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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

2019惜別の人・・・薩摩焼・・・沈壽官窯・・・十四世沈壽官

2019-12-23 | 惜別
2019年6月16日、鹿児島県苗代川(のしろこ、現いちき串木野市東市来美山)の沈壽官釜の14世沈壽官氏が亡くりました。
2019年6月25日のブログに掲載した追悼文です。


沈壽官釜・・・2007年12月、この地を訪れたことを思い出しています。
写真の酒器はそのとき求めた黒薩摩焼の焼酎用の酒器・・・本来は土瓶を平らにしたような形でチョカ(ヂョカとも)というようです。お燗して酌み交わします。写真のものは徳利に注ぎ口を付けたチョカです。

薩摩の苗代川の薩摩焼、沈壽官釜の当主14世沈壽官氏(1926年~2019年)のことを書いた司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」(初出1968年)があります。
小説というより歴史随想というか司馬遼太郎独特の語り節です。十四世沈壽官さんの出会いから始まり例によって司馬流の語りが展開していきます。文庫本60頁たらずの短編です。

1597年豊臣秀吉のはじめた朝鮮出兵「慶長の役」・・・朝鮮全羅北道南原城の戦いで逃げ遅れた70名ばかりの男女が島津軍の捕虜となります。この時、意識して朝鮮磁器の工人を捕虜にしたかは定かではないようです。結果的に連行してきた捕虜が磁器の技術をもっていたかも知れません。
島津軍に捉えられた一行は島津軍撤退に従って日本に来ますがどうも単独で鹿児島県串木野の島平というところに上陸したようです。偶然に流れ着いたということでしょうか。数年を経て現在の土地に移住、以来曲折はあったでしょうが薩摩藩では彼らを郷士として処遇します。薩摩藩は彼らの住みついた苗代川の土地に居住を限定して韓語、生活習慣、結婚などの制限をして士分としての扶持を与え、彼らの焼き物の専売を行います。製造工場、販売元の独占です。彼らの焼く白薩摩、黒薩摩は藩の財源になりました。
明治維新、薩摩藩の庇護から外れた彼らは平民になり、あるものは改姓します。韓語はすべて日本語になり、窯業の専門用語だけ残ります。太平洋戦争終戦時の御前会議の出席者東郷茂徳外務大臣はこの村の出身、明治時代に朴氏から東郷氏に改姓しました。明治維新後、戊辰戦争には官軍として、西南戦争には賊軍としてこの村から兵士を送り出しています。
14世の父13世は京都大学法学部卒、14世は早稲田大学政経学部卒。村の小学校から旧制鹿児島二中に入学したとき、その姓からか呼び出しを受けいわれなき鉄拳の雨を受けますが、そのご一対一の対峙で自分を認めさせていったそうです。薩摩人以上の薩摩人の意地を通したのです。

沈さんは韓国に招かれたとき、ソウル大学の講演で、反日の嵐の中の学生たちにこう語りかけます。

「あなた方が三十六年をいうなら」
「私は三百七十年をいわねばならぬ」
「新しい国家の建設のためには前へ前へと向いて行って欲しい」


学生たちの大合唱の前で身をふるわせて立ちつくします。


故郷忘じがたく候」・・・・・・・・は薩摩上陸以来200年もたったある日、尋ねてきた人の問に答えてつぶやく古老の言葉です。

十四世沈壽官・・・本名大迫惠吉(1926~2019年6月16日)、早稲田大学政経学部卒、1964年第十四世沈壽官に、1999年に世襲名を十五世に譲る。

※コメント欄オープン。

2019年惜別の人・・・400勝、4490奪三振・・・不世出のプロ野球大投手・・・金田正一

2019-12-22 | 惜別
日本プロ野球界・・・不世出の大投手「金田正一」・・・2019年10月6日…永眠。

★まずNBP記録を列挙・・・
・完投試合数  365・・・登板試合数944(第2位)、先発試合数569(第4位)
・通算勝利数  400・・・年平均20勝
・通算敗戦数  298
・三振奪取数 4490・・・年平均224
・投球回数   5526.2・・・年平均276
・対戦打者  22078
・与四死球   1808

誰が何といっても不世出の大投手です。

たぶん、これらの記録は永久に破られないであろう記録であると思えます。それは、金田投手の天賦の才能、体躯もありますが、現在のプロ野球の環境、投手の投球数管理、登板後の休養、起用法の仕方が先発、中継ぎ、抑えというシステムに変わったということからです。
登板数944は2位,1位は中日ドラゴンズの岩瀬仁紀の1002ですが救援投手(クローザー)で1試合1イニングであり条件が全く違います。
三振奪取数の多いのは当時の国鉄スワローズが「打てない、守れない」チームであったから。三振を取るより仕方がなかったから…といわれています。
負け試合数が多いのは得点力のないチームであったからです・・・生涯防御率は2.34・・・打たれて負けているからではないのです。

