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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

冬の旧北國街道・・・旧海野宿・・・横町から表通りへ

2022-02-28 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

冬の散策に・・・旧海野宿・・・長野県東御市本海野。
忽然と現れる不思議な街です。
タイムカプセルから出てきた町でも復元してできた町興しの町でもテーマパークでもドラマのセットでも・・・ありません。
人が普通に生活している街村です。

横丁です・・・ゴミ一つない綺麗さです・・・住民の顔が見えてきます。



表通りのお蕎麦屋さんです・・・目立たないようにした看板と提灯です。屋号は「かじや」・・・前職は鍛冶屋?

乳鋲のある門です。両側に潜り戸が・・・文字通り潜らなければ入れません。

手入れされた見事な庭木です。

旅籠作りの二階の出格子・・・長短を組み合わせた縦繁格子(海野格子)。
左の家の二階は旅籠作りから寒暖対策の窓を小さくした大壁の蚕室造りになっています。
※撮影日は2月7日。
★これだけ卯建の上がった町を他に見たことがありません。明治維新後の養蚕業への転業が富の蓄積を産んだと思えます。
★褐色の壁が本うだつ、白い壁で塗り込められたのが袖うだつ
大壁造りと土蔵・・・大壁は壁の厚さ5寸(15㎝)、土蔵は壁の厚さ1尺(30㎝)をいうようです。このあたりは大壁の家も土蔵も壁につながる破風と庇を土で塗り固めた塗篭屋根造りになっていて置屋根造りは見られません。

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冬の海野宿・・・白鳥神社・・・木曽義仲挙兵・・・戦勝祈願の神社

2022-02-26 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

海野宿の散策にプチドライブ・・・宿の東側からの入り口にある白鳥神社(しろとりじんじゃ)へ。

本海野の鎭守「白鳥神社」・・・
海野郷を治めた海野氏がこの神社を奈良時代から平安時代にかけて創建したというが創建年、詳細は不明。

日本武尊・貞保親王・善淵王・海野広道公の四柱を御祭神として祀っています。
古代大和王朝の英雄「日本武尊」・・・長期遠征の末、伊勢の地で没し白鳥の姿に化身して飛び立ったという。
貞保親王は清和天皇の第四皇子、滋野の海野荘園、官牧の長官として赴任、詳細は不明。
善淵王(貞保の孫)が滋野姓を賜り、滋野氏から滋野三家(海野、望月、祢津氏)へと分流・・・。
海野広道は海野家の始祖。

拝殿の前に立つ樹齢700年余、樹高30m、目廻り周囲.7.2mの大欅・・・

この神社が史書に記されたのは平安時代の戦記「源平盛衰記木曽義仲挙兵の際の戦勝祈願がの下りが初出とされます
※撮影日は2月7日。


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「御嶽海」・・・「雷電」に次ぐ信州出身の大関に・・・「雷電生家」がブレーク?

2022-02-25 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

大相撲関取御嶽海が大関に昇進しました。
江戸時代の名大関「雷電」以来227年目の信州出身の大関だそうです。
伝説の名力士「雷電」の生家がブレークしています。
浅間サンラインをプチドライブのおりに東御市滋野の雷電の生家を尋ねてみました。


玄関を入るとすぐに土俵です。もとは土間だったのでしょうか。二階は土俵を覗きこむように桟敷が。
復元のときに作ったのでしょう?

座敷・・・額の揮毫は昭和の名横綱栃錦・・・春日野理事長

額の揮毫は行司二十四代式守伊之助

囲炉裏の切られた居間・・・
※撮影日は2月3日。
★信州にいらっしゃったらぜひ訪ねてください。上信越自動車道東部湯の丸IC、浅間サンライン道の駅雷電くるみの里、しなの鉄道滋野駅から数分。

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「御嶽海」が・・・「雷電」以来227年ぶりの信州出身の大関に・・・「雷電生家」がブレーク?

2022-02-25 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

大相撲関取御嶽海が大関に昇進しました。
長野県木曽郡上松町出身の御嶽海、信濃国小県郡大石村出身の伝説の大関「雷電」以来227年目の信州出身の大関だそうです。
伝説の名力士「雷電」の生家がブレークしています。
浅間サンラインをプチドライブ・・・小諸と上田の間、東御市の道の駅「雷電くるみの里」あたり雷電の生家に寄って見ました。

