その①の続き
絵画
サーサーン朝時代の絵画は、現代は一枚も残ってはいない。ただ、当てにならぬ伝説にせよマニ教の開祖マニ(210-275頃)が中国に行き、現地で画法を学び、帰国した後それを伝えたという。実際イランの細密画には中国画の影響が見られ、マニならずともイラン人絵師が中国に行ったことは考えられる。現代のイランではマニの名は消滅した古代宗教の開祖よりも、昔の天才的画家として知られる。
ゾロアスター教の教義はイラスム同様偶像崇拝は厳禁であり、現代でも教徒は神々や教祖の像は作らない。だが絵に関してはかなり緩く、皇帝のような人物をレリーフとして刻んだりしている。そのため、当時の絵画の水準は極めて高かったようだ。
サーサーン朝皇帝が死去した時、当代最高の画家が招かれ、亡き皇帝の肖像画を描き、その絵は帝国内の貴族の家に保管されたとの言い伝えもあり、とうに王朝が滅亡した十世紀のムスリムの記録にも、「ペルシアの地方貴族の家庭で、サーサーン朝歴代皇帝の肖像画を見た」とあるから、御真影よろしく皇帝の肖像画を掲げる習慣があったのだろうか。興味深いことにイスラム化してもイランでは絵画の伝統は廃れず、イラン・イスラム革命でも絵画を禁止するどころか、ホメイニの写真や革命画が国中に飾られた。
料理
イスラムやヒンドゥー教と違い、ゾロアスター教には食材のタブーは無いため、信徒は牛でも豚でも自由に食べられる。教義上悪との戦闘力を殺ぐため、断食も否定されていた。イラン高原では肉食をしなくては食事に困るため、菜食主義も評価は低い。ゾロアスター教では飲酒も人生の楽しみの一つと考えられていたので、酒飲みには実に羨ましい宗教である。
また、イランではインド亜大陸のアーリア人のように階級別の浄・不浄の観念が極度に発達することもなかったため、食事の形式や食器のタブーも見られない。さらに宗教的観念とは別に、テーブル・スピーチの様式のみを記したパフラヴィー語文献「食卓での言葉について」が残っているほどなので、支配層には洗練されたエチケットが要求された。
サーサーン朝時代の料理で、調理の基本は肉だった。その選択眼がペルシア人の基礎教養の1つとされた程である。食用にされた肉の種類には雄牛、ペルシア野生ロバ、山牛、猪、駱駝、野牛、飼育用ラバ、豚などだが、この中で最も望ましいのは、干草と大麦で育った雄のペルシア野生ロバ(パフラヴィー語でゴール)の肉とされた。サーサーン朝皇帝バハラーム5世 (在位420-38)はこのゴールの狩猟が得意だったので、「バハラーム・ゴール」のあだ名で呼ばれた。そのゴールの肉を乳酸の中に浸け、調味料で味付けしたものがサーサーン朝時代の最高の美味だったそうだ。
その他の肉の調理法にはパフラヴィー語文献に、「母乳で育てられた生後2ヶ月の子羊、オリーブ・ジュースをすり込んだ内臓、牛汁で調理され、砂糖キャンディーと共に食べる雄牛の胸肉」が最高の食事と記されているとか。今日の日本の庶民もタレにつけた焼肉を好むが、グルメならずとも現代人さえ舌なめずりしそうなメニューばかり。
肉食以外の主食としてはペルシア風炒飯(パフラヴィー語でピラーヴ、ピラフの語源)やナンを食べていた。果物はナーラング(オレンジの語源)、桃、ザクロをとっていたらしい。今日でもイランでジュースといえば、ザクロジュースを指す。この他、王侯貴族のデザートとして、氷室で保存していた氷菓シャーベットに甘いシロップをかけ食べていた。
イラン高原は乾燥しているので果樹園が発達し、ブドウの栽培に適している。その結果盛んにワインの製造が行われた。パフラヴィー語で葡萄酒を「ブーダグ」といい、この単語がシルクロードを通して中国や日本に伝来、「ブドウ」の語源となった。王翰(おうかん・687-726)の涼洲詞には「葡萄美酒夜光杯」と詠まれており、唐の詩人たちも夜光杯(ワイングラス)で葡萄酒を愛飲していた。ワインの銘柄や産地まで記載されているパフラヴィー語文献もあることから、サーサーン朝の王侯貴族たちは肉とワインの美食を堪能していたと思われるが、飲兵衛も多かったことだろう。
その③に続く
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絵画