金田正一(かねだまさいち)・・・1933年~2019年10月6日、愛知県中島郡平和村(現稲沢市)出身。在日韓国人2世、のち日本国籍取得。1955年愛知享栄商業3年の夏、甲子園出場の予選準決勝敗退、享栄商業を中退、当時のセントラルリーグ国鉄スワローズに入団、1950年8月23日17歳で先発デビュー。この年8勝を挙げている。以来1964年まで国鉄スワローズで14年1/2、353勝、1965年から1969年までの5年間読売ジャイアンツで5年間47勝

数々の記録を見れば誰が何といっても大投手ですが弱小球団ゆえに人気球団の選手のようなヒーロー、アイドルになれませんでした。
いろいろな逸話があります。弱小球団のワンマン(天皇と呼ばれた)です。監督の指示なしでマウンドを降りるとか、マウンドに上がる、ピンチヒッターで出るとかは日常茶飯事だったそうです。先発で投げて勝ち、翌日でも翌翌日でも同スコアで終盤になればリリーフで登板し勝ちを稼ぐ、イージーなファウルフライは「捕るな」と叫んで三振を稼いだ。
ピッチングはゆったりとしたワインドアップからテークバックをゆったりと後ろに持っていって弓のようにしならせ大きな弧を描いて投げる。投手として最も理想的な正統派のオーバースロー、肩、肘に負担をかけないフォーム。
球種はストレートとカーブだけ、キャッチャーとはノーサイン。その球速はスピードガンなんてない時代で記録はありませんが160kmを軽く超えていたといわれます。

神宮球場や後楽園球場で見た雄姿を思いだします。
プロスポーツはエンタテイメントです。「打てば三振、守ればエラー」の弱小球団の1選手が金満球団に立ち向かってゆく姿が好きでした。

金やん」のご冥福を祈ります。


※コメント欄オープンしています。

アフガンで・・・井戸を掘ったドクター「中村哲」さんが・・・凶弾に倒れた

2019-12-04 | 惜別
WEBニュースで・・・アフガンで・・・井戸を掘ったドクター中村哲」がアフガニスタンの東部ナンガルハル州の州都ジャガルバード近郊で、仕事で現場に向かう途中、武装集団に銃撃され負傷、病院に収容、その後亡くなったことが伝えられています。

★2011年4月25日のブログ「アフガンで・・・井戸を掘ったドクター「中村哲」」・・・をコピー、少し訂正したものです。

この話を始めようとすると冒頭からたいへん長い話になります。気になる方はどうか飛ばしてください。

2007年5月20日、たいへん重くて辛い話をブログで文章にしました。
トマサ・サリノグさん・・・からの手紙です。太平洋戦争中に日本軍によって慰安婦にされた当事15歳のフィリピン女性(78歳)の話です。なぜかわかりませんが日に日に閲覧者が増えていきました(数千人)。あとから山梨のある団体がトマサ・サリノグさんのことをテーマにしたミュージカルを2008年5月に予定していることを知りました。ミュージカル主宰の事務局が私のブログをトマサ・サリノグさんを知るためのテキストとしてリンクしてくださったのです・・・この話は以上で省略します。カテゴリーにトマサ・サリノグとして3編残してあります。

ミュージカルの名前は「ロラ・マシン物語」・・・このとき山梨の関係者からたくさんのコメントをいただき、その熱気に感動しました。いまも拙ブログを熱心に応援してくださってるかたがいて、今年5月にアフガニスタンで医療支援を続けておられる中村哲医師の活動をテーマにしたミュージカルをされることをブログで知り何かお手伝いしようと思っていました。



アフガニスタン・・・難しいですね・・・。
わたしだけかも知りませんが何一つ知りません。知っているのはタリバン、イスラム原理主義、オサマ・ビンラディンという言葉だけぐらいでしょうか。怖いテロ国家という感じがしますね。

少しにわか勉強しました。アフガニスタン・・・中東アジア、地図で見るとパキスタンはじめ6国と国境を接しています。国土は日本の1.7倍、人口2800万人、80%が農業、10%は林業、遊牧蓄業。
画像クリックすると地形図が・・・80%以上が山です。しかも国土の真ん中に最高峰ティリチ・ミール(7708m)のあるヒンズークッシュ山脈が横たわっています。年間降雨量は日本の10分の1、極端に乾燥した国ですが6~7000mの高峰の万年雪が夏に融けて谷間を流れてわずかな農地を潤していました。
19世紀末イギリスの植民地に、
1978年ソ連軍が侵攻、そして
1989年ソ連軍撤退からタリバンの台頭、世紀の大旱魃国連決議の経済制裁
2001年9月11日のアメリカの同時多発テロからアメリカはアフガニスタンをオサマ・ビンラディン率いる悪の枢軸として爆撃を開始。

