murota 雑記ブログ

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紀貫之の仮名文字による創作が興味深い。

2013年09月03日 | 通常メモ
 日本人が日本文字をどのようにつくったのか、漢字を柔らかくくずして草仮名にしたり、漢字の一部を取って片仮名にしていたともいわれる。なぜ紀貫之は日記を仮名の文章にしたのか。承平4年(934)、貫之は土佐守としての4年の任期をおえて京に旅立つ。12月21日から翌2月16日までの舟旅、55日にわたる。貫之はこの55日間の出来事を、1日ずつすべてを記録に残した。当時は「具注暦」というものがあって、貴族や役人は漢文で日記日録をつける習慣をもっていた。貫之もそのような漢文日録をつけておいて、それをあとから仮名の文章になおしたのかもしれない。あるいは道中から和文備忘録を綴っていたのか。なにゆえに「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」という擬装を思いついたのか。実際には『土佐日記』は仮名のみの表記だった。そんな風に松岡正剛氏は書いている。その内容は以下の通り更に興味深いものだ。

 冒頭から、「ある人、縣の四年五年果てて、例のことどもみなしをへて、解由などとりて、住む館よりいでて、舟にのるべきところにわたる」というように、自分のことを「ある人」とした。ある女が眺めている「ある人」の旅の道中とした。挿入した歌も貫之がつくっていながら、別のある人の歌の引用に見せたりもしている。二重の擬態装。三重の仮託。漢字と仮名。男と女。それに加えて、日記と創作。地の文と歌の紹介。その後の日本文芸に、日記であって物語であるような新たな文芸様式の試みを次々に創発。『和泉式部日記』など、日記であって物語。この様式は、貫之がすべて創発したもの。貫之が『土佐日記』を綴ったのは、どうやら60歳すぎ、あるいは70歳に近いころで、最晩年のこと。それまでに『古今和歌集』の編集責任者などの大役を担っていながら、貫之は老年になって遠い土佐守に任ぜられた。約5年間の任期。その帰途を日記に仕立てた。それまでも赴任や遥任はあった。しかし貫之は土佐の帰途だけを日記にした。『土佐日記』にはいくつもの象徴的な和歌が織りこまれているが、そのように和歌を織りこむ日記和文様式を通して、後世に何かを託す気があったのかもしれない。

 紀貫之は都から遠く離れた土佐に行く。和歌には遠い遠国である。しかも4年にわたる任期。いよいよ都に帰ることになった貫之は、ここで最後の計画の着手をおもいつく。まずは歌日記というものをつくってみたい。第1には、その衝動だった。第2には、和文で綴りたい。漢文日記を和文に変えて、そこに和歌を盛りこみたい。第3には、仮名で綴ってみたかった。こうして船旅が始まり、その備忘録がのこり、これを構成しなおし、和歌を整え、虚構をおりまぜて日記のスタイルができあがった。仮名の歌日記とするには書き手が女である必要を感じたので、おそらくは都に帰ってきてからのことだったろう。あるいは船旅をするうちにそのような策を練っていたものか。貫之が『土佐日記』で試みたことは、たしかに擬装である。それも二重三重の擬装であった。

 貫之の名が最初に記録に見えるのは、寛平5年(894)前後の是貞親王の歌合や有名な「寛平御時后宮歌合」の時、30歳そこそこか、20代半ばのこと。この頃は菅原道真の絶頂期で、道真が遣唐使の廃止を提案した時、貫之は、若くして宮廷の歌合に招かれるほどの、かなり知られた歌人になっていた。道真は親政を敷いた宇多天皇に抜擢され、続く少年天皇・醍醐の右大臣をつとめた官吏で、漢詩の達人だった。それとともに、時代が漢詩主流文化から和歌主流文化に移行するのを支えた文人でもあった。その道真がかなり深く編集にかかわったとみられる『新撰万葉集』という興味尽きない和漢詩歌集がある。『新撰万葉集』は和歌と漢詩を並べたもので、他には見られない独得の真仮名表記をとっていた。和歌と漢詩を並べるとはどういうことか、たとえば和歌に「奥山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきくときぞ秋はかなしき」とあれば、それに合わせて漢詩は「秋山寂々として葉零々たり、麋鹿の鳴く音数処に聆ゆ‥」というふうに、七言絶句にして併記した。このように漢詩と和歌をやすやすと対同的に並べることができた才能の持ち主でもあった道真が、貫之が昇殿するようになった寛平5年前後を最後に、突然に左遷された。この道真の没落は菅家そのものの没落であり、紀家の貫之にとっても他人事ではなかった。紀家も大伴家も、のちの歴史が証したように、すでに藤原一族によって追い落としを迫られていた。貫之は歌人としては宇多天皇に認められている。しかも和漢並立の才能を誇る時代は、道真とともに後退しつつある。こういう背景をもった貫之が、晩年に風変わりな諧謔と隠者の趣向を発芽させたような『土佐日記』を、女装型仮名文として書いてみせた事情を考えてみると、そこには、貫之の「日本語計画」というべきものが感じられる。

