goo blog サービス終了のお知らせ 

比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

草原の国モンゴル紀行⑭・・・ウランバートル・・・夏の祭典「ナーダム」

2018-11-03 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

モンゴルの旅・・・首都ウランバートル(赤い英雄)・・・人口130万人(モンゴル国の人口300万人)。
7月11、12、13日はモンゴル国の祝祭日「夏の祭典ナーダム」。
太陽の恵みを受ける夏、太古から大地の神と先祖の霊に捧げるモンゴル高原の民族の祭り・・・2010年ユネスコ世界遺産(無形文化遺産)登録。
ウランバートルで行われる国の祭典とともに各地方の県、郡、市などでも行われる全国的な祭典です。。ナーダムでのメインイベントは相撲、弓射、競馬。
ちなみに7月11日は革命記念日・・・1921年7月11日・・・モンゴルの支配者であった中国の清王朝が辛亥革命で滅亡後、あとを継いだ中華民国軍の進駐、ロシア革命で敗残し流れてきた白軍を人民義勇軍が駆逐してモンゴルが活仏ボクト・ハーンを立てて実質的に独立した日・・・です。

ナーダムのメイン会場・・・ナショナル・スポーツ・スタジアム









※撮影日は2017年7月11日。


※コメント欄オープン。

草原の国モンゴル紀行⑬・・・ウランバートル・・・ラマ教の聖地ガンダン寺

2018-11-02 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

モンゴルの旅・・・首都ウランバートル(赤い英雄)・・・人口130万人(モンゴル国の人口300万人)。
モンゴル仏教(ラマ教)・・・の中心寺院、1727年に清王朝第五代皇帝雍正帝により創建の「ガンダン・テクチェンリン寺」通称ガンダン寺を尋ねました。
モンゴル人民共和国時代独裁者チョイバルサンの下で厳しい宗教弾圧を受け、数万人ラマ僧が粛清され多くのモンゴル仏教寺院は破壊されました。ウランバートルのガンダン寺も1938年に閉鎖され1000人のラマ僧が粛清されました。1944年から国際的な目もあり復興が始まり現在の姿に。5000人のラマ僧を擁するモンゴル仏教界の最高学府。

ガンダン・テクツェンリン寺観音堂・・・
活仏ジェブツンダンパ八世(ボクト・ハーン)が盲目になり平癒祈願のため高さ25mの開眼観世音菩薩像を1911年に建立。
1938年にソ連が没収(略奪)。現在の観音像は信者の寄進により1996年に再建立したもの。

ガンダン寺ツォクシン・・・大講堂・・・学問所です。
四角い建物ですが、モンゴルのゲルを思わせる設計になっています。


※撮影日は2017年7月10日。


※コメント欄オープン。

草原の国モンゴル紀行⑫・・・首都ウランバートル・・・チンギスハーン広場

2018-11-01 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

モンゴルの旅・・・首都ウランバートル(赤い英雄)・・・人口130万人(モンゴル国の人口300万人)。

ウランバートルの中心、スフバートル広場・・・チンギスハーン広場・・・
1921年モンゴル革命義勇軍を率いてここに入城した英雄スフバートルの騎馬像・・・です。

1911年中国で辛亥革命、清王朝滅亡。1917年ロシア革命、1918年清王朝の植民地であったモンゴルに中華民国軍侵入、1920年ロシア白軍侵入、1920年モンゴル人民党結成、人民義勇軍編成、1921年スフバートルに率いられた人民革命軍がイフ・フレー(現ウランバートル)に入城。活仏ボクト・ハーンを戴く立憲君主制モンゴル国建国、1923年スフバートル死去。1924年ボクト・ハーン死去、立憲君主制国家から社会主義のモンゴル人民共和国に。モンゴルの中心都市イフ・フレ―はウランバートル(赤い英雄)に改称。