西欧列強に翻弄され内戦を繰り返してきた悲しい国家です。
さしたる資源も生産もない国がなぜ・・・わかりません。

タリバン・・・アラビア語で「学生たち」の意味。ソ連軍侵攻で避難したパキスタンで育った若者たちが学ぶ神学校の生徒たちで組織された勢力。故国を知らずに他国で育った純粋な若者たちです。この純粋さが・・・。
(地図はWikipediaから)


中村哲さんについて・・・

1946年福岡県生まれ、母の兄(伯父)が若松港の沖仲士の組長の祖父を主人公にした小説「花と龍」を書いた火野葦平。プロテスタント系バプテスト派のキリスト教徒。大牟田労災病院の勤務医、1982年日本キリスト教海外医療協力会から派遣医(任期3年)の話が持ち込まれたのは1982年、1983年パキスタンに避難したアフガニスタン難民の医療実態を下見、親しい友人知己により1984年NPO法人BMS(べシャワール・メディカル・サービス)が福岡で発足。84年赴任、以来今日までに至る。
ベシャワールはアフガニスタンに近いパキスタンの町です。最初はハンセン病患者の救済から。ソ連軍の撤退とともにアフガニスタンにも入っていくようになります。山奥深く無医地区を回ります。学生時代から昆虫を追いかけて登山をしていたようで体の丈夫なかたのようです。電気もない、水道もない、ガスもないアフガニスタンのことを知るようのなります。そして2000年夏に襲ったユーラシア大陸中央アジア一帯の地球環境の激変ともいうべき未曾有の大旱魃(かんばつ)です(この報道は世界的にはあまりされなかったそうです)。
ソ連軍の撤退、タリバン政権と規制勢力との衝突、西欧列強の経済封鎖、このへんのところはドロドロしていて魑魅魍魎ですので省略。アフガニスタンの田舎は中央政治とまったく関係ない社会。旱魃と経済封鎖、破壊された設備、地雷原、無差別爆撃(タリバン勢力だけ狙うなんてできません)、それでも生きていかねばなりません。
中村医師の飢餓との戦いがはじまります。「まず生きることから」・・・自給自足農業のための井戸掘リが始まりました。まともな飲料水がないと赤痢が蔓延するそうです。砂漠にはむかしからカレーズという縦井戸を地下水路で繋いでいく用水方式があります。ソ連軍の侵攻と内戦で破壊されたカレーズの再生にもかかります。

2005年までに1400本の井戸を掘ったそうです。井戸掘りは近代的な器械を使ったものではなく古来からの伝統技術で、用水路は蛇篭など日本でもむかし見られた技術を。そうしないとあとから彼らだけのメンテナンスができないからだそうです。用水路に沿って柳、ユーカリの木を植えます。

何が彼をそこまで駆り立てたのでしょうね

中村医師はタリバンでもイスラム教徒でもなく過激派でもなく、敬虔なクリスチャンです。むしろ古風な九州人気質、若松の沖仲士の親分の祖父の血を継いだ侠気の人のようです。

2001年10月、衆議院で参考人として出席し「自衛隊派遣が取り沙汰されているようだが,当地の事情を考えると有害無益である」と陳述します。

参考に読んだ本です。

「医者井戸を掘る」
中村哲著、蓮岡修(現地報告)
「タリバン」
田中宇著(光文社 2001年刊)
「アフガニスタンで考える」
中村哲著(岩波ブックレット 2006年刊) 
「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」
中村哲著・澤地久枝(聞き手)(岩波書店 2010年刊)

下の写真は「アフガニスタンで考える」(岩波ブックレットから)
イスラム教の国アフガンで異教徒で異民族で民衆の中に入っていける人、不思議な人です。目線を同じに置ける人、人柄でしょうね、それが彼らにわかるのでしょう。ヘンな帽子、ヘンな髭は彼らと同じに付き合うためのようです。

戦争をしない国の日本人として見られてきたそうです。そのごの情勢はそうではなくなったようです。日本も戦争を仕掛ける国に追従して協力国になったのです
「眼には眼を」の国です。自分の妻や子どもが無差別爆撃(ピンポイント攻撃なんてありえません)でやられたら復讐を誓うのがコーランの教えだそうです。それでも彼はこの仕事を続けるでしょう。

1988年外務大臣賞、2002年若月賞(長野県佐久総合病院名誉院長若月俊一記念)、2002年沖縄平和賞(沖縄県主催)、2003年マグサイサイ賞、2004年イーハトーブ・宮沢賢治賞(岩手県花巻市主催)、2016年旭日双光章(叙勲)、2018年アフガニスタン国家勲章・・・など26の受賞。2019年アフガニスタン名誉市民権授与。

中村医師の活動をテーマにしたミュージカル「ドクター・サーブ は2011年5月8日甲府市で公演。
わたしのコメントフレンド山梨のこきおばさんの→中村哲医師に関するブログです。


