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百人一首から見えてきたこと

2018年05月07日 | 通常メモ
 藤原定家が撰したとされる小倉百人一首、百人の歌人から、それぞれ一首ずつを撰したとされている。1番目から100番目までの一首ずつの中で、先ず1番目の、「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ我が衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)、分かりやすく訳すと、「秋の田に間に合わせに作った小屋は苫(とま)が荒いので、私の袖(そで)は夜露に濡れ続けています」。天智天皇は決して一流の歌人ではない。この歌も天智の自作とは考えられていない。それが百人一首の巻頭に据えられている理由は、天智が平安朝の天皇の皇祖だからだ。奈良時代、壬申の乱以降、天皇の系譜は天武天皇系に独占されていたが、奈良朝末期になって天智天皇系の光仁天皇が即位した。その皇子こそが平安京遷都を実行した桓武天皇だった。百人一首は普通の秀歌撰ではなく、和歌で綴る平安朝の小史である。平安朝の歴史を語る上で、天智天皇は始祖的な人物であり、意図的に1番目に配置されているらしい。そのように国文学者の吉海直人氏は述べている。

 そして2番目の歌、「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」(持統天皇)、訳すと「春も過ぎてはや夏が来たようです。天の香具山に真っ白な衣が干されているところから見ると」。百人一首の絵札で持統天皇は十二ひとえ姿風に描かれている。持統天皇は奈良朝以前の人。十二ひとえは平安朝を代表する装束であり、時代考証が間違っているとしかいいようがない。実はそれが歌の解釈にも関係してくる。持統天皇の歌は万葉集に所収されているが、その原典では「春過ぎて夏来きたるらし白妙の衣ほすたり天の香具山」となっている。従来は、万葉集の本文を取る意見が多数だったようだ。かるた絵が王朝風俗に統一して描かれているので、百人一首の歌としては本文も解釈も平安朝の形式を尊重すべきともいえそうなのだが。

 3番目の歌、「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかもねむ」(柿本人丸)、訳すと「山鳥の垂れ下がった長い尾のように、私はこの長い夜を一人寂しく寝るのでしょうか」。歌聖と称された柿本人麻呂の歌は百人一首には撰ばれていない。この歌は人麻呂の歌ではない。万葉集の作者未詳歌の異伝として、「或本の歌に曰く」という左注を付けて出ている歌のようだ。万葉集では柿本人麻呂、古今集では柿本人麻となっているのに対して、百人一首では柿本人丸となっている。人麻呂は実際の歴史上の人であり、人丸は伝説上の人。「人丸集」という歌集も、平安時代になって「人麻呂」の歌以外の伝承歌が寄せ集められて成立したものらしい。

 さらに、4番目の歌、「田子の浦にうち出てみれば白妙の富士のたかねに雪は降りつつ」(山辺赤人)、訳すと「田子の浦に進み出て見ると、霊峰富士山に雪がしきりに降っていることです」。これは万葉集の本文と比較されたあげく、一方的に変更(「ける」→「つつ」)をしている。万葉集は平安朝においてはほとんど読まれていなかった。万葉集が万葉仮名で筆録されているため、平安朝の人達の多くは判読できなかった。もともと万葉集は百人一首の撰集資料ではなかった。だから額田王、大伴旅人、山上憶良などの一流歌人も撰入されていない。新古今集に万葉歌が読みを変えて再録され、はじめて百人一首への道が開かれたようだ。「赤人」の姓も万葉集では「山部」だが、百人一首では「山辺」になっている。別人の歌として解釈しても構わなくもない。

 さて、百人一首の中には、作者の疑わしい歌が意外に多いようだ。たいていの場合は勅撰集の作者表記でなんとか保証されている。ところが、5番目の歌、「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき」(猿丸大夫)、訳すと「奥深い山に紅葉を踏み分けやって来て、鹿の鳴き声を耳にすると、秋の悲しさが身に染みて感じられます」、この歌は、古今集の作者表記に、はっきりと「読みびと知らず」とある。頼みの綱である勅撰集ですらも、猿丸大夫の歌であることを否定している。古今集を何度も書写している藤原定家も充分に承知していたはず。次に来る6番目の歌、大伴家持の前に置かれているというのも解せない。6番目の歌とは、「かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」(中納言家持)、訳すと「天の川の鵲(かささぎ)の端に霜が置いたように白くなっているのを見ると、随分と夜が更けたようです」。大伴家持は万葉集の撰者なのにもかかわらず、この歌は万葉集にはない歌だ。家持はこの歌を高くは評価していなかったのか、それとも万葉集が成立した後に詠まれた歌なのか。そんな可能性もあるようだが、大伴家持の作ではないとする方がいいかもしれない。その証拠に「古今六帖」に作者不明の類歌(伝承歌)が出ている。なにより、「かささぎ」及び「かささぎの渡せる橋」という表現は平安朝以降に登場する歌語。平安朝になって家持集が編まれた際に、家持作以外の歌が多く紛れ込んだ中の一首がこの歌らしい。皮肉なことに、万葉の学者からは一顧だにされないこの歌が百人一首の流行によって家持の代表歌になっている。百人一首の抱える様々な問題の一つでもあるという。

 7番目以降のそれぞれの歌はここでは省略する。大事なことは、最後の歌(100番目の歌)が1番目の歌に循環していく関係にあることだ。それは、「百敷(ももしき)や古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり」(順徳院)、訳すと「宮中の古い軒端に生えている忍ぶ草の「しのぶ」ではありませんが、忍んでも忍びきれない昔ですよ」。順徳院の歌であり、注目すべきは初句にある。百敷(ももしき)という語は、古くは「百敷の」という形で大宮にかかる枕詞だった。ところが、古今集以降は次第に使用されなくなり、枕詞としての機能も消失していった。その百敷を歌に詠じているのは、わずかに伊勢であり、この順徳院だ。本来は、百敷は宮中を、そして宮中にいる天皇を賛美する語だった。伊勢の場合はともかく、順徳院自らが百敷を用いて歌を詠むのは異常なこと、さらに興味深いことに、最初に「百敷の」で賛美された都は、天智天皇の近江京だ。つまり、百敷が喚起させている昔とは天智天皇の御代になる。これによって100番目の歌は、1番目の歌へと循環し、平安王朝への憧憬(しょうけい)が繰り返されている。それこそが百人一首の正体のようだ。

1 コメント

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興味がわいた。 (H.D)
2018-05-07 08:54:11
100番目の歌は、1番目の歌へと循環し、平安王朝への憧憬(しょうけい)が繰り返されている。それこそが百人一首の正体、そんなことが見えてくるとは興味深いですね。
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