トーキング・マイノリティ

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あなたの名前を呼べたなら 18/印

2020-05-16 21:29:34 | 映画

 身分違いの恋を描いたインド映画。身分違いの恋など、日本では何とも古臭いと思われがちだが、この作品にはインドの根強い因習や厳格な階級社会が描かれている。この国の深刻な社会問題が現れており、安易に恋愛映画と呼ぶにも相応しくない。映画サイトMovie Walkerではストーリーをこう紹介している。

経済発展著しいインドのムンバイ。農村出身のメイド、ラトナ(ティロタマ・ショーム)の夢はファッションデザイナーだ。夫を亡くした彼女が住み込みで働くのは、建設会社の御曹司アシュヴィン(ヴィヴェーク・ゴーンバル)の新婚家庭……のはずだったが、結婚直前に婚約者の浮気が発覚し、破談に。広すぎる高級マンションで暮らす傷心のアシュヴィンを気遣いながら、ラトナは身の回りの世話をしていた。そんなある日、彼女がアシュヴィンにあるお願いをした事から、2人は距離を縮めていくが……。

 ラトナが夫を亡くしたのは19歳の時で、結婚から僅か4箇月目という。元から病身なのを隠して結婚したのであり、持参金は必要ないということでラトナの父は勝手に結婚話を決めてしまったのだ。さすがに現代はサティー(未亡人殉死)は強いられないにせよ、封建的な村社会で未亡人は肩身が狭い。そのため大都市に働きに来る村の女性は珍しくない。
 さらにラスト近くでラトナをムンバイに出したのが夫の家族だったことが明らかになる。理由は口減らしのためで、彼女は月4千ルピーを送金していた。それでも名誉を汚せば義弟が髪をつかんで村に引き戻すだろう、村では一生“未亡人”だ、というラトナ。

 名誉を汚すとは男性関係を意味しており、たとえ独身男性であっても未亡人は再婚はおろか恋愛もご法度なのだ。この作品の脚本も兼ねているロヘナ・ゲラ監督は女性で、インタビューが載っているサイトにはインドの未亡人の惨状が伺える個所がある。

都会に住む進歩的な人達でさえ、未亡人になるということは実質的に人生が終わったことを意味する場合があります。未亡人がどんな服を着るべきかに関するルールは都会ではまだ少ないものの、あらゆる縛りがあります。私が知っている未亡人で、のちに他の人と結婚し、前に進んだ人は一人もいません。
 すでに子供がいる人は、子供に残りの人生を捧げなければならず、他の男性と一緒になりたいとか、誰か一緒に人生を過ごす相手が欲しいとかいう思いが彼女にあるかどうかは関係ないのです。そのような思いは、インド社会では完全に否定され、女性のセクシュアリティーについて話題になることは滅多にありません……

 原題はSir。「旦那様」と邦訳されているが、アシュヴィンは「旦那様」ではなく、名前で呼んでほしいと云う。もちろんメイドのラトナにそう言えるはずがなく、ラストで初めてアシュヴィンと呼びかける。面と向かってではなく、インドを出国、渡米するアシュヴィンに電話越しで。

 案外知られていないが、女性の社会進出においてインドは日本より進んでいる。何しろ首相も出しているし、女性の政界進出は珍しくない。事業においてもキャリアウーマンは当たり前である。ただ、働く女性の状況も凄まじいカーストがあり、上層部の働く女性を支えるのも下層の貧しい女性なのだ。ラトナのようにメイドで働く女たちが、大都市の金持ちの家事や育児を担い、そのためキャリアウーマンがやれるのだ。
 日本で女性の社会進出がインドに後れを取っているのも、メイドを使う習慣がないことが大だろう。これもカースト制ゆえに都市の進歩的キャリアウーマンさえ、メイドの存在を当たり前と思っている。

 重いテーマの作品だが、ラトナの着こなすサリーは実に美しかった。デカ目に巨乳のド派手な女優が目立つインド映画では、ラトナ役のティロタマ・ショームは地味なほうだろう。しかしサリーは目に鮮やかで、さながら色彩の洪水。もしかすると衣装は十着以上も変えていたかもしれないが、原色のサリーは実に映像映えしている。
 インド映画にはつきものの長いダンスシーンは一切なく、挿入歌も2曲だけだったのも良い。総じてインド映画の挿入歌は歌詞がよく、ラストでも使われた歌は元気が出た。

心が空を駆けていく 糸の切れた凧のよう 
翼みたいに両腕を広げ 生きてみろという  
失うものは何もないから 踏みだそう 生きてみよう
私は心と手をつなぎ 昼間でも星をつかもう
不安な時は心をなだめ 困った時も生きてみる
失うものは何もないから 踏みだそう 生きてみよう



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