 『古今和歌集』の真名序と仮名序の併置ではっきりするが、貫之が仮名序を書いたことは日本文芸における倭語から和語への進捗をもたらす。その頃、貫之がどんな位置にいたか。 まず惟喬親王サロンがあった。この和風文化の前駆体ともいうべきサロンに、伯父の紀有常や有常女を妻とした在原業平もいた。遍照・小町などを加え、後の世に六歌仙時代といわれている。
 有常も業平も、また惟喬親王も、ありあまる文才や詩魂がありながら、もろもろの事情で失意の裡に王朝文化を飾りきれなかった。その後、宇多天皇が即位する。途中、阿衝の紛議などがあり、それまで自在に権力をふるっていた藤原基経の横暴に懲りた宇多天皇は、関白をおかずに親(みず)から政務をとって、前代の摂関政治に代わる親政を敷く。これが寛平・延喜時代の開幕である。ここで菅原道真・紀長谷雄らの学者文人が登用され、宮廷行事のなかに「歌合」(うたあわせ)が採りこまれている。

 延喜元年(901)、貫之は御書所預に選ばれて、禁中の図書を掌る。これは宮廷の図書室長のような職掌だ。それは歌合を重視しはじめた宇多宮廷サロンにとっても必要な才能だった。やがて宇多天皇は落飾して、帝位を13歳の醍醐に譲るが、宇多院が文化の帝王であることは変わらず、各地への遊幸にも熱心であり、歌の宴も煽っていた。『万葉集』以来の勅選歌集を和歌で編纂したかったのだ。この『古今和歌集』の計画に、編集委員に選ばれたのが紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠峯の気鋭の4人だった。

 編集室は「御書所」か「承香殿の東なるところ」、帝から期待された編集方針は「古質之語」に学ぶことにあった。勅命が下ったのは延喜5年のこと、貫之が持ち前の編集能力を和歌の場を背景に、「文」にも発揮する。『古今和歌集』の編纂はその絶好の機会だった。序文は貫之一人の才能に頼られた。貫之は仮名による和文の序を書く。これが「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」「世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり」で始まる有名な仮名序だ。世阿弥『花伝書』や芭蕉『奥の細道』の冒頭に匹敵する画期的な一文だが、実は、世阿弥や芭蕉はこの仮名序に倣ったというのが真相らしい。

 漢詩と和歌は比べられてきた。たえず対同されてきた。しかし、漢文に対する和文の対比はまだ誰も試みたことがない。貫之は勅撰和歌集という絶好の機会を千載一遇として、一挙に書き連ねた。漢文の真名序は貫之の意向を配慮して淑望が書いた。貫之の仮名序は真名序と対応していただけではない。部立とも対応した。部立を編集するうちに仮名序が必要になる。春・夏・秋・冬・恋・雑のあいだに賀・離別・羈旅・物名・哀傷を、巧みに挿しこんだ。そこに約一千首が配当される。貫之は前代未聞の「和文・仮名つかい」による大和歌(和歌)をそこに収容させた。この日本語計画の実行が日本語の将来を変えたといえる。真言僧による日本語の研究と「いろは歌」や「五十音図」の確立や、琵琶法師らによる『平家物語』の編集もあるが、この貫之の快挙が先頭を切ったのである。中国的なるものに日本的なるものを対置するという、「文」において初めて成功させた快挙でもある。