モンゴルが中国清王朝の植民地から独立したのは20世紀のはじめ、辛亥革命、ロシア革命と重なり清王朝の版図を継承しようとした中華民国、、それを排除しようと革命後のソ連邦に頼ったモンゴル独立の指導者たち、民族運動の指導者たちがソ連の指導者たちに翻弄され独裁国家になっていきます。革命家たちは粛清を重ね、粛清した側が別の指導者に粛清されます。スフバートルの死も謎のようです。粛清の数は数万人にのぼり、ラマ僧の数はその半数、多くの寺院が破壊されます。1972年日モ国交開始、1980年代、ソビエトの雪融け、ペレストロイカ、1989年モンゴル人民革命党の一党独裁放棄、同年モンゴル駐在13万人のソ連軍撤退、1990年スターリン像撤去、1991年ソ連邦崩壊、1992年「モンゴル国」に国名改称。新憲法指定。2012年レーニン像撤去。

スフバートル広場の名前は最近チンギスハーン広場に変わっているようです。

チンギスハーン広場の奥正面に政府宮殿・・・中央の両側にモンゴル人民共和国の独裁者チョイバルサンと革命の英雄スフバートルの霊廟がありましたが2005年に撤去。モンゴル帝国2代オゴデイ・ハーン、5代フビライ・ハーンの騎馬像、中央にチンギス・ハーンの大座像が。

モンゴル国になってモンゴルの象徴として復権したチンギス・ハーン・・・モンゴル民族のアイデンティティーです。
※撮影日は2017年7月10日。
※モンゴル人民共和国時代・・・ソ連邦からの圧力でチンギス・ハーンはタブーでした。ロシアはモンゴル帝国、キプチャック・ハン国に500年支配された国・・・「タタールの軛」。ソ連の指導者スターリンはチンギス・ハーンを侵略者の象徴として徹底的に排除します。モンゴル民族主義者のアイデンティティーになることをおそれました。
ソ連邦の崩壊後・・・ソ連邦の衛星国を外れモンゴル国になったいま、チンギス・ハーンは復活、ボヤント・オハー国際空港はチンギスハーン空港、スフバートル大通りはチンギスハーン大通り、モンゴル一の大ホテルはチンギスハーンホテル、モンゴルの人気ウォッカはチンギスハーン、観光キャンプ場はチンギスハーン村。人気ロックバンドはチンギスハーン・・・人民共和国時代には口にしてもヤバかったチンギスハーンが甦っています。


※コメント欄オープン。

草原の国モンゴル紀行⑪・・・チンギス・ハーン・・・テーマパーク

2018-10-31 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

モンゴルの旅・・・首都ウランバートルから東へ54㎞・・・
トワール川の畔の高台・・・チンギス・ハーン テーマパーク・・・

チンギス・ハーン騎乗像・・・台座の高さ12m、銅像の鷹さ30m、合わせて42m。



馬の鬣の上に展望台があります。


ソ連邦傘下のモンゴル人民共和国の時代はチンギス・ハーンはロシアをも征服下に組み入れたモンゴル帝國の象徴としてタブーでした。
チンギス・ハーンがモンゴル民族のアイデンティティーとして復活したのは1991年モンゴルが「モンゴル国」として民主化したあとです。

