昨年の誕生日に、義妹からいただいた胡蝶蘭が3月ごろには花が落ち、葉っぱもなくなった。
そのまま軒の下に放り出しておいたら、先月の中ごろ3本の幹に全部つぼみが付いた。また、そのまま置いておいたら、今度は花が咲き出した。1本の幹から3つの花が咲いている。葉っぱは何もないのに…。
時々水をやるだけで、それ以外はほとんど手をかけないのに、二度目の花を見せている。
日が落ちる寸前に写しておいた。
もっと存在感ある咲き方をしてくれることを願っている。

自動チャージ式パスモを使い始めて半月ほどが過ぎた。
都内に住んでいて私鉄と地下鉄を主な交通手段に使い、行き先が一定していないところに出かける人間にとって、こんなツカイカッテの良い乗車券はない。
毎日、便利さを実感しながら仕事・趣味・遊びにルンルン気分(?)で過ごしていたのだ。
ところがちょっとおかしいと感じたことがある。それが次の3つである。
1)小銭入れやポケットに小銭(コイン)が溜まってしまい、重いし邪魔だ。
2)電車賃はタダであると思ってしまう。
3)ボケ予防の妨害になっている。
これを使う以前は電車に乗るたびにコインが減少し、邪魔になるようなことはなかった。今は買物をする度にコインが増えてしまい、だんだん重くなってしまう。
また以前ならば電車に乗る度にコインが減っていくので、電車賃も高いものだという実感を持てたものだ。つまり乗るたびにコスト意識が芽生えたのである。今はそんな意識などほとんどない。
最も気になることは、以前ならば電車に乗るたびに運賃と乗車経路とを、あの出札機の上に掲示してある大きな看板を見ながら決めるのである。それもすばやく、自己の判断で決めるのである。判断するということは「頭を使うのである」。
今はいきなり改札機をくぐり、目的方向に向かっている電車に飛び乗ってしまう。考えることを省略している。
「考えることを省略する」とどうなるか。使わないから脳だって退化してしまう(廃用性萎縮症)だけである。つまりボケをすすめてしまうことにならないか、ということを心配しながらPASMOを使用している今日このごろなのである。
アア
また、老化の度を進めてしまっているようだ。
玉川税務署からまたお呼びが掛かった。
平成18年度の個人所得の確定申告で聞きたいことがあるのだそうだ。
ワクワクしながら(いやドキドキしながら)お手紙を頂いた方を訪ねて行った。
税務署には時々お邪魔しているので、慣れているだろうと思っていたが、やはりお呼びが掛かるのは気持ちが悪いものだ。
署に着き、待つこと1分、お手紙の主が現れた。
最近の税務署職員の私たちに対する応対はすこぶる丁寧である。しかも無礼ではない。
今回も同じだ。恐縮しつつ本題が始まった。細かい内容は省略するが、つまりは配当控除の金額が間違っていただけである。結果は税額が少々増しただけで、事は済んだ。
こちらが手続きをしている隣の席では年配のご婦人が若い女性の署員と面談していた。用が済みそのご婦人が帰ろうとしたら、署員の若い女性はご婦人の肩を抱えんばかりにしてドアーのところまでエスコートしていた。そしてドアーを開けてご婦人が帰るのを見守るようにしていた。
一瞬「何だ、ここはホテルか?」と思ってしまった。
これからも税務署に行って癒されたいので、お呼びが掛かるのを待つことにしよう。
(もちろん、これは冗談です)
ジョン・モリオールの理論から…
「笑いの歴史に見る笑いの4つの理論」
・優越理論 → 試合に勝つと笑みがこぼれる
・ズレの理論 → 一人だけダンスのテンポがずれるとつい笑ってしまう
・放出理論 → 緊張が続くと、笑いでホッとしたい
・包括的理論 → 笑いは愉快な心理的転位
これは先日お話を伺った情報処理推進機構(IPA)笑力研究会の濱 久人氏のレジュメから引用したものである。
人を惹きつける1つの要因に「笑力」があることは、なんとなくわかる。話が面白い人、側にいて愉快になれる人、ユーモア・センスに富む人などは、笑力がる人なのだろう。