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「苦界浄土」・・・水俣病とともに生きた・・・石牟礼道子さん・・・が亡くなられました

2018-02-11 | 惜別
日本の四大公害の一つといわれる「水俣病」・・・生涯の業として追い続けた・・・石牟礼道子さん・・・が2月10日亡くなられました。90歳。

1950年代、熊本県水俣市の「チッソ水俣工場」が触媒として使用した無機水銀の副生成物であるメチル水銀を含んだ 廃液を不知火海に無処理でタレ流したため水俣市周辺に奇病が発生したことが表面化・・・のちにいう「水俣病」。
この問題を筆で取り上げたのが石牟礼道子さん、第1稿は1960年同人誌「サークル村」に、1965年「熊本風土記」に原題「空と海のあいだで」で書き続けられ、1969年「苦界浄土」として出版。第1回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するも「いま苦しんでおられる患者のことを思うと」と辞退。

・・・白状すればこの作品は、誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの、である。
ことのなりゆきから、死者たちへの後追い心中のごとき運動の渦中にも、出没せねばならない羽目におちいったが・・・
(苦界浄土」旧版文庫版あとがきより・・・1972年)。

苦海浄土わが水俣病」(講談社 1969年刊)
苦海浄土―わが水俣病」(講談社文庫 1972年刊)

石牟礼道子(1927~2018年)・・・熊本県天草の出身、石工である父の仕事で水俣市に。水俣実務学校卒業後、代用教員に。主婦、詩歌を中心に同人誌活動を。1965年、水俣を書きだして半世紀、解説によれば「聞き書きなぞではないし、ルポタージュですらない・・・石牟礼道子の私小説である」と。著者自身もあとがきで「浄瑠璃のごときもの・・・」といっている。
魂の叫び」・・・





毒の列島 身悶えつつも 野辺の花

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2010年10月27日のブログ→クリック→「東洋一の鉱山だった神岡の町・・・そしてイタイイタイ病
2012年1月10日のブログ→クリック→「上州・・・安中駅・・・駅のそばの巨大工場を見た
2015年5月18日のブログ→クリック→「5月の渡良瀬遊水地・・・不毛の大地に・・・オオヨシキリが叫んでいる

足尾銅山の鉱毒、神岡鉱山のイタイイタイ病、水俣病、新潟水俣病、安中亜鉛工場のカドミューム公害、四日市公害、ビキニ環礁水爆実験、チェルノブイリ原発事故、福島原発水素爆発・・・天災ではなく人災と呼ばれる事故・・・これからも孫子の代に続かないとはだれもいえません。

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胎内被曝の女性の物語り・・・「夢千代日記」・・・脚本家早坂暁さん・・・追悼

2018-01-08 | 惜別
今日の午前10時55分ごろ、何気にテレビを視ていて早坂暁さんのオリジナル脚本の・・「夢千代日記」を視た。
早坂暁さん・・・昨年の暮れの12月17日、亡くなられました。

NHKテレビドラマ「人間模様 夢千代日記」・・・1981~1984年3シリーズ全21話。
兵庫県美方郡温泉町(現新温泉町)湯村温泉を舞台に1945年8月広島原爆で胎内被曝した女性の物語りです。



早坂暁・・・1929年愛媛県温泉郡北条町(現松山市)生まれ、実家は四国札所巡りのお遍路道に接した商家。旧制松山中学から江田島の海軍兵学校に。
1945年8月15日敗戦。旧制松山高校から東大医学部に合格するも日本大学芸術学部に。業界紙の編者者を経て脚本家、小説家をめざし、やがて放送関係、舞台関係に。手がけた脚本、小説、1000作以上。

海軍兵学校在学の15歳のときの1945年8月6日広島市に原爆、15日敗戦、広島に行っていた「」(巡礼に置き去りにされた女の子を実家で引きとって娘として育てた)を探して原爆被災直後の広島市内を彷徨った。焼け野原の中で赤ちゃんの泣き声を聞いたという。

胎内被曝の女性を描いた「夢千代日記」の原点は、この広島を彷徨い歩いたことからと語っています。

早坂暁追悼・・・「夢千代日記」は今日の深夜、正確には明日9日のAM1:55~2:45 10日のAM1:45~3:15・・・放映されます。
とても起きていて視られる時間ではないので録画しておいて視ます。


※コメント欄開いています。


新田次郎の奥さん・・・藤原ていさんが亡くなられました

2016-11-22 | 惜別
                                 、
2016年11月15日、小説家故新田次郎さんの奥さんの藤原ていさんが98歳で亡くなられたことが新聞で報じられていました。
2016年8月29日、藤原ていさんのことをブログにしていました。そっくりそのままですが追悼の意味をこめて再掲載します。

