2022-02-13 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

厳しい寒さが続いています。小正月も終わった22日、上田塩田平の生島足島神社に初詣でに。
生島足島神社に参拝、すぐ隣にあるお寺・・・長福寺を尋ねました。
真言宗智山派理智院薬師院長福寺・・・上田市下之郷541。.創建は平安時代の965年。小さなお寺です。
法隆寺の夢殿を模した信州夢殿、国指定重要文化財銅像菩薩立像があります。

信州夢殿・・・1942年建立。法隆寺の八角円堂夢殿の1/2ですが完全に模した匠の技の結集。
長野県出身で美術写真印刷業の「大塚巧藝社」の創始者大塚稔氏の寄進によるもの。

信州夢殿の本尊・・・国重要文化財「銅像菩薩立像」・・・大塚氏が小布施町の民家に眠っていたものを譲りうけ寄進したもの。

アルカイック・スマイル・・・古いギリシャ彫刻に見られる微笑みを浮かべた表情。
※撮影日は1月22日。
大塚 稔(1888~1951年)・・・長野県出身、大正年代初期に横山大観により提唱された巧藝画を手がけ1919年大塚巧藝社(現大塚巧藝新社)を立ち上げた人。巧藝画は原画の画材そのままに絹、和紙に墨版をコロタイプ印刷し熟練の職人が岩絵の具などを用い手彩で仕上げた複製画です(偽作ではありません)。美術品、名画、文化財を広く知らしめるために、ダミーですが資料として後世に残すために多大な貢献をしてきました。
かつて横山大観の「童夢」の大塚巧藝社の精巧な複製画を某所で見たことがあります。


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2022上田塩田平・・・生島足島神社の境外の・・・大鳥居・・・今年は御柱の年だ・・・

2022-02-12 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

厳しい寒さが続いています。小正月も終わった22日、上田塩田平の生島足島神社に初詣でに。
生島足島神社から東に約1.0㎞・・・通称御柱街道に・・・生島足島神の大鳥居・・・上田市下之郷。


2022年は生島足島神社の摂社諏訪神社の御柱祭り・・・
4月、東山から曳き出された御柱は境外社の山宮社、御旅所、そして大鳥居を経て本宮に進み。4月16日に宵宮祭、17日に本大祭。18日に奉建蔡の予定。



※撮影日は1月22日。


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2022上田塩田平・・・生島足島神社の境外社・・・御旅所神社へ・・・

2022-02-11 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

厳しい寒さが続いています。小正月も終わった22日、上田塩田平の生島足島神社に初詣でに。

生島足島神社から東に約1.5㎞・・・通称御柱街道に鎮座する御旅所神社・・・上田市下之郷乙。

御旅所とは神様が移動するとき休息される御座所のことです。
生島足島神社の摂社諏訪神社の御柱祭り・・・
東山で切り出された御柱は麓の山宮社、御旅所、大鳥居で休息しながら御柱街道を進み本宮で奉建されます。

御旅所の石祠です。
※撮影日は1月22日。


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2022上田塩田平・・・生島足島神社に初詣でに

2022-02-11 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

厳しい寒さが続いています。小正月も終わった22日、上田塩田平の生島足島神社に初詣でに。

暮れから正月に催している福だるま市です。

二の鳥居・・・

神橋を渡って神池の中の本殿に。この形式を「出雲式池心宮園」というのだそうです。



延喜式にも記されている古い社です。旧社格は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。
本殿は床板もなく土間だけ。大地そのものが霊であるという哲学。
※撮影日は1月22日。
生島足島神社(いくしまたるしま)・・・上田市下之郷701。延喜式(967年発行の六法全書、税務台帳、地名事典みたいなもの)に記された式内大社。主祭神は生島(生みの神)、足島(満たす神)の2柱(天津神系)。摂社に出雲系の建御名方神を祭神とする諏訪神社(国津神系)があり御柱祭りが行われます。建立は定かではないが延喜式に記されているということは大和王朝時代から律令制時代?。

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2022年・・・信州古刹巡り・・・天平時代の面影偲ばせる・・・信濃国分寺

2022-02-10 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

厳しい寒さが続いています。小正月も終わった15日、19日は塩田平の古刹巡り、20日は上田市街地の国分寺に。

信州上田の国分寺・・・奈良時代の「天平年間」・・・信濃国上田に建立された信濃国分寺です。
平安時代中期の「承平の乱」(平将門の乱)で焼失したと伝えられ、そのご再興され現在に至っています。

本堂・・・江戸時代末期1860年に竣工。入母屋妻入り、屋根の下に庇があるので二層に見えますが一層です。

国指定重要文化財三重塔・・・建立年代は不確か・・・建築仕様から室町時代の建立といわれます。

日本の近世以前の三重塔は102(うち国宝が13)。信州には10(うち国宝が2、重要文化財が3)あります。
残存の理由は戦乱が少なかったからです・・・信州にお出での際はぜひ見に来てください。
※撮影日は1月20日。
信濃国国衙上田国分寺の話し・・・奈良時代のむかし、上田は信濃国の国衙(国府)があったと伝えられています。ヤマト中央集権の地方行政機関です。いまの県庁みたいなのです。国司(官選県知事みたいなもの)が派遣されていました。国衙には国分寺、国分尼寺がセットになっていたようです。東から国道18号線に沿って上田市街地に入る手前に国分寺跡国分尼寺跡といわれる国史跡があります。地名もそれに合わせて国分(こくぶ)。いつの年代か国衙は上田(小県郡)から松本(筑摩郡)に移ったと伝えられます(なぜ国衙が移転したかも謎です)。。国衙がどこにあったのか、上田においても松本においても不明です。それを比定する遺構も文書もないようです。

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2022年・・・新年の塩田平巡り・・・大法寺の国宝「三重塔」を尋ねる

2022-02-09 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

厳しい寒さが続いています。小正月も終わった15日、塩田平の寺社巡りしました。
続けて1月19日、塩田平の西の奥の小県郡青木村当郷の天台宗一乗山大法寺にやって来ました。

国宝三重塔(見返りの塔)・・・
1333年(鎌倉幕府滅亡の年)大阪の工匠天王寺四郎某の作といわれ高さ18m余。

古刹(こさつ)という言葉があります。「刹」は仏舎利塔の心柱のことをいい、「古刹」は古寺のことをいうのだそうです。

山側から見た三重塔・・・北側の屋根に雪が乗っています、眼下に青木の郷、その向こうに女神山が。
※撮影日は1月19日。
大法寺・・・開基は奈良時代の8世紀はじめの大宝年間、藤原鎌足の子の定恵(弟は不比等)と伝えられるが定かでない。
一時衰退し奈良時代9世紀の初めごろの再興されたといわれますが詳細は不明。奈良時代、なぜ都から遠いこの地に大伽藍が創建されたか?古代東山道浦野駅あたりであり、また浦野牧などが経営されていて栄えた、その関連であると推定されます。


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