 漢文に和文を対比すること、さらにその和文をそれ自体として自身の文体をもって自己進化させることなどは、それまで誰もしていなかったことだ。古今集以前の時代では、仮名文字の感覚がどのように世に伝わるか分からなかった。万葉仮名から草仮名への移行期に、貫之が立ち会えたことも幸いであった。貫之は、女手の台頭や女房文化の台頭を予感させる時代を正確に読みとっていたのである。こうして『土佐日記』は「男がすなる日記」の重要性を伝えつつも、それを「女がしてみむとてする」という可能性を拓き、女が綴るものだから女文字である仮名でも良いとした。また自分のことを「ある人」に託す創意創作の手法もありうるということも暗示した。

( 参考メモ )

 平安時代中期、まさに藤原氏の全盛時代であり、天皇が藤原氏の鼻息をうかがわざるを得ない時代だったが、菅原道真は、藤原氏の権勢になびくことなく、良識ある知識人として正論を主張し続けていた。これが、宇多天皇の目にとまり菅原道真は重く用いられ、参議、大納言と昇進してゆく。そして、894年、当時すでに衰えつつあった唐(中国)には使者を送る意義はなくなったと建言し、遣唐使を廃止に導いた。その後、道真は順調に出世街道を歩むが、それは藤原氏にとっては決して面白くないことだった。

 道真の不幸は、宇多天皇が退位して上皇となった時に始まる。宇多天皇は後継者の醍醐天皇に道真を重く用いるように命じ、道真は右大臣に昇進したものの、彼の出世はここまでだった。その上の左大臣には藤原時平が任ぜられた。藤原一族の統帥であった時平は、道真を陥れるため、道真が反逆を企てていると醍醐天皇に上奏し、醍醐天皇はこれを信じ、道真を九州の大宰府に左遷する。大宰府はかつて「遠の朝廷」(とおのみかど)とも呼ばれ、大陸との接点だったが、遣唐使廃止後その存在意義は薄れていた。道真に与えられた官職は「大宰・権帥(ごんのそち)」つまり太宰府の副長官だが、それは何の権限もなく、流罪に等しいものだった。しかし、道真は誰も恨まず、その後は病気を患い、ついに大宰府の地で亡くなった。

 道真の死後、京都では次々と異変が起こる。宮中に落雷があり、天皇家や藤原氏に病気や変死の不幸が続き、これを道真の怨霊として畏怖するようになってゆく。怨霊は鎮魂して、神様として祀ることになり、廟所が建立された。これが大宰府天満宮の原形である。天満宮といえば、京都の北野天満宮もそうだが、梅の名所であることが多い。道真が梅を愛したからだ。道真が京を去るにあたって、自邸の庭の梅に向かって詠んだ有名な歌がある。東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ(春を忘るな)  この梅は主を慕って京都から大宰府の地まで飛んできたという伝説もあるくらいだ。「飛梅」(とびうめ)といい、今も大宰府天満宮の境内にある。
 朝廷は道真の生前の罪を取り消し、官位を元に復すが、それでも怪異は収まらないので、左大臣、太政大臣と位を上げてゆく。朝廷が正式に辞令を出すので、それを本人に伝える場所、つまり霊を祀る場所が都にもあった方が良いということになり、北野天満宮ができた。道真の神としての名が「天神」。ちなみに聖徳太子という名は、生前にはそう呼ばれていない。生前は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれた。その死後に功績を讃えて聖徳太子と呼ばれている。

 道真の場合は、それは「火雷天神」であり、別名「天満大自在天」である。国宝「北野天神縁起絵巻」には、道真が如何にして無実の罪に落され、怒りをもって「天神」となったかが詳しくかかれている。日本の絵巻物でこれほど雷を題材としたものはない。また、道真は、生前は政治家というより、むしろ優れた学者だったので、学問の神様ということになった。童謡「通りゃんせ」にある、天神様の細道、この子の七つのお祝いに、お札を納める、これは、子供の学問が進むようにとの願いからだった。行きはよいよい、帰りは怖い、やはり祟り神だからかもしれない。歌舞伎では、道真はスターである。「菅原伝授手習鑑」をはじめとして、道真とはライバルだった藤原時平(歌舞伎では時平を、じへい、と呼ぶ)との戦いを描いた作品もある。

1 コメント

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最初は仮名文字を男性が (E.K)
2013-09-29 10:26:41
源氏物語や枕草子のイメージがあって、仮名文字は最初に女性が書いたと思っていましたが、男性が最初に書いたとは驚きです。日本語の創作ですね。
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