プロジェクト・リーダーに「笑力」が必要かもしれない、といったこともなんとなくわかる。
しかし自分には笑力なんて全くないことだけはよくわかっている。
趣味のマジックの味付けに「笑力」を組み込むことを考えてみようと思う。面白くなるかもしれない。
平和な日曜日を送っている。
今朝、庭にある梅の花を撮った。先の剪定で小枝が少ししか残っていないが、その小枝にも季節の便りである花が咲いている。
午後は近くのプールへ行き、いつも通りのプログラムを消化してきた。
先週から風邪を引いてしまっている。
仕事を休むほどではないが、鼻と喉と咳で少々うっとうしい。さらに熱がでてしまったらいよいよダウンだ。
毎年、冬の間じゅう、ほとんど風邪ひき状態であるのが普通であるが、今年は暖冬のせいか、健康で過ごせた。これはこれでよかった。
そこで、暖かい冬をもっと満喫しようと、ぽかぽか陽気の日にコート無しで出かけた。気温が下がってしまった帰宅時に冬に逆戻りしている冷たい空気に遭遇し、やはりいつも通りに風邪を引いてしまったのだろう。
これで、やっといつもの自分に戻ったような気分である。
いつも風邪を引いてよわよわしい進化した猿、これが本当の自分の姿なのだろう。
よくよく自覚しなければならない。
だけど今日はプールに行けないかもしれない。これだけが残念だ。
行けなかったら横浜国際女子マラソンを見ることによう…。
ところで双子の姪っ子(22歳)のことであるが、先日(1月28日)行われた2007大阪国際女子マラソンに出場した。このレースは世界選手権代表選手を決める選考レースでもある。
それまでは二人とも中距離の駅伝選手(愛知電機所属)であったが、二人一緒に初マラソンに挑戦したのである。
このレースには397人がエントリーし、外国の選手も交え招待選手は13人、中にはリディア・シモン(ルーマニア・成績は6位)、渋井陽子(三井海上火災・同10位)、など世界的ランナーが出場していた。優勝したのは原裕美子(タイムは2時間23分48秒)、2位・小崎まり、3位・加納由理であった。
ところで双子の成績であるが一人は26位(2時間52分06秒)、もう一人は87位(3時間04分23秒)であった。
そして、二人とも3月11日に行われる名古屋国際女子マラソンに出場しようと意気込んでいる。
クライアントの営業部長が逝ってしまった。
18日の夜、自分で車を運転して病院に行った。夜間であったので翌日詳しく調べることになり、取り敢えずその晩は仮入院した。
19日未明、その病室で突然息を引き取った。59歳であった。
死因は大腸破裂・大量出血による心肺停止であった。末期癌であったことがその時分かったのだそうだ。そのことは家族も本人も会社の人間も誰も知らないことであった。
翌20日(昨日)の午前11時30分より通夜・告別式がさいたま市の葬祭場で執り行われた。
告別式には少し時間に余裕があったので、遺体が安置されている部屋に行き、遺体と面会した。その部屋にはご家族も参列者もたまたま居なかった。
メガネをかけた少年が一人、遺体の顔が覗けるようなすぐ近くで、モジモジしていた。
「お父さん!お客様がたくさん来ているよ。お父さん起きて!」と呼びかけている格好に見えてしまった。
もう、とてもたまらない。
逝ってしまった彼とは近い内これから売り出そうとしているある商品の市場調査をするために同行する予定でもあった。
ご冥福をお祈りする。
中小企業診断協会の東京支部マジック同好会[通称スズキコンサルタント・マジッククラブ( SCMC)]の今年最初の練習日が一昨日、文京シビックセンターで開かれた。
ご病気で2ヶ月ほど療養を続け、そのご病気を克服した師匠の鈴木徳太郎先生が久しぶりに指導の席に着き、いつもの通り厳しく・優しく私たちを指導してくださった。
大きなご病気で体力も相当弱っているはずなのに、一生懸命技術を伝授してくださる先生の姿勢に思わず頭が下がってしまった。
