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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【ことわざ】難波先生より

2012-12-06 12:07:46 | 難波紘二先生
【ことわざ】街に出たついでに本屋により、何冊か本を買った。「現代用語の基礎知識2013」と「日本の論点2013」が出ていた。
 「日本の論点」の方は、論点の数は例年のように70ほどあり、賛成論・反対論が同数並記されているが、全体に薄くなった。例年の半分の厚さだ。
よく見ると、読者が問題を考えるための「データ・ブック」の部分が大幅に縮小されていた。これではね…
 予想どおり最初の論点10件は、「領土問題」だった。前はここは、日米関係とか核武装の是非だったのに、すっとんでしまったようだ。


 金文学「すぐ謝る日本人、絶対謝らない中国人」(南々社)を読んでみた。著者は中国瀋陽生まれの朝鮮族3世で、日本滞在11年。広島市在住とある。
 <「日本人は人情味がない」という中国人>という項に「親中無別」という言葉が「親中有別」と対をなして出てくる。


 要するに中国人や韓国人はちょっとでも親しくなったら、「迷惑をかけ合うのが当たり前」(親中無別)だが、日本人は友人の間でも迷惑をかけないのが当たり前の「親中有別」であり、それは彼らからみたら「日本人は人情味がない」ということになるのだそうだ。


 「親中無別」も「親中有別」も漢和辞典に載っていない。後者は「親しき中にも礼儀あり」の意味だろうと察しられるが、これが岩波の「ことわざ辞典」にも、明治書院「世界名言大辞典」、自由国民社「総解説・世界の故事名言ことわざ」にも載っていない。
 子供の頃から、耳にたこができるくらい聞かされたことばだから、意味はよく知っている。この有名なことわざが、代表的なことわざ辞典3点にも載っていないとは…


 Googleに用語の意味はあったが、語源はのっていない。 
 http://kotowaza-allguide.com/si/shitashikinakanireigi.html


 調べるうちに、「論語」学而篇第一が出典だという記載に出会った。
 http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120425/1335369753


 で、岩波文庫「論語」を見ると、「学而篇第一」12に有子(有若)の言葉として、「和を知りて和すれども、礼をもって之を節せざれば、また行われず」というのがある。(知和而和、不以礼節之、亦不可行也)。


 「和を知りて和す」というのは、「君臣相和す」、「家族相和す」「朋友相和す」といった意味であろう。しかし儒教秩序からいうと、「君臣のわきまえ」、「長幼の序」のような礼節をわきまえて、個人の行動に制限を加えず、「無礼講」のようにしてしまうと、「和」そのものが成立しなくなる、という意味だろう。


 そのエッセンスをひと言で述べたものが、くだんの日本語のことわざであろう。
 聖徳太子の十七条憲法に出てくる「和をもって貴しとなす」も、この12の冒頭に「和為貴」(和を貴しと為す)として出てくる。


 そんなわけで、これは大した本ではなかった。
 もう一冊、崔碩栄「韓国が<反日国家>である本当の理由」(彩図社)は面白く韓国と韓国人についての理解を深めてくれた。
 著者はソウル生まれの韓国人で1999年に来日、09年に帰国するまで10年間日本の大学で学んだ人である。訳書でなく、日本語での執筆だ。


 本文中に、1429年に朝鮮通信使として日本に来た朴瑞生の見聞報告が、当時の王の記録「世宗実録」に収録されているものが紹介されている。
 そこには、農業に水車が利用され、貨幣経済が発達し、お金さえあれば食料を持参しないでも宿に泊まり、長距離の旅行ができること、風呂がよく発達していて、富家には個人風呂があり、民衆用には公衆浴場があること、店舗の商品は朝鮮のように地べたに並べるのではなく、民家の軒下に棚をしつらえ、どろや埃がかからないように、そこに商品を並べていること、などが書かれている。(p.73)
19世紀末の李朝末期でさえ、貨幣経済が未発達で、全国共通の通貨がなかった朝鮮とは大違いである。


