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比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

惜別・・・森繁久彌・・・知床の羅臼にて・・・永遠の「知床旅情」

2009-11-11 | 惜別
森繁久彌さんが亡くなられました。昭和の時代の最大のエンターテイナー。森繁さんのことを語ることはわたしごときが・・・おこがましくて・・・で・・省略。
森繁さんは座談でお芝居は瞬間瞬間の芸といってました。どんな名優の芸もやがては人の記憶から消えていき伝説となりますが、森繁さんの作ったものでたぶん永遠に消えないものがあります。
それは森繁久彌さんが作詞・作曲した「知床旅情」です。

知床半島ウトロ港の夕景・・・突端がウトロ崎、その左がオロンコ岩(57m)・・・
    旅の情けか 酔うほどに彷徨い
     浜に出てみよ 月は照る波の上・・・・・


知床峠・・・ウトロの町から知床峠を越えると羅臼の町です・・・羅臼岳(1661m)。
    別れの日は来た 羅臼の村にも
     君は出てゆく 峠を越えて・・・・・
  

知床峠を越えて羅臼の港に、丘の上から国後島が間近かに見えます。
    飲んで騒いで 丘に登れば
     遥かクナシリに 白夜は明ける


羅臼港の「しおかぜ公園」・・・戸川幸男の小説「オホーツク老人」の映画化「地の涯に生きるもの」(1960年公開)に主演した森繁久彌さんをモデルにしたブロンズ。下に「知床旅情」の歌碑。
「知床旅情」は長期ロケの終わるころの酒宴で地元の人にお礼の意味を込めて新聞紙に歌詞を書いて自身ギターを弾いて歌ったといわれます。歌詞もいろいろあり現在の歌詞になったのは1963年ごろか。加藤登紀子さんが1970年に歌い、ジワジワと人気上昇してミリオンセラーになった。

森繁久彌・・・知床旅情・・・五年まえに尋ねた知床半島のヘタなイラストを見ながら思い出しています。
今もウトロのホテルのロビーに「知床旅情」「岩尾別旅情」のBGMが流れているでしょう。

《ちなみに》「知床旅情」・・「早春賦」に似ていて・・それがモーツァルトの「うるわしき五月」に似ているのだそうです。だとしてもそれで「知床旅情」が名曲じゃないということにはなりません。パクリでもありません
ちなみにこういう例は「魔弾の射手」が「青葉三里」に、ショパンの「幻想曲」が「雪の降る町を」、ショパンの協奏曲が「北の宿から」・・・小林亜星と服部克久の訴訟騒ぎ、音楽の世界にはいっぱいあるようです。森繁さんが羅臼の町で即興で作った時、自然に「早春賦」の出だしに似てしまった、そういうことでしょうね。歌ってみると最初の1小節、ムード的に似ていますがそっくりではありません。中田章(早春賦)、中田喜直(夏の思い出)の歌が大好きだった森繁さんが知らず知らずのうちにその世界に溶けこんでいたのかも知れません。「早春賦」も「知床旅情」も私は好きです。

羽田健太郎さん・・・ありがとう

2007-06-10 | 惜別
ピアニストの羽田健太郎さんが6月2日に亡くなりました。58歳。
無類の音楽好きというわけではないのですが、某テレビ局の「題名のない音楽会」DVDに録画して見てました。この番組、羽田健太郎さんに司会が変わってから見るようになったのです。

音楽を人と分け合う温かい心、寒いオジサンジョーク、そして華麗なピアノテクニック。
6月10日、追悼の番組が流されました(来週もあるそうです)。


この人の名前が知られるようになったのは某テレビ局のニュースショウからでしょう。富士山頂にピアノを上げての演奏など自然の中での演奏が音楽なんて知らない人にも強い衝撃を与えました。
ポピュラーミュージシャンでクラシックに強い人。そんな感じでした。実際は逆ですが。
母子家庭に育ち某音大を卒業後、恩師の留学の薦めも断りスタジオミュージシャンの道に入ったのは事情があったのでしょう(ジュリアード学院には行きたかったでしょう)。渡辺真知子、弾厚作のバックの仕事もしてるようです。映画音楽、テレビの主題歌の作曲、ポピュラー音楽の編曲などの仕事は数多くあります。クラシックピアノのソリストとして有名になるのはその後です。

