ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【旅に死す】難波先生より

2015-02-16 12:55:19 | 難波紘二先生
【旅に死す】
 「月日は百代の過客にして、行き交う人もまた旅人なり。…故人も多く旅に死せるあり」と芭蕉は『奥の細道』の冒頭に記している。
 スキー家の三浦雄一郎はエベレストの天辺から無事に滑り降りてきたが、冒険家の植村直巳は、冬のアラスカでマッキンレー山に単独登頂した後、行方不明となった。遺体は熊にでも食われたのであろう。他にも、ヨットでの単独太平洋横断とか、気球での太平洋横断単独飛行とか、成功した人もいるしそのまま行方不明になった人もいる。
 海外旅行中に、強盗に襲われたり殺されたりした日本人は、数え切れないほどいる。2/10の新聞にはオーストラリアでサーフィン中に、サメに食われた日本人の記事が載っていた。
 いずれにせよ言葉が通じない海外の旅は、大なり小なり危険が伴うものだ。芭蕉も、門人が案内してくれたとはいえ、信夫の里や飯塚のあたりでは、福島弁がわからなくて苦労したことだろう。
 
 国家公務員の場合、公用で国外出張する場合には「公用旅券」が出る。ただし、文科省関係は短期の学会出張は、出かける研究者も多く、手間ひまがかかるので、一般旅券になる。
 外務省の外郭団体「JICA(国際協力事業団)」の依嘱による仕事だと「公用旅券」が出る。
 入国審査の時に「外交官並待遇」をしてくれる国があるから便利といえば便利だが、使用後に返納の義務があるから、勝手なところに行けず、窮屈な点が多い。

 今までに2度か3度、この公用旅券で外国出張したことがある。公用旅券のよいところは渡航先の大使館が、「お客様(ビジター)」として扱ってくれる点だ。現地のJICA職員が空港まで出迎えてくれるし、宿も手配してくれる。
 が、現地の状況に応じて、臨機応変の措置を取ろうとすると、大使館の過保護はかえって邪魔になる。西アフリカ象牙海岸共和国(コートジボワール)に行った時、こんなことがあった。

 大使館員が連れて行ってくれたあるパーティで、象牙国の厚生大臣に会って、「エイズ患者の罹患数と死亡数の統計」についてたずねたら、「そんなものない」という。当時はまだ、「エイズはホモ(ゲイ)がかかる病気」という誤った認識がつよくて、肝心の流行地であるアフリカ諸国はエイズ患者の存在自体を否定していた頃だった。

 現地の公用語はフランス語だが、新聞を買ってきて、「死亡広告欄」を読むことから始めた。新聞に2面にわたり、3行か4行の定型的な死亡記事が載っている。死者の圧倒的多数が若者で、「長く続いた患いの果てに」死亡したと書いてある。典型的なエイズの症状だ。
 象牙海岸国では、バリ島のドゴン族みたいに、「葬式を一生の大事」と考えていて、金持ちも貧乏人も競って新聞広告を出すと聞いた。だから死者数はほとんど死亡広告で把握できる。
 死人が出た以上は、火葬が一般的でないので、墓地に埋められるはずと首都アビジャンの町外れにある公共墓地を見物に出かけた。ある商社の支店が協力的で、イバという運転手付の社用車を用立ててくれた。ここにはイスラームの墓もクリスチャンの墓もある。
 富裕なイスラム教徒の墓など立派な石塔で、前面に陶板に故人の生前写真を焼き付けたものが、はめ込んである。クリスチャンの墓は扁平な石の板である。
 ところが、墓地の奥にある荒れ地が新しい墓所になっていて、そこには無数の縦長の墓穴が掘られていて、土盛りをしただけのもの、上に十字架が刺さったもの、棒杭だけがあるものばかりで、個人識別ができるようなものはない。運転手のイバの話によると「ドンゴロスの袋に入れ、そのまま墓穴に入れ、上に土を盛る」という。棺桶もないのだ。
 新しい死人の多くがここに葬られているのだ。ということは、新聞の死亡広告で見た、「貧しい若者の死者が多い」ということと符合している。

 入口の墓の管理人に聞くと、「参拝者のために、墓の位置を案内するだけで、毎日何体遺体が運び込まれたか、どういう病気で死んだのか、それは私の仕事ではない」という。
 ともかく、これで「貧しい若者が多くエイズで死んでいる」という印象は強くなったが、統計的数値や感染経路などは、不明のままだ。

 ホテルに戻る途中、私がドクターであるのを知ると、イバが「下痢が続いて、体調が悪い」と盛んに訴える。たぶん、細菌性の下痢だと考え、ホテルまで送ってもらった後、持参していたバクシダールという抗生物質をわけてやった。
 二、三日後にまた会ったら「あのクスリはとてもよく効いて、すっかり下痢が止まった。どうもありがとう」と言ったので私も喜んだ。
 ところが、2年後にまた象牙海岸を訪問して、彼のことを商社の人に聞いたら「イバは1年前にエイズで死にました」といわれて驚いた。下痢はエイズの症状のひとつだが、まさか一流商社の現地社員まで感染しているとは思わなかった。