満蒙の国から決死の逃避行・・・
流れる星は生きている・・・新田次郎の奥さん藤原ていの遺書

いまから71年前の8月は、米軍爆撃機により6日に広島に、9日に長崎に原子爆弾が落とされ、9日にソ連が旧満州国(現中国東北部)への進攻を開始、15日に日本が連合国側からのポツダム宣言を受諾して無条件降伏・・・日本が戦争に敗れた日。

もう71年も前の8月、日本に原子爆弾が落とされたとか、日本が戦争に敗れたとか、旧満州国とか、中国、東南アジアにいた日本人、満州国にいた日本人の引揚げ、シベリア抑留、中国残留孤児とか、遠いむかしの歴史の話しになりました。知らない人のほうが多いでしょうね。

日本人としてぜひ語り継いでもらいたいあの戦争の話しをカテゴリー「語り継ぐ責任 あの戦争」として取り上げてきました。
今回は、旧満州国でソ連参戦から、連合国への無条件降伏、その直後から日本に帰国までの一人の婦人の手記を紹介します。

その婦人の名は藤原てい・・そのとき27歳。満州国新京市(現長春市)の観象台仁勤めていた技手の藤原寛人(後の作家新田次郎)の奥さん。
8月9日のソ連参戦、その日の夜10時半に日本への引揚げ準備開始、6歳の正弘、3歳の正彦、生後1ヶ月の咲子を連れて10日1時半新京駅集合、10時新京駅出発、12日北朝鮮宣川駅到着、収容所とした農学校に入所。15日天皇陛下の敗戦の詔勅を聞く。17日米ソの同意により朝鮮半島に38度線が引かれ北はソ連仁南はアメリカの支配下に。これにより交通手段が遮断され宣川の日本人は停滞を余儀なくされます。8月18日夫寛人が宣川に、10月28日寛人はソ連軍の捕虜としてふたたび満州に(シベリア行きは免れ中国八路軍の雑役として延吉市で過ごします)。日本人の集団はここでわずかな所持金で約1年間の収容生活を送ります。子どもたちは幼児です。0歳児の咲子さん。噛み砕いた大豆を口移しで与えます。長男の正弘がジフテリアにかかったとき朝鮮人の医師の血清処置で救われます。夫の残したロンジンの時計、売れば300円くらいのものを医師は1000円で買ってくれ医療費にしてくれます。子どもたちを日本に連れて帰るために行商、物乞いもします。それが夫との約束だったからです。目立たないところに食物を捨ててくれる朝鮮人の婦人もいました。
宣川で冬を過ごし春を過ごしまた夏がやって来ます。汽車で平壌経由で38度線近い新幕まで行き、そこから38度線を徒歩で越えて90㎞先の南朝鮮の開城を目指そうという話しが進められます。
1946年8月1日宣川駅発、平壌に。8月3日新幕駅に。
そこから徒歩の旅がはじまります。7歳の正弘。4歳の正彦の手を引っ張って、1歳児の咲子はリュックの中に。山を越え丘を越え川を渡り、咲子には噛み砕いた大豆を口移しに。8月11日開城の避難所に収容され、8月26日釜山港発、9月12日博多港上陸

諏訪の実家にたどりつき、夫寛人も帰国、中央気象台に復職。ていさんは全身衰弱で這いずるまわるような毎日。夫の給料はていさんの治療のためのペニシリン購入費に。死を覚悟して夫や子どもたちへの遺書として満州からの逃避行の経験をノートに書き綴ります。
ようやく体力が回復して普通の生活が見込めるようになったとき遺書として書き綴った2冊のノートを夫に見せます。
俺に預けてくれ」といった藤原寛人の手配によってこの遺書が本になったのは1949年。

藤原てい流れる星は生きている」(日比谷出版 1949年刊)
20世紀の日本人から21世紀の日本人への遺言です。
※タイトルは北朝鮮の宣川で1年間を過ごしたとき何かと親切にしてくれた北朝鮮の保安隊の金さんというかたに教えてもらった歌の一節です。南方で日本部隊にいたとき覚えたといいます。この歌を作詞した日本兵も作曲した日本兵も終戦間際に戦死したそうです

  わたしの胸に生きている
  あなたの行った北の空
  ごらんなさいね 今晩も
  泣いて送ったあの空に
  流れる星は生きている


戦争を肯定するのでもなく、否定するのでもなく、旧満州国、旧朝鮮半島という日本の植民地政策を批判するのでもなく、ただ戦争で起った普通の人の苛酷な経験をそのまま書いた手記(小説形式でフィクションも混じっている?)です。
流れる星は生きている」は大ベストセラーになりました。ノンキャリアの気象台の技手の藤原寛人を国民的小説家新田次郎に導いたのもこの書がきっかけでした。
藤原てい(1918年~)・・・長野県諏訪郡湖東村笹原(現茅野市、標高1100m)生まれ。典型的な信州諏訪人。誠実で、気性激しく勝気、ストイック。幼子3人を抱えて無事帰国したのは執念、根性、母である本能。