 1471年に編纂された申叔舟「海東諸国記」(岩波文庫)にも、この一部が引用され、さらに「人々は喜んで茶をすする。路傍に茶店があり、茶を売っている。行き交う人は銭一文を出して一椀の茶を飲む」とある。
 また「男女となく、皆その国字を習う。国字は片仮名と号す。およそ四十七字あり。ただ僧侶は経書を読み、漢字を知る」とある。
  1420年の通信使、宋希による「老松堂日本行録」(岩波文庫)も見たが、風景や接待について書き、漢詩を詠んでいるばかりで、マルコ・ポーロのような、政治・経済・風俗・技術に対する好奇心がぜんぜんない。


 1761(宝暦11)年、将軍家重から家治への代替わり挨拶に来た、朝鮮通信使金仁謙が大阪の町と大阪城を見て詠んだ漢詩が「日東壮歌」から崔碩栄の本に引用されている。「わが国の都城の内は、東西一里といわれているが、実際は一里に及ばない。…(大阪は)南から北までほぼ十里ともいわれる。土地はすべて利用され、人家、商店が軒を連ねて立ち並び、中央に淀川が南北を貫いて流れている。
 天下広しといえども、このような眺めを他にどこで見られようか。…」


 こう感嘆するまではよいのだが、問題はその後にある。
 「この良き世界も、海の向こうより渡ってきた、穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が、周の文王(注:前11世紀)のときにこの地に入り、今日まで二千年の間、…人民も次第に増え、このように富み栄えている。知らぬは天ばかりなり、驚くべし恨むべし」


 つまり金仁謙は、「半島から海を渡っていった、<穢れた血を持つ、愚かで獣のような人間>の末裔が棲む島だという予見をもって、日本に来たが、案に相違して日本一の商都大阪の殷賑ぶりは、1644年に成立した清朝の北京をはるかにしのいでいたのである。
 そのことに彼は素直に驚いたが、その驚きは「なぜ朝鮮とこうも違うのか?」という探究に向かわないで、「恨むべし」となるわけである。


 実はこの感情は基本的には嫉妬である。妬みである。朝鮮半島に安住の地を得られないで、海の向こうに移住した<野蛮人の子孫>のくせに、こんな立派な町や城を築き、豊かな生活を送りゃがって許せない、というものだろう。それが「怨(ハン)」なのである。


 崔碩栄によると、あらゆる経験的事実に反して、「日本人を劣った民族、文化的に後進民族」と考える信念が、民族伝承として牢固として韓国社会に根付いているという。1429年の朝鮮通信使朴瑞生の驚くべき記録が、当時の朝鮮社会に信じられなくて、申叔舟「海東諸国記」(1471)にほとんど収録されていないように、韓国人(そして中国人)も日本と日本人に関しては、事実を事実と受け入れるのではなく、自分たちの「観念」を優先し、観念に合わない事実を排除しようとしているようだ。それが「歴史認識」という問題だろう。


 あれは証拠をもとに、歴史的事実を確定しようという努力を放棄して、自分たちの観念を受け入れろという要求だ。
 今の「反日愛国主義」は、直接的には韓国と中国が、国家建設と経済発展の段階で「反日教育」を行った産物だが、日本に対する偏見はもっと根が深い。
 いわば「大陸人」が「島国人」に対して持つ本能的な差別意識のようなものがある。


 著者は、①現在韓国にみられる反日感情は「過去」に起因するものではない。②韓国社会には反日感情を生産・維持する社会的システムがある。③その「システム」の中に生まれ、育ち、外に出たことがない人々は、自分が限られた情報と報道にしか接していないことを認知できない、という3点をあげている。
 そうなると、ただ「嫌韓」ではものごとは前に進まず、韓国からの留学生の受け入れ、観光客の受け入れを促進し、日本に来てみて、ありのままに日本社会を体験してもらうのが、何よりも重要だということになる。本気でそう思った。


 隣の家に倉が建てば、腹が立つというのが、人間の本性だから、一衣帯水の隣国と仲良くやって行くのは大変だが、領土問題で譲歩することなく、もっと有効な対処法があるように思う。政治家にはぜひそれに気づいてもらいたいものだ。

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