長野県東御市滋野乙1981、1795年雷電28歳のとき父母のために50両で建てた実家。1984年復元。

典型的な中農の家に見えます。
目測ですが間口8間、奥行き4間ぐらいか、屋根の空気抜きの小屋根があります。中二階で養蚕も。

玄関前に・・・雷電の鋤石・・・田畑への行き帰りにこの石を鋤に吊るして体を歩き鍛えたといいます。
※撮影日は2月3日。
★伝説の名力士雷電為右衛門(1867~1825年)・・・信濃国小県郡大石村(現東御市)に生まれる。1790年松江藩お抱え力士として江戸相撲付出関脇として場所入り。1811年引退までに在位35場所。取組数285、勝ち星254、負け星10、行司預かり21。身長2.1m、体重169㎏。強すぎた大関、個人的な禁じ手が張り手、かんぬき、突っ張り。横綱にならなかったわけは諸説あるがいずれも定かでない。
★信州にいらっしゃったらぜひ訪ねてください。上信越自動車道東部湯の丸IC、浅間サンライン道の駅雷電くるみの里、しなの鉄道滋野駅から数分。

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厳冬の上田丸子・・・「鎌倉殿と13人」・・・木曽義仲戦勝祈願の岩谷堂観音を尋ねた

2022-02-24 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳

今日のプチドライブは・・・上田市塩田平と丸子をつなぐ砂原峠の木曽義仲挙兵の地へ・・・さらに義仲が必勝祈願したといわれる岩谷堂へ。
NHKテレビ大河ドラマ「鎌倉殿と13人」がはじまっています(あまり見てませんがおもしろいそうです)。
木曽義仲は中世鎌倉幕府の興る前、平家打倒の先頭を切ってここ丸子町、依田の地で兵を集め上洛した源氏の武将です。

上田市塩田平と丸子をつなぐ砂原峠から断崖絶壁の下の・・・・・浄土宗龍洞院宝蔵寺(上田市御嶽堂84)へ・・・
開山は9世紀、平安時代の初め、比叡山三代当主慈覚🉅大師円仁と伝えられています。

岩谷堂観音・・・宝蔵寺の堂宇・・・観音堂です。
朝日将軍源木曽義仲は平家追討の出陣にあたってこの岩谷堂で必勝祈願したといわれます。

岩谷堂から望む、丸子の市街地、烏帽子岳、湯の丸山、遠くに浅間山が・・・
※撮影日は2月1日。
《どうでもいい話ですが・・・鎌倉殿の歴史は》・・・親子、兄弟、縁戚、姻戚、同族、忠臣の殺し合いです。木曽義仲の父義賢は兄の源義朝の差し向けた義朝の子の悪源太義平に殺されますが、その義朝、義平は平清盛に滅ぼされ、その平清盛は源義賢の子義仲に都を追われ、義仲は義朝の子の範頼、義経に滅ぼされ、その範頼、義経は兄の頼朝に滅ぼされ、頼朝は謎の死を遂げ、頼朝の子たちは頼朝の正室の政子の実父であり後ろ盾であった北条一族に抹殺され、鎌倉幕府を作り上げるのに功のあった梶原、畠山、比企、和田らの関東武者たちも北条一族に謀殺されていきます。その北条一族も源氏の新田、足利に滅ぼされ、新田は足利に滅ぼされ・・・。

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厳冬の上田丸子・・・「鎌倉殿と13人」に関連して・・・木曽義仲挙兵の地、依田氏高築館跡を見る

2022-02-23 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳
今日のプチドライブは・・・上田市塩田平から砂原峠の木曽義仲挙兵の地へ・・・
塩田平と依田川沖積地の丸子町をつなぐ小さな谷間の道、かつては鎌倉道とも呼ばれ鎌倉に通じていました。
NHKテレビ大河ドラマ「鎌倉殿と13人」がはじまっています(あまり見てませんがおもしろいそうです)。中世鎌倉幕府の興る前、平家打倒の先頭を切った源氏の武将木曽義仲はここ丸子町、依田の地で2年余をかけ兵を集め上洛します。

挙兵の地といっても今は山の中の畑・・・後方の山は、この地方の豪族信濃源氏の依田氏の依田城址。
山の麓に依田氏の館があり、招いた義仲に館を譲って、高築地館に移ったという。今はただの畑です。


依田氏の館、武士団の屋化の生活用水の泉があったあとです。
※撮影日は2月1日。

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厳冬の上田丸子・・・「鎌倉殿と13人」に関連して・・・木曽義仲挙兵の地を訪ねる

2022-02-23 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳
今日のプチドライブは・・・上田市塩田平から砂原峠の木曽義仲挙兵の地といわれるところへ・・・
塩田平の下之郷から古安曽、平井寺トンネルへの道を東に折れて砂原峠から丸子町へ。
NHKテレビ大河ドラマ「鎌倉殿と13人」がはじまっています(あまり見てませんがおもしろいそうです)。中世鎌倉幕府の興る前、平家打倒の先頭を切った源氏の武将木曽義仲はここ丸子町、依田の地で2年余をかけ兵馬を集め上洛します。