※併せて読んでほしい本を紹介します。
新田次郎望郷」(文藝春秋 1965年刊)
藤原てい旅路 自伝小説」(読売新聞社 1981年刊)
藤原咲子父への恋文」(山と渓谷社 2001年刊

新田次郎に関するブログクリック


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惜別・・・永六輔さんが・・・「遠くに行った」・・・

2016-07-20 | 惜別
永六輔さんが「遠くに行った」・・・

TBSラジオ永六輔の誰かとどこかで、土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界
今も・・・スイッチを入れれば、あの舌足らずの発音のおしゃべりが聞こえてきそう。


永六輔(1933~2016.7.7)・・・東京は元浅草の最尊寺の住職の子として生れる、本名永孝雄、祖先は江戸初期に中国から渡来した学僧、祖父、父は姓を「ヨン」と名乗っていて、本人は在日外国人17代目といっていたそうだ。日米大戦の敗色濃厚な1944年、小学生の時に長野県北佐久郡南大井村(現小諸市)に疎開、1946年旧制上田中学校入学、1947年東京に引揚げて旧制早稲田中学校へ。1952年早稲田大学中退、放送作家の道に。元放送作家、元作詞家、随筆家、放送パーソナリティー・・・多彩な顔を持つテレビ草創期から現在に至るまで主として電波を通して活躍したタレントでした。
戦中、戦後に東京の下町で育った焼跡派、江戸っ子気質、そのため言っていることは筋が通っていましたがいろいろ物議をかもしたオジサンでした。さんが作曲家の中村八大いずみたくと組んで作った日本の歌・・・100年200年続くような曲があります。
上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「いい湯だな」「おさななじみ」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」・・・


遠くに行きたい」・・・自分の知らない世界を歩いてみたい・・・新しい自分が生まれる・・・永さんのライフテーマだったかも。

永さんは学生時代に民俗学者宮本常一に惹かれていたそうです。宮本常一は日本中を隈なく歩いて日本人の原点を探り続けた人です。そんな彼の心を継いで仕事の合間に旅を重ねた永さん。旅とは人とのふれあい、その土地の空気を吸うこと。
さんがいずみたくデューク・エイセスと組んで作った「にほんのうた」シリーズの「東京」。
君の故郷は」の一節・・・・・・「東京編」ですがなぜか田舎への憧憬です。。
     教えてくれ君のふるさとを
     聞かせてくれ昔からの歌を
     御先祖様の
     墓の見える畠
     泥にまみれるおふくろ
      教えてくれ君のふるさとを 
      東京にはない土と空の話を


※写真は7月17日AM9:00TBSテレビ「サンデーモーニング」から。

2011年3月11日東日本大震災、2011年3月12日福島第一原発で水素爆発、そのときラジオで永六輔さんがこうトークしていました。

天災は言いようのない悲しみ。
 人災は言いようのない怒り。
 


縄文人さんから「徹子の部屋・・・永六輔さんと大橋巨泉さんとの対談」のYou Tubegaがコメントで送られてきました。
https://www.youtube.com/watch?v=BaKdlIuYmx4

追悼・・・菅原文太さん・・・鬼気迫るラストメッセージ

2014-12-09 | 惜別
俳優の菅原文太さんが亡くなりました(1933~2014年011月28日)。モデルとして出発、俳優としては新東宝、松竹、東映と渡り歩きずっと目の出ない状態であったようですが、1948年「仁義なき戦い」シリーズで東映を代表するスターに。1975年から始まった「トラック野郎」シリーズもヒットしました。

わたしとしては一連の映画はいちども見たことがないのですが・・・ゴメンナサイ。
それでも菅原文太さんの出演したテレビドラマで強烈な印象を受けた作品がひとつあります。

2009年9月30日、テレビ東京開局45周年記念ドラマスペシャル・・・いまから69年前にあった真実をそのままドラマ化した「白旗の少女」。

1945年6月の沖縄線・・・戦闘員ばかりでなく沖縄の一般住民もまた行き場のない避難行を続け、兄弟離れ離れれになり、たった一人になった6歳の少女が珊瑚礁の自然洞窟で逢ったオジイ、オバアに[白旗を掲げて投降しなさい]と語りかけられる場面です。

菅原文太さん扮する両手両足の無いオジイが少女にこう語りかけます。
富子、この世でいちばんたいせつなのは、人の命(ぬち)だよ」・・・・・・



それをもっていけば、ぜったいに安全なのだ。それが世界中の約束だから」・・・
                           ⊡演技以前、沖縄のオジイの語る真実のことばはいまもしっかりと憶えています。  
ガマ(自然洞窟)の中のオジイとオバアに作ってもらった白旗をしっかり持って歩いています。
カメラのレンズが銃口に見えました。レンズに向かって笑って手を振りました。
泣きっ面を見せるな。最後は笑って死ね」・・・という父の言葉を思い出したのです。