先生から聞いたお話を、できるだけ忠実にこれから書き出してみよう。先生が闘病生活で遭遇した本当に怖い話です
「 」の中の言葉は全て一昨日聞いた先生の言葉である。
それは9時間にわたる大手術(肺を停止させ、心臓を止めて行う手術)が終わり、その後危篤状態に陥り、親戚縁者を呼ぶように病院から宣告を受けていた頃だったようです。
……
「夕暮れ時、真っ直ぐな長い道を私は一人で歩いていました」
「そこは墓地で、道の両側は全てお墓でした」
「墓地を通り抜けると小さな川に行き着きました」
「川の向こうに数人の人影がありました」
「よく見るとそれは人ではなく、人間のように動く骸骨でした」
「5~6人いたでしょうか」
「その連中がこっちへ来い、こっちへ来い、と手招きしていました」
「手を振って、そちらには行きたくないと、答えました」
「そうしたら向こうの連中がこっちに向かって一斉に川を渡って来ました」
「格闘になりました」
「私は鉄拳を何度も何度も振り回して、彼らを追っ払おうとしましたがなかなか撃退できません。その中の1人が私の首に手を回してきました」
「それも払いのけて走り出そうとしたら、今度は足に蔦が絡まって、抜けないのです。1株ずつ力いっぱい引き抜いて、骸骨連中に投げつけ投げつけ、一生懸命逃げて来ました」
……
「ドクターが私の肩をトントンと叩いているのに気付きました」
「周囲を見回したら、家族が泣いていました」
そして先生は「川を渡らなくてよかった」と、そして「川を渡ってしまったらこのように今日、皆さんにお会いできなかったでしょうな」と練習前のお話を結ばれた。
今年のはじめから日本経済新聞・夕刊コラム『あすへの話題』に、あの野中郁次郎先生(一橋大学名誉教授)が執筆を開始した。毎週金曜日のコラムを胸をわくわくさせながら読んでいる。
第2回目に、以下のようなことが書いてあった。
『あるとき、ホンダ財団での公演中に聴衆の一人が全身で反応するのに気づいた。実に良い間合いでうなずく、笑う、沈思する、メモを取る。こちらも彼に共鳴して、リズムよく全力を出しきった。講演後、彼は「本田です。ありがとう」と言って去った。本田宗一郎氏にお会いして最初で最後の瞬間であった。』とそのときの状況が書かれており、続いて氏の考え方が述べられている。
『深い対話では、言語・非言語両面の機能が働く。他者への共感、感情の機微の察知、自他相互介入のタイミングと限界点への配慮などが欠かせない。だから、対話は語学力を超えた人間力の問題だと思う。』で、コラムは終了している。
文の後半部は大変難しい内容のことが含まれていて、2~3度読んだだけでは理解できない。
何度もジックリ読んで、尊敬する先生の言わんとしていることを心にしみ込ませようと思う。1度読んだだけでもある程度理解できるが、読めば読むほど内容の深みに取り込まれる、というのが名文の持っている魅力ではなかろうか。
ところで趣味の1つに「朗読」がある。白川裕子先生が主宰している朗読の会「さくら貝」に参加しているのであるが、白川先生は古今東西の優れた作品の中から朗読に合う作品を選んで、またそのエッセンス部分を抽出し、生徒に何度も何度も読むように仕向けるのである。
練習を積まば積むほど、「何度も読む」ことの大切さが理解できるようになった(生意気なことを書いて、先生から叱られそうだが…)
話を元に戻そう。
人と会話するというのは人間力の問題だ、という野中先生の言葉には圧倒されてしまう。あまりに大きいことが一言に集約されているので、浅学の自分にはちょっと理解に苦しむ。
少し前、ある研究会で「人間力」に関する講演を引き受けたことがあるが、結局自分でも何を伝えようとしたいのか、分からなくなってしまった経験がある。つまり、あまりに平凡なまとめになってしまったのであった。
人間力…?
人間力…?
人間力…?
また今日も眠れなくなる。