サーサーン朝時代の絵画は、現代は一枚も残ってはいない。ただ、当てにならぬ伝説にせよマニ教の開祖マニ(210-275頃)が中国に行き、現地で画法を学び、帰国した後それを伝えたという。実際イランの細密画には中国画の影響が見られ、マニならずともイラン人絵師が中国に行ったことは考えられる。現代のイランではマニの名は消滅した古代宗教の開祖よりも、昔の天才的画家として知られる。
ゾロアスター教の教義はイラスム同様偶像崇拝は厳禁であり、現代でも教徒は神々や教祖の像は作らない。だが絵に関してはかなり緩く、皇帝のような人物をレリーフとして刻んだりしている。そのため、当時の絵画の水準は極めて高かったようだ。
サーサーン朝皇帝が死去した時、当代最高の画家が招かれ、亡き皇帝の肖像画を描き、その絵は帝国内の貴族の家に保管されたとの言い伝えもあり、とうに王朝が滅亡した十世紀のムスリムの記録にも、「ペルシアの地方貴族の家庭で、サーサーン朝歴代皇帝の肖像画を見た」とあるから、御真影よろしく皇帝の肖像画を掲げる習慣があったのだろうか。興味深いことにイスラム化してもイランでは絵画の伝統は廃れず、イラン・イスラム革命でも絵画を禁止するどころか、ホメイニの写真や革命画が国中に飾られた。
料理
イスラムやヒンドゥー教と違い、ゾロアスター教には食材のタブーは無いため、信徒は牛でも豚でも自由に食べられる。教義上悪との戦闘力を殺ぐため、断食も否定されていた。イラン高原では肉食をしなくては食事に困るため、菜食主義も評価は低い。ゾロアスター教では飲酒も人生の楽しみの一つと考えられていたので、酒飲みには実に羨ましい宗教である。
また、イランではインド亜大陸のアーリア人のように階級別の浄・不浄の観念が極度に発達することもなかったため、食事の形式や食器のタブーも見られない。さらに宗教的観念とは別に、テーブル・スピーチの様式のみを記したパフラヴィー語文献「食卓での言葉について」が残っているほどなので、支配層には洗練されたエチケットが要求された。
サーサーン朝時代の料理で、調理の基本は肉だった。その選択眼がペルシア人の基礎教養の1つとされた程である。食用にされた肉の種類には雄牛、ペルシア野生ロバ、山牛、猪、駱駝、野牛、飼育用ラバ、豚などだが、この中で最も望ましいのは、干草と大麦で育った雄のペルシア野生ロバ(パフラヴィー語でゴール)の肉とされた。サーサーン朝皇帝バハラーム5世 (在位420-38)はこのゴールの狩猟が得意だったので、「バハラーム・ゴール」のあだ名で呼ばれた。そのゴールの肉を乳酸の中に浸け、調味料で味付けしたものがサーサーン朝時代の最高の美味だったそうだ。
その他の肉の調理法にはパフラヴィー語文献に、「母乳で育てられた生後2ヶ月の子羊、オリーブ・ジュースをすり込んだ内臓、牛汁で調理され、砂糖キャンディーと共に食べる雄牛の胸肉」が最高の食事と記されているとか。今日の日本の庶民もタレにつけた焼肉を好むが、グルメならずとも現代人さえ舌なめずりしそうなメニューばかり。
肉食以外の主食としてはペルシア風炒飯(パフラヴィー語でピラーヴ、ピラフの語源)やナンを食べていた。果物はナーラング(オレンジの語源)、桃、ザクロをとっていたらしい。今日でもイランでジュースといえば、ザクロジュースを指す。この他、王侯貴族のデザートとして、氷室で保存していた氷菓シャーベットに甘いシロップをかけ食べていた。
イラン高原は乾燥しているので果樹園が発達し、ブドウの栽培に適している。その結果盛んにワインの製造が行われた。パフラヴィー語で葡萄酒を「ブーダグ」といい、この単語がシルクロードを通して中国や日本に伝来、「ブドウ」の語源となった。王翰(おうかん・687-726)の涼洲詞には「葡萄美酒夜光杯」と詠まれており、唐の詩人たちも夜光杯(ワイングラス)で葡萄酒を愛飲していた。ワインの銘柄や産地まで記載されているパフラヴィー語文献もあることから、サーサーン朝の王侯貴族たちは肉とワインの美食を堪能していたと思われるが、飲兵衛も多かったことだろう。
その③に続く
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