11月4日菅原文太さんが沖縄で、こんなことを語っています。亡くなる3週間前です。鬼気迫る語り・・・メッセージです。
⊡以下、そのメッセージの抜粋です。

  政治の役割りは二つ、ひとつは国民を餓えさせないこと。
  もうひとつは、これは最も大事です、絶対に戦争をしないこと。

  沖縄の風土も、本土の風土も、海も、山も、空気も、風も、すべて国家のものではありません。
  そこに住んでる人たちのものです。

  アメリカにも良心のあつい人々がいます。中国にもいる、韓国にもいる。
  その良心ある人々は国が違っても同じ人間だ。みな手を結びあおうよ。


画像をクリックで、その演説のYouTube 「菅原文太氏のスペシャルゲストあいさつ」
⊡文太さんはこの演説の9日後の11月13日に入院、11月28日帰らぬ人になりました。

ご冥福をお祈りします。

※この稿はカナダ在住の「木霊の宿る町」さんのブログ→2014.12.01 Monday 菅原文太@コメコメ・資料沖縄知事選・・・、千葉県在住のshizukataさんおブログ→菅原文太さんが亡くなったを参考に起こしました。 
「白旗の少女」のブログ→クリック

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良書を世に送り出した・・・小宮山量平さん・・・「千曲川四部作」

2012-04-16 | 惜別
長野県上田市・・・JR長野新幹線、第3セクターしなの鉄道・・・上田駅の東口を出るとロータリーの左側に「若菜館」という鰻屋さんがあります。ずいぶんむかしのことですがここの三階(だったかな?)小宮山量平の・・・理論社の出版物・・・今江祥智の優しさごっこ、灰谷健次郎の「兎の眼」、倉本聡の北の国から・・・など知ってる本が並んでいました。

素晴らしい本を出版する理論社の社長小宮山量平さんのことを知ったのはそのときからです。
そのあと数年後に読んだ本が・・・「千曲川 四部作」


小宮山量平さんが4月13日に亡くなったことをラジオで永六輔さんが話していました。日曜日の朝日新聞で今江祥智さんが追悼文を書いていました。

小宮山量平(1916年~2012年)95歳、天寿を全うしました。上田市で酒屋の十一男として生まれ2歳のとき母が亡くなり望月町の母方の祖母に育てられ10歳のとき父が亡くなり、ほどなく家業が倒産、叔母、叔父の住む東京へ。小学校卒業後、第一銀行に入社、渋沢敬三監査役(渋沢栄一の孫)の給仕になったことがその後の人生の指針になりました。大倉高商(現東京経済大学)夜間部、アカ活動で検挙・転向、釈放後、給仕の先輩の父(本富士署特高警察主任)の世話で 私立興亜商業学校に編入、中学校卒業資格取得、東京商科大学(現一橋大学)に進学・停学・復学・卒業。旭硝子入社、23歳で徴兵検査、陸軍二等兵として帝國陸軍第七師団(旭川師団)に入営、幹候(予備士官学校)を経て少尉に、北海道釧路郊外天寧で終戦を迎え、上田市に帰郷、姉の嫁ぎ先である上田駅前の鰻屋「若菜館」の養女と結婚、31歳。

「千曲川四部作」は生い立ちから青春、兵役、終戦までを書いた2500枚の大作。1997年81歳から2002年まで、5年の歳月を費やして書かれた20世紀からの遺言ともいうべき作品です。

この人には天性の笑顔(愛称フクチャン)があったようです。これが人を和ませ自分を助けます(人に助けられます)。渋沢敬三との出逢い・・・渋沢財閥の御曹司、終戦後の大蔵大臣、財閥解体、自らの渋沢財閥も財産税で解体させてしまいます。民俗学、人類学などの研究者のパトロン、数百億円を研究者たちに援助したといわれます。窪町小学校時代に近所に住む鈴木貫太郎(退役海軍大将、元侍従長)と顔見知りに、鈴木貫太郎はポツダム宣言の受諾時の総理大臣、御前会議の演出者といわれています。渋沢敬三はアカで検挙され第一銀行の職を失いながら大学入試に成功した量平に(金品ではなく)モンテーニュの「随想録」を、鈴木貫太郎は「天空海闊」と書いた色紙を、本富士署の特高主任は「天空開豁」と書いた色紙を贈ってくれます。。旭川の師団では陸士出身の陸大入試を控えた士官に二等兵の身でありながら社会科学の講義をします。予備士官学校時代、同郷(屋代・・・現千曲市)の先輩、山田乙三大将(敗戦時の関東軍総司令官)に私的に面談、日米もし開戦すればと問われ日本は負けますと答えます。商科大学の出身ですから日米の戦力比(1:74)など十分すぎるほど知っていました。
第四部でこう書いています。
・・・今更のように惜しまれる命の散華であった。せめてあの東京大空襲以前に《天の声》があったなら、欲を言えば昨秋のレイテ沖海戦の直後に、そして第二次の学徒動員の前後に、「戦争の完遂に関する声明」ではなく「戦争終結の詔勅」の如きものが発せられたら・・・
兵役の部分が全体の1/3を占め軍隊のことを知らない人には不明の部分があるかもしれません。戦争や兵役の賛歌ではありません。「サヨナラダケガ人生ダ」と口ずさみ入営した筆者は何の巡りあわせか中国戦線にも南太平洋の戦線にも派遣されず敗戦を迎えました(次兄は硫黄島で戦死)。多くの人への鎮魂の思いがあったかもしれません。
戦後、仲間たちで作っていた季刊雑誌「理論」に発表した「楯に乗って還れ」という文が連合軍総司令部(GHQ)により全文削除(Delete)命令を受けました。理由は左翼でも右翼でもなく共産思想でもなく軍国思想でもなく、今度の戦争を肯定するものでもなく否定するものでなく、ただ人間による人間に対する加虐の状況が追求されているという理由でした。以来、沈黙を守り一編集者、出版人の道を歩み始めるのですが、数十年ののち「青春への虐殺」の重みが「千曲川四部作」の執筆に向かわせたのでしょうか。

