トーキング・マイノリティ

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THE PROMISE 君への誓い その①

2018-11-14 21:41:35 | 映画

 恋愛映画のようなタイトルだが、第一次世界大戦中のオスマン帝国による第二次アルメニア人虐殺をテーマとした作品である。映画の予告編の冒頭には次のテロップが出る。
あなたは知っていただろうか――。ナチスによるホロコースト以前に150万人が虐殺された悲劇の存在を。

 日本人でも中東に多少でも関心を持つなら、知らない人はいないはず。だが、虐殺数は21世紀初めまでは百万人だったのが、近年はいきなり150万人にアップしている。しかもその学術的根拠は提示されていない。百万人説でも根拠は曖昧だったし、wikiの第一次世界大戦時の「アルメニア人虐殺」の解説には、「その人数はおよそ80万人から100万人ほどとする推定もあり、欧米や日本の研究者の幾人かは、60万人から80万人という犠牲者数の推定が妥当ではないかという見解を述べている…」の一文がある。

 一方、この映画へのwikiの解説では制作国はアメリカとなっているが、映画.comなどの他の映画紹介サイトにはスペイン・アメリカ合作とある。アルメニア人難民の子孫が数多く暮らしているアメリカやフランスならともかく、何故スペインなのか?スペインに逃れてきたアルメニア人もいたかもしれないが、数は至って少ないだろう。新大陸先住民への虐殺で知られるコンキスタドールを輩出した国ゆえ、ムスリムの虐殺映画制作に関わった?、と勘ぐりたくなる。

 この作品はアルメニア人虐殺の背景に全く触れられておらず、史実よりも喧伝目的のプロパガンダ映画なのだ。規模は小さいもののアルメニア人虐殺は19世紀末にも起きており、研究者はこれを第一次アルメニア人虐殺と呼んでいる。
 では、何故アルメニア人は虐殺されたのか?それはキリスト教徒だったからだ。「アラビアのロレンス」は著書『知恵の七柱』(東洋文庫)で、単にキリスト教徒というだけでアルメニア人は殺害されたと述べており、これは正しい。アルメニア人だったからではなく、彼らに比べ知られていないが、中東のキリスト教徒少数民族アッシリア人も同時期に虐殺の標的にされた。

 トルコ人を含めオスマン帝国のムスリムが、何故キリスト教徒に憎悪を抱くことになったのか?これも中東オタクではない限り判らない方が大半だろう。その背景には西欧列強の侵出もあるにせよ、最大の原因はロシアの南下政策とナショナリズム煽動にあった。
 1817~64年間に行われたコーカサス戦争により、この地域から夥しい数のムスリムがオスマン帝国領に移住してくる。今風に言えば難民に他ならず、トルコは大量のムスリム難民を受け入れている。この時、激しく弾圧されたチェチェン人のことは聞いた方もいるかもしれないし、現代のトルコにもその子孫が暮らしている。

 コーカサス戦争後もロシアによる侵略は治まらず、チェルケス人もロシアの軍事侵攻で国を失い、大量の難民がオスマン帝国に向った。チェチェン人に比べて知られていないが、1872年にはチェルケス人虐殺が起きている。少なくとも60万人のチェルケス人が虐殺や飢餓で落命、何十万人も故郷を追われたという。
 コーカサス戦争の他にも露土戦争 (1877-1878年)、20世紀のバルカン戦争などのため、ムスリムの難民が大量にトルコになだれ込んだ。彼等からはキリスト教徒のアルメニア人がロシア軍に協力、ムスリムを追い立てたのだとする風評がトルコ中に広まっていく。

 アルメニア人はロシアに従っていた訳ではないにせよ、協力する傾向はあったし、ロシアもオスマン帝国領内のアルメニア人を支援している。そのため帝国都市部でアルメニア人と接するトルコ人や東部でアルメニア人と混住するクルド人の間で、アルメニア人を国内にいながら外国と通謀、「テロ」を行う危険分子と見なす敵愾心が高まっていった。
 オスマン帝国に大量移住してきたコーカサスのムスリムたちは、ムハージルーン(移住者の意)と呼ばれたが、彼らがキリスト教徒にどのような感情を抱いたのか、想像に難くない。ムハージルーンはアルメニア人虐殺でも積極的に関与している。
その②に続く

◆関連記事:「アルメニア人虐殺事件
チェチェン
ロシアとトルキスタン

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