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日本史の中で見えたこと。

2017年11月05日 | 歴史メモ
 日本史の中で、応仁の乱以前と以後とでは、国の支配構造に大きな違いが出ている。応仁の乱によって室町幕府が衰退し始め、その後に戦国時代が始まっている。応仁の乱は応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)まで11年にわたる大乱だった。室町幕府の八代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)に息子がいなかったので、弟の義視(よしみ)を後継者としたが、その直後に義政の妻の日野富子が男児を出産し、富子が我が子を将軍にしようと画策、折しも幕府の実権を握ろうとしていた細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)の両雄がそこに介入し、応仁の乱が勃発したというのが一般的な説明だが、この通説に対しては批判もあるようだ。最初は京都のみが戦場だったが、戦乱は地方に波及し、全国各地で合戦となった。大規模で長期にわたる戦乱なのに、大名たちが何のために戦ったのか見えてこないというのも不思議だ。

 応仁の乱は旧体制を徹底的に破壊したからこそ新時代が切り開かれた。最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する、いわゆる下克上という現象が盛んに起きた。応仁の乱によって戦国時代が到来し、世の中が乱れたことは、平民にとっては成り上がるチャンスであり、歓迎すべきことでもあった。応仁の乱を時代の転換点ととらえる見解もあるようだ。乱の終結後も幕府支配の再建が進められたが、幕府の権威は失墜し、戦国時代へと進んでいった。

 ところで、応仁の乱以前の京都の人口は10万人程度で、そのうち武家関連の人口が3、4万人に達していたといわれる。彼等在京の武士たちは、貴族や五山僧と連歌や茶の湯を楽しむなど京都での文化的生活を謳歌し、地方にある自分の所領には代官を派遣して経営を任せていたので、遠隔地の寺社本所領を支配する在京の貴族や僧侶と同様の不在地主であった。室町文化の担い手というと、二条良基(よしもと)や一条兼良(かねよし)といった貴族や他の禅僧を思い浮かべるが、一方で武士たちの文化水準も向上していた。この時代、武家の経済力は公家や寺社を凌駕し、将軍を筆頭とする在京の武士たちが京都文化のパトロンとしてふるまっていた。能の大成者である世阿弥(ぜあみ)は足利義満の庇護を受けていたし、能阿弥(連歌七賢の一人)は足利義教、義政の同朋衆だった。

 そもそも幕府はクーデター政権である。朝廷が持っていた統治権、政治に関するすべての権限を武士が軍事力で簒奪したのだ。最初にこれを実行したのは鎌倉幕府を開いた源頼朝であり、王朝は滅ぼされずに権威だけを担当する存在へと象徴化され、武家政権が国を自分たちのものにしてしまった。それが日本史の中では、鎌倉、室町、江戸と三度繰り返された。鎌倉幕府の実権は間もなく源氏から北条氏に移り、150年ほどで滅び、次の足利幕府は、200年ほど続くが、そこから江戸幕府が開かれるまでの間は、幕府権力が失墜し、戦国時代となっている。その戦国時代を終結させたのは、織田信長であり、豊臣秀吉だった。その後を引き継いだ徳川幕府というのはなかなか優れた政権で、260年以上も安定した治世が続き、国を挙げての外国との戦争は起こしていない。内戦といっても、島原の乱と幕末における戊辰戦争ぐらいであり、地方政権による対外戦争としては、薩摩とイギリスの薩英戦争、長州と列強4か国(イギリス、フランス、オランダ、アメリカ)の間で起きた馬関戦争、それらは短時日で終了した。260余年も外国と戦争をしなかった日本の政権、それは世界中でも、有史以来どこにもない。その意味では徳川幕府の鎖国政策は正解だったのかもしれない。

 260余年も続いた江戸幕府、それが1853年のペリーの黒船の来航によって幕府内に激震が起きる。ペリー艦隊は捕鯨船団護衛のついでに日本に来たわけではなかった。大統領の親書を持ち、蒸気船・ミシシッピー号で単艦、大西洋からアフリカ最南端の喜望峰をまわり、インド洋を越え、香港や上海でアメリカ海軍の東インド艦隊の軍艦と合流して日本へ来たのだ。黒船来航後の15年間に、日本国内は天地がひっくりかえるような大騒ぎとなる幕末の幕が開いていった。1854年アメリカと日米和親条約を結び、下田と箱館(函館)を開港、215年も続いた鎖国に終止符が打たれた。1858年には日米修好通商条約も結ばれた。同様の条約がイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも締結されるが、先に条約を結んだアメリカは、最恵国待遇となった。一般的に最恵国待遇とは、最初に外交条約を結んだ国を外交上の最恵国とし、2番目以降の国は最恵国の利益を削り取るような条約を結んではいけないという大原則、これは今でも一般的な大原則である。日米修好通商条約には「日本とヨーロッパのどこかの国との間でトラブルが起きた時はアメリカ大統領が仲介する」旨が記されていた。

 さて、攘夷運動を牽引し、討幕運動の中心となったのは長州藩だった。今の山口県、つまり周防・長門を領国とする大大名の毛利家があり、ここに熱心な攘夷主義者の集まりがあった。明治の元勲といわれる、木戸孝允、伊藤博文,山縣有朋たち、その思想的背景となる学者の吉田松陰も長州の人間だった。長州は東シナ海を挟んで中国の上海の対岸に位置するだけに、世界情勢に敏感だった。最初は尊王思想から先ずは攘夷運動に向かったが、外国の近代的な軍事力には勝てないと分かり、西欧列強に学ばなくてはと留学生を送り、西欧の科学から社会制度まで学ぼうと変わっていった。尊王思想という理念は変わらないが、行動は攘夷から開国へと百八十度転換する。

 それは、吉田松陰の松下村塾で学ぶ世界認識もあり、松陰門下の高杉晋作が上海で見聞したようなリアルな危機感もあったからだ。もう徳川幕府ではダメだ。新しい政権を立てなくてはどうしようもない、外国と条約を結び、対等にやっていくためには、幕藩体制ではダメだと考えた。西欧列強諸国も、幕府が必ずしも日本を代表する政権ではないと気づき、個別に藩を切り崩していけば、租界や租借地などできる、まさに植民地化の危機もあった。それを防ぐには、徳川政権を倒し、幕藩体制を変え、天皇を中心とする統一国家をつくり、国力、軍事力を高めるしかないとなった。そして、天皇を中心に据えて権威は持たせるが、統治は政府が行う。目指していたのは、そのシステムを憲法によって規定する立憲君主制であった。当時の西欧諸国はだいたいそうなっていた。当時にすれば国王の権力を憲法によって規制するという洗練されたやり方だったといえる。

1 コメント

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歴史への認識分かりやすい。 (K.H)
2017-11-05 16:10:21
徳川政権を倒し、幕藩体制を変え、天皇を中心とする統一国家をつくり、国力、軍事力を高めるしかない。そして、天皇を中心に据えて権威は持たせるが、統治は政府が行う。目指していたのは、そのシステムを憲法によって規定する立憲君主制。当時の西欧諸国はだいたいそうなっていた。当時にすれば国王の権力を憲法によって規制するという洗練されたやり方だった。なるほど当時の考え方の推移が見えますね。
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