佐久望月の幼少時代の幼馴染み、第一銀行時代の上司・同僚、大蔵高商の仲間、アカ仲間、ブタ箱仲間、商科大学の仲間、軍隊の仲間・・・出逢いの人すべてから学んでいきます。いい人に出逢える・・・特異なものを持っていた人のようです。

一出版人のサクセスストーリーではありません。昭和史を垣間見るような大河小説です。図書館で借りて読み直していますが、蔵書にしたい本です。

量平さんが1947年に創設した理論社、編集者・発行者というものは黒子(影の人)です。一般に名前の知られたかたではありません。社名だって知られていないかもしれません。でも数々の作者を育て世に送ってきました。
その理論社も書籍業界の荒波のゆえか2010年に倒産して新しい会社になりました。
若い世代の心を育て指針になるような本を世に送りだしてもらいたいものです。

少し長いブログ文です。書くほうも疲れましたが読むほうも疲れると思います。ゴメンナサイ。

渡良瀬遊水地の野焼きが・・・立松和平を偲ぶ

2010-02-16 | 惜別
3月に渡良瀬遊水地の野焼きが行われます。渡良瀬遊水地・・・日本の公害の原点です。
2月8日に亡くなられた立松和平の小説のことが目に浮かびました。

毒 風聞・田中正造」(東京書籍・1997年刊)足尾銅山の鉱毒を糾弾した田中正造を中心にした小説。

いまから100年以上前に日本の公害1号というべき足尾銅山鉱毒事件が起こります。渡良瀬川最上流の足尾銅山から流れ出た鉱毒が裏日光一円の山を荒らし、渡良瀬川を汚し、関東平野に出て利根川流域も汚していく事件です。
政府は足尾銅山から80km下流の渡良瀬川が利根川に合流する手前あたりに鉱毒沈殿池を作ることにします。とうぜん土地を接収される百姓は反対します。渡良瀬川、利根川流域全体を鉱毒から守るにはとうぜん犠牲になるところが出るわけです。遊水地が鉱毒を防ぐベストの選択肢であったかはわたしにはわかりません。

栃木県下都賀郡谷中村・・・この村の全域が沈殿地になります。
広大な谷中遊水地、この中に消えた谷中村、村神様の「雷電神社」、村のお寺様「延命院」、共同墓地の跡地がポツンと残っています。遊水地ですから増水時には冠水するでしょう。
クリックすると塔婆が見えます。

立松和平(1947~2010年)本名横松和夫。栃木県生まれ。

さまざまな職業を経て小説家に、北海道の端から沖縄の端までさらに外国まで旅に歩き山に登り川を渉り、その考え方は地に足ついた真面目さでした。小説は驚くばかり多く童話も。ほとんど読んでいません。読み手が悪いのかも。
立松和平の母方の曾祖父は兵庫県生野銀山(現朝来市)から栃木県足尾に移住、飯場を束ねる組頭級の鉱夫だったそうです。労働者とはいえ毒を流すほうの側の人です。祖父は体が弱く家業を妹夫婦に譲り宇都宮に移住。幼い日の立松は大叔母の子(母の従兄弟)のいる足尾にはよく訪れたそうです。

そういう意味で公害、環境、自然保護の問題はライフワークのテーマだったのかも。

足尾の山に緑を戻そう。植樹活動が毎年行われているそうです。立松さんも参加していたそうです。
印象に残ってるのは・・・標準語で語る栃木イントネーション・・・詩の朗読のような美しさがありました。


《参考》
渡良瀬遊水地・・・野焼き2009(2009.3.21ブログ)