「題名のない音楽会」でのハネケンさんは好きでした。クラシックを身近のものにしてくれて、ポピュラーミュージックや時には演歌の人、島歌、三味線、尺八と何でも有り、多様なジャンルで音楽を教えてくれました。国籍を問わず若い演奏家もしばしば登場しました。
私はこういう肩の凝らない音楽が好きです。音楽というものは音を楽しむものです。


「音楽って喜びを10倍にしてくれる。悲しみを2分の1にしてくれる。親友のようなもの」・・・
ありがとう・・・ハネケンさん。

惜別・・・若月さん・・吉田玉男さん・・「氷壁」

2006-09-26 | 惜別
人間国宝文楽人形遣い吉田玉男さんが亡くなられました。87歳、私は文楽のことは分かりません。少年のころ村で農村文楽(オデコといった)を見た記憶があるだけです。
社会面の記事からの抜粋です。

・・・自らも通信兵として出征した経験から、05年4月には落語家・桂米朝さんらと「九条の会・おおさか」を結成。「子供や孫の世代のためにも戦争を許すな」と訴えた。・・・
国宝といっても、ごく普通の当たり前の人だったんですね。ご冥福を。

井上靖の小説「」氷壁」のモデル、石岡繁雄さんが亡くなられました。山が好きだったから、この小説は読みました。穂高岳、奥又白池、徳沢園が出てきます。
「いつかある日 山で死んだら 古い山の友に つたえてくれ」
という文中にでてくる詩もロマンチックでした。
でも主人公はザイルです。


若月さんのこと、8月23日に投稿しました。著書を読み返しました。
農村の病院に入ってまず最初の仕事は、回虫の駆除だったようです。当時の農村には非常に多かったのです。私も例に漏れませんでした。回虫が胆嚢にまで入っていた例があるそうです(胆石と間違えられた)。原因は自然肥料です。私もこの肥料を担いだおぼえがあります。次に「こう手」です。これは過重労働による腱鞘炎だそうです。次に「冷え性」、むかしの構造の家は寒かったのです。暖房器具もありません。もちろん農村の過重労働、食生活の偏重による老人病、成人病もありますが、実際はいま考えると信じられないことから農村医療は始まったようです。この切抜きは知人が電送してくれました。

亡がらは病院歌「農民とともに」の歌声に送られて旅立ったとのこと。

   ・・・・・合掌・・・・・

信州の農村医学の開拓者・・・佐久総合病院院長の・・・若月さんが亡くなられました

2006-08-23 | 惜別
信州の佐久総合病院名誉院長若月俊一さんのご逝去が8/22夕刊で報じられました。私の購読紙の社会面に4段抜きでです。「農村医学」という言葉を作った人です。個人的には会ったことはありません。私の兄の友人が苦学して医者になりこの病院に勤めたことを知ってるぐらいでしょうか。

ここに2冊の本があります。「村で病気とたたかう」(岩波新書)は図書館のリサイクルコーナーからもらってきたものです。南木佳士「信州に上医あり」(岩波新書)は図書館の本です。この本からではないのですが印象に残ったことを記します。
 
司馬遼太郎の「街道をゆく 信州佐久平みち」(朝日新聞社)に佐久病院での一こまが書いてあります。

前略・・・・・・聴くとはなしにきいていると院長さんへの信頼感は大変なもののようで、しかもただごとでなく思ったのは、院長を院長先生とよばず、――さんとさん付けで友人のように付添婦さんがよんでいることであった。・・・・・・後略

新聞の見出しも「さん」です。
司馬さんは通常いま活躍している人のことを書きません。
書名は忘れましたが若き日の井出一太郎(元自民党の政治家、丸岡秀子の弟、井出孫六の兄)と出会い宮沢賢治の本をもらったことを書いたものを読んだ覚えがあります。井出さん(この人は歌も詠んだ)も若き日のコミュニスト若月さんもロマンチストだったのでしょう。
この人の歩んだ道は私ごときのものが語れません。

若月さん ありがとうございました。

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