世界最大のモンゴル靴・・・ギネスブック登録だそうです・・・あまり意味はありませんが・・・
※撮影日は2017年7月9日。

チンギス・ハーン(1162~1227年)・・・1206年中央アジア高原の群雄割拠の諸部族を統一してモンゴル帝国の初代ハーンに。モンゴル部族出身のため以来、モンゴル帝國という呼称に。中国の金王朝(中国東北部、狩猟、牧畜、農耕の騎馬民族女真族の征服王朝)、西夏王国(現中国甘粛省、寧夏回族自治区、ツングート系の牧畜、狩猟、農耕の騎馬民族)、中央アジアのサマルカンドからバーミヤン、イラン高原、東欧のロシアと遠征を重ね・・・ユーラシア大陸の大半を版図に収めたモンゴル帝国の祖。
その大遠征は流血の虐殺と略奪の歴史であったかは・・・? 
武力の強い国が弱い国を襲い覇権をひろげていく歴史は古来から行われていました。匈奴のアッチラ大王、マケドニアのアレキサンダーの大遠征、古代ローマ帝国のシーザーの大遠征、ゲルマン大移動、大航海時代の新大陸への進出、西欧諸国のアジアへの植民地政策。侵略ですがよく言えばグローバリズム。チンギス・ハーンだけを覇権主義の権化と言えません。
軍門に降るものは受け入れ、君臨すれど統治せず・・・固有の文化への不介入、人種、民族の差別をしない、宗教の自由、行政、経済は任せ、徴税のみ行うという政策をとったようです。
刃向うものは徹底的に非戦闘員ともにすべて滅ぼしてしまう屠城戦略は・・・現代でいえば無差別爆撃。原子力の一極集中です。これを一部で見せつけることにより流血を避けて侵略を容易にしました。ただ最後は内部崩壊などでモンゴル帝國は自壊していきます。キプチャック汗国のロシア支配は18世紀はじめロシア帝国が建国するまで続きました。ロシア帝國はその手法を継いで農奴制度を強化、シベリアでは先住民族を押しつぶし東進していきます。モンゴル帝国本体は中国東北部の半農半狩猟の騎馬民族の女真族の建てた中国の清王朝の植民国になり辛亥革命まで続きます。


※コメント欄オープン。

草原の国モンゴル紀行⑥・・・大草原の・・・空と雲と星と花と鳥と草原と山と森

2018-10-26 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

モンゴルの旅・・・首都ウランバートルから東へ50㎞、テレルジへ・・・
観光客対象のゲル宿泊設備・・・点在して10か所近くツーリストキャンプがあります
ゲルは移動式ではなく固定されています。食堂、トイレは別ゲルになっています。木造の小屋もあります。



大草原です・・・農耕民族のわたしたちから見れば・・・なぜ農地に開発しないのかという・・・疑問が生じます。
-40℃の酷寒、夏期は40℃の酷暑、年間降雨量300㎜、岩盤と砂礫の土壌、農耕を寄せ付けない地・・・草原の地を剥がせば砂漠化するそうです。
この地に生まれた人々は遊牧という生き方で何千年も自然と共生してきました。






テレルジの集落です。
※撮影日は2017年7月8日。

司馬遼太郎著「草原の記」(新潮社 1992年刊)を何年かぶりに読みかえしています。一モンゴル女性「ツェべクマ」さんの物語ですが流れはモンゴルの叙事詩です。司馬さんは饒舌です。話があちこちに飛びます。匈奴、アッチラ大王。チンギス・ハーン。モンゴル帝国二代オゴティ―・ハーンが築いたカラコルムの都。曲折を経てモンゴルは「人民共和国」(社会主義に無縁なモンゴルがソ連邦の傘の下になったというのもいろいろわけがあります)になります。、ツェべクマさんはたまたま司馬さんが1973年週刊朝日連載「街道をゆく」の取材で訪れたモンゴルでガイドについてくれた人です。司馬さんのレンズは時代の趨勢に翻弄されたモンゴル、ツェべクマさんを追います。
ツェべクマ」さん・・・シベリア生まれ(1924年生まれ)のブリヤード族、ロシア革命のあとの弾圧の中で一家は内蒙古に脱出、ホロンバイル草原ハイラル(現中国内蒙古自治区)の近くで育ちます。満州国時代です。日本は植民地として武力下に置きましたがインフラの整備、教育などにも力を入れました。高塚シゲ子という先生に教わります。優しくて、行儀のしつけに厳しくて、モンゴル人の尊厳を大事にしてくれた人だったそうです。高塚先生は1945年8月の敗戦後の混乱期に現地人に射殺されます。生き残った後輩の先生が帰国するときモンゴルの子供たちがハイラル駅まで餞別や食べ物を持って見送りに来てくれたそうです(このことで高塚先生の魂は救われたのではないでしょうか)。聡明な人で教師になります。日本の東京高等師範学校に留学した方と結婚、やがて1966年から毛沢東の主導で始まった文化大革命、ご主人は日本留学の高学歴者、モンゴルの民族主義者として糾弾されます。夫の勧めで一人娘を守るために生地ソ連邦ロシア共和国チタ州(現ロシア連邦シベリア連邦管区ザバイカリエ地方)に親戚を頼って脱出。そのごモンゴル人民共和国に入国。国外退去を命ぜられることなく労働許可証を交付され、国営ウランバートルホテルの渉外係りに職を得ます。時が経ち国籍取得、夫との再会。夫の最後を看取ります。自国語の他にロシア語、中国語、日本語ができます。そのことは彼女の歴史そのものでしょう。
司馬さんが最後に問いかけます。