奈良尾の水田地帯から山あいに入るあたり・・・砂原池・・・です。標高553m。後方に独鈷山の山なみが。
塩田平ため池群・・・ため池とは水稲耕作のための灌漑池です。ここ塩田平は降雨量が日本最小の地、平安時代から、わずかな山の水を集めて溜め池を造成、江戸時代初頭には本格的な構築が始まり最盛期400池を超えたそうです。現在140。日本ため池100選に。


砂原池砂原峠(611m)を過ぎると道路際に・・・古鍋立の湯跡黒地蔵の標柱が。
むかしこのあたり鉱泉宿があったようです。黒地蔵の詳細はワカリマセン。

丸子市街地の見えるあたり・・畑の真ん中ですが・・・
木曽義仲挙兵の地といわれるところにでてきます。
※撮影日は2月1日。
木曽義仲(1154~1184年)・・・武蔵国大蔵(埼玉県嵐山町)に生まれる。父源義賢が兄義朝に討たれ義仲は信濃国木曽の宮ノ越(現木曽町)の中原兼遠の下で育ち、宮廷の平氏打倒の令旨に応じ。依田地方の信濃源氏の依田氏、丸子氏、長瀬氏らの協力により依田城で兵馬を集め1181年挙兵します。

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厳寒の佐久平・・・佐久市前山・・・古刹貞祥寺で・・・島崎藤村の小諸時代の旧宅を見た

2022-02-22 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳
今日のプチドライブ・・・
佐久市田口龍岡城五稜郭址、新海三社神社と三重塔、そして最後は佐久市前山の貞祥寺と三重塔を訪ねました。
曹洞宗洞源山貞祥寺・・・佐久市前山、1521年開山の七堂伽藍の揃った古刹です。

山門、総門に至るまでの鬱蒼たる広大な境内、その中にひっそりと建つ古民家・・・
明治、大正、昭和の時代を通じての詩人、小説家、島崎藤村が1899年から1905年まで小諸義塾で教師として過ごした住宅です。
小諸市馬場裏の旧小諸藩士宅、玄関から土間、お勝手、田の字型の4室。
藤村はこの家で妻と子供三人と過ごし、「落梅集」発表、「千曲川のスケッチ」(2012年発刊)、「破戎」(2006年自費出版)を執筆。

小諸
市の住宅はそのご荒れるのを惜しんで南佐久郡前山村(現佐久市)の素封家本間隆氏が1920年買取り、自宅に移築して使用していましたが、1972年藤村生誕100年を記念して当時の野沢町(現佐久市)に寄贈、貞祥寺の一角に移築復元。

このあたりから見える佐久平の風景です。

浅間山が見えます。
※撮影日は1月28日。


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厳寒の佐久平・・・佐久市前山・・・貞祥寺の・・・三重塔を尋ねた

2022-02-22 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳
今日のプチドライブ・・・
佐久市田口龍岡城五稜郭址、新海三社神社と三重塔、そして最後は佐久市前山の貞祥寺と三重塔を訪ねました。
曹洞宗洞源山貞祥寺・・・佐久市前山、1521年開山の七堂伽藍の揃った古刹です。

長野県宝三重塔・・・
もとは南佐久郡小海町松原の松原諏訪神社の別当神光寺にあったもの。江戸時代後期の1849年再建と伝えられる?
明治時代に入り1868年神仏分離令により廃寺のやむなきに至り1870年売却、ここ貞祥寺に移築されました。





※撮影日は1月28日。
日本の近世以前の三重塔は102(うち国宝が13)。信州には10(うち国宝が2、重要文化財が3)あります。1月に上田市塩田平の安楽寺八角三重塔、前山寺三重塔、青木村の大法寺三重塔、上田市国分の国分寺三重塔、御代田町の真楽寺三重塔、佐久市田口の新海三社神社の三重塔、佐久市前山の貞祥寺三重塔と7つの塔を尋ねました。2月は大町の若一王子神社の三重塔を尋ねる予定です。

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厳寒の佐久平・・・佐久市前山・・・佐久の豪族伴野貞祥の開基した貞祥寺を尋ねた

2022-02-22 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
信州上田の・・・六文銭の写真帳
今日のプチドライブ・・・
佐久市田口龍岡城五稜郭址、新海三社神社と三重塔、そして最後は佐久市前山の貞祥寺と三重塔を訪ねました。

曹洞宗洞源山貞祥寺・・・佐久市前山、佐久市野沢の市街地から南西に4~5㎞、むかしの南佐久郡前山村。
室町時代の豪族,,前山城主伴野貞祥が1521年に開基。七堂伽藍の揃った古刹です。

茅葺きの山門・・・1672年建立、長野県宝。

山門の中に…持国天、増長天。普通は寺のガードマンといったら阿吽の金剛力士なんだが。
ここは須弥山の四方を守る四天王・・・しかも二天王だけ?
 
鐘楼・・・

次回は・・・三重塔を尋ねます。
※撮影日は1月28日。

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