ツェべクマさんの人生は、大きいですね
彼女は切りかえすように答えた。
私のは、希望だけの人生です

※ツェべクマさんは退職したあと、ウランバートル郊外ダンバダルジャーにブリヤード風の木造小屋を建てて花や野菜、牛や羊とともに晩年を過ごしたそうです。ダンバダルジャーにはあの大戦の終ったあと中国東北部(満州)にいた日本兵13847人がモンゴルに抑留されて強制労働に就労、異国の地で亡くなった方1684人、うち835柱の墓地があります。ツェベクマさんは1972年の国交開始後、訪れる日本の政府要人、民間人、墓参団、観光の人に接し、モンゴル日本友好協会顧問を務め、日本政府から勲五等宝冠章を受けています。
いまはテレルジにお母さんの遺志を継いでモンゴル工科大学教授を勤める娘さんがご主人とともに季節限定のツーリストキャンプを経営しています。


※コメント欄オープン。

草原の国モンゴル紀行⑤・・・モンゴル帝国・・・栄枯のあと・・・カラコルム・・・エルデ二・ゾー

2018-10-25 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

モンゴルの旅のはじめは首都ウランバートルから西へ360㎞(長距離バスで6~7時間)、モンゴル帝国の王宮のあった「カラコルム」へ・・・
13世紀から14世紀。ユーラシア大陸のほとんどを版図に収めたモンゴル帝国の都・・・栄枯盛衰・・・廃墟となって・・・
16世紀チベット仏教の聖地に、モンゴル人民共和国の時代にふたたび廃墟に・・・いま聖地となって甦る・・・
2004年ユネスコ世界遺産「オルホン川渓谷文化的景観」登録。

百八のストーバ(卒塔婆)と400m四方の外壁の囲まれたエルデ二・ゾー(宝の寺)。


エルデニ・ゾー・・・モンゴル帝國は1271年五代フビライ・ハーンのときに大都(北京)に都を遷し元王朝に。そのご元朝は内部から崩壊、1368年明朝が成立、元王朝は滅び、ふたたびカラコルムに北帰行、分裂を繰り返し弱体化、王宮も廃墟に。1487年ダヤン・ハーンがモンゴル諸民族を統一して中興、1586年アバダイ・ハーンが廃墟になった王宮を解体、王宮の廃材を使ってチベット仏教(モンゴル仏教)の寺院エルデニ・ゾーを建立。20世紀はじめソ連邦の傘下となったモンゴル人民共和国の時代、モンゴル仏教排斥のため破壊され廃墟に、20世紀終りに民主化したモンゴル国の誕生でふたたび整備されラマモンゴル仏教の聖地に。

西門から中に入ります。

ゴルバン・ゾー・・・東寺、中央寺、西寺の3つの寺の総称・・・中国建築様式です。

ソボルガン塔・・・チベット建築様式の仏舎利塔です。

ダライ・ラマ・ゾー・・・


東門から外に出ると・・・亀趺(きふ)・・・かつてのカラコルム王宮の遺構・・・碑文の台座だったという亀石が3基見られます。
※撮影日は2017年7月7日。
モンゴル帝国の栄華と衰退の夢のあとです。

カラコルム・・・1235年チンギス・ハーンの3男で、クリルハイ(部族集会)でモンゴル帝国二代ハーンに指名されたオゴデイ―モンゴル帝国の首都として築いた王宮の街。東西1500m、南北2500mの城壁に囲まれていたといいます。古いモンゴル語、チュルク語で「カラ」は「黒い」を意味するが、「コルム」の意味は不詳・・・「山、川、砂礫」などと推定。
モンゴルがユーラシア大陸に版図を広げたのはオゴディ―・ハーンの時代、カラコルムはモンゴル帝国の中心、すべての富が集まったといわれます。
いまはわずかな城壁の跡と亀趺(きふ)が遺構として残るのみ。現代モンゴル語でハラホリンと呼ばれる人口20000人余の町がかつての城外にあります。

モンゴル帝国は・・・やがて4つの独立帝国に分かれていきます。
元王朝・・・チンギス・ハーンの4男トルイの子フビライが中国の金、南宋を亡ぼして中国に1271年建国。1368年明国に滅ぼされモンゴルに撤退。
キップチャック・ハン国・・・・チンギス・ハーンの長男ジョチの子バトウがロシアから13世紀に東欧に建国。18世紀初めロシア帝国の誕生まで続いた。
チャガタイ・ハン国・・・チンギス・ハーンの次男チャガタイが13世紀に中央アジアに築いた王国、チムール王朝、ムガール王朝に続く。
イル・ハン国・・・チンギス・ハーンの4男トルイの子フレグが13世紀から14世紀にイラン高原を中心に西アジアに築いた王国。

※コメント欄オープン。

草原の国モンゴル紀行④・・・ブルド・・・ツーリストキャンプあたり

2018-10-24 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

モンゴルの旅のはじめは首都ウランバートルから西へ360㎞、モンゴル帝国の王宮のあった「カラコルム」へ・・・

カラコルム観光のベースキャンプになるブルド・・・ツーリストキャンプ・・・

ブルドの少女・・・

モンゴルでは兎は家畜として飼わないようです。野兎がいっぱいいてゲルのまわりにもやって来るからです。


モンゴル馬の母子・・・体高125~145㎝(肩まで)、体重350~400kg、現在見られる西洋馬がおよそ体高160㎝。450~500㎏であるからずいぶん小さい。
短足胴長、粗食に耐える、X脚、蹄外向き、蹄固く蹄鉄不要、スプリント系ではなく長距離系、側対歩で走るため人が疲れない。騎馬民族の戦闘機。
馬乳はモンゴル人の飲むアルコール度2~3%の馬乳酒になる。


このあたりにはエルスン・タサルハイ(砂の飛び地)と呼ぶ砂丘・・・が見られます。
※撮影日は2017年7月7日。

草原の国モンゴル紀行③・・・アルドゥラーンの遊牧地・・・ゲルでお食事とアトラクション

2018-10-23 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

2017モンゴル紀行・・・です。
モンゴルの旅のはじめは首都ウランバートルから西へ360㎞、モンゴル帝国の王宮のあった「カラコルム」へ・・・
途中、立ち寄ったアルドゥラーンの遊牧地・・・ゲルの中でお食事とアトラクションです。

馬頭琴の演奏・・・

馬乳酒・・・



羊のクルブシの骨(シャガエ)で・・・ゲーム・・・


※撮影日は2017年7月6日。

草原の国モンゴル紀行②・・・アルドゥラーンの遊牧地のゲルの風景

2018-10-22 | 道をゆく 台湾・中国・モンゴル
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

2017モンゴル紀行・・・です。
モンゴルの旅のはじめは首都ウランバートルから西へ360㎞、モンゴル帝国の王宮のあった「カラコルム」へ・・・

途中、立ち寄ったアルドゥラーンの遊牧地・・・ゲル(移動住宅)です。
ゲルとはモンゴルの言葉で「」の意味です。中国では形状から苞(パオ)と呼んでいます。
柳の木で作った骨組み、羊のフェルトで覆っています。大人3~4人で1時間たらずで組み立てられるそうです。
入口は南南東に向かっています。冬の北北西の強い風を避けるためだそうです。


モンゴル帽子、民族衣装のデール。靴はゴダル。

デールはコートのような丈の長い上着。立襟、日本の着物のように打ち合わせがあり左前に合わせ帯でしめる。
単衣、綿入れ、裏地に羊の皮を張ったもの。日常着から晴れ着まで。部族、男女、年齢、未既婚によって400種類以上。


※撮影日は2017年7月6日。