 墓地調べの後は、血液銀行の調査に行った。担当者に面会して調べてみると、まず完全な献血制度がなく、「交通費」という名目で平均的労働者の1日の賃金を上まわる金額が献血者に支払われていること、常習的売血者がいても排除する仕組みがないこと、血液のエイズ検査は費用の関係で行われていないこと、この国では輸血が治療目的でなく、「健康増進剤」として行われていること(ちょうどアリナミンの点滴がかつて日本で「強壮剤=元気になるクスリ」として利用されたのと似ている)などがわかった。もちろん母児感染もある。

 アビジャンの大学病院に行き、感染症病棟の担当教授と意見交換したら、彼もこういう実態を詳しくは知らなかった。主任教授がオリンパスの内視鏡で胃を検査するところを見学したら、内視鏡を消毒しないで、ずらりと並んだ患者に、次から次へと咽から内視鏡を押し込んで胃の検査をしている。画像はテレビモニターに写るから、レントゲンフィルム代がかからないので、コストは安い。しかり、これではピロリ菌を移しているようなものだ。

 キャンパス内にWHOから派遣されてきていたフランス人医師の事務所があり、彼女とも意見交換した。彼女のところにも、正確なエイズ統計がなかった。ただ妊婦のHIV陽性率のデータがあり、25%を超えるということだった。

 問題は、性行為による感染ルートだが、この国では売春が違法とされているので売春婦の健康診断がない。「違法」ということは、「公的には売春は存在しない」ということで、これではオフィシャルなルートで質問しても意味がない。
 一度目の調査の時には、大使館医務官のS先生が協力してくれて、アビジャンの「ストリートガール」が出没する地区に案内してくれた。およその検討はついたが、ここは高級娼婦がいるところだ。

 象牙海岸は西アフリカ沖で操業する日本漁船の中継基地でもあり、漁船の乗組員たちが休養で遊びに立ち寄る町がアビジャンである。
 だったら、彼らと夜の行動を共にすればよい。ということで、日本人相手の酒場で、うまく仲間に入り、もっと安い現地人が利用する売春街を訪れた。ここはスラム街のど真ん中にあり、これだけは万国共通か、赤い灯が付いた建物が、売春宿だった。
 料金はきわめて安いという。翌日昼間に同じところをタクシーで訪ねたら、下水道もなく未舗装の道路の真ん中が排水溝になっていて、臭くて不潔な場所だった。トイレは路傍の公衆便所で、排泄物をバケツの水で流すと道路の溝に流れるという、信じられない構造になっていた。

 このスラム街に通じる大通りの歩道にも、夜は売春婦が立っている。近づくと「遊ばない」と声をかけてくる。聞くと隣国ガーナから出稼ぎに来ているという。「エイズが怖くはないのか?」と聞くと、「友だちが1人それで死んだ。だが自分はかからないから大丈夫だ」という。
確かに職業的売春婦の中には、HLAの関係でエイズに感染しないものもいる。というか、エイズに感染しないから、職業として続けられるというべきだろう。聞けば、お客のホテルまで同行するという。
 この「出稼ぎ売春集団」は、スラムの売春宿とは別系統だ。

 こういう調査はアメリカや日本では、必ずマフィアや暴力団がからんでいて、危険な局面に立ち至るもので、現に現地の大使館からは「危険だからスラム街には立ち入らないように」と警告されていた。
 が、結果として私は一度も身の危険を感じるような状況には直面しなかった。後で知ったことだが、アフリカの売春は基本的に「個人営業」で、組織売春というものが存在しないのだそうだ。
 
 シリアの人質殺害事件が起こってみると、私も若い時はそうとう無茶をしたなあ、それで事故が起こらなかったのは、不思議だなあとも思う。私の場合もそうだが、好奇心がまさっていて、危険性をかえりみなかったというのが、本音だ。
 大げさな言い方をすれば、「このエイズ調査で、エイズ感染ルートを解明すれば、多くの人命が救われる」と思っていたことも事実だ。

 宗教とのからみでいうと、コートジボワールでは一日5回のイスラム教徒の礼拝を見たことがない。アビジャンのスラム街近くにモスクを見かけ、建物のドアが開いているので、近寄って中をのぞき込んでいたら、ターバンを巻いた「神父」のような男が現れ、大声で怒鳴りつけられたことがある。履いているスニーカーを指さして、フランス語でなく、スワヒリ語か現地語で「履き物を脱いで、敷地内に入れ!」と怒鳴っているらしい。
 面白いもので、言葉は通じなくても、声調と身振りで言っていることが通じる。
(後にシンガポールのモスクに行ったら、ここは内部が板床張りで、靴とソックスを脱がないといけないと、案内板に英語であった。アジア系のイスラム教徒が、メッカの方を向いて礼拝をしていた。)
 アビジャンのモスクはコンクリートの床で、信徒は1人もいなかった。「現地ルール」を知らなかった私に責任があるのだが、もし多くの信徒がいたら、彼もあれほど興奮はしなかったのではないか、とも思う。

 幸い私がJICAに提出したレポートは、西アフリカにおけるエイズ流行の最初のまとまった報告として評価され、NHKにわたったらしく、後に東京NHKが「Nスペ」で現地調査に入るからとディレクターが広島の自宅まで取材に来た。JICAの調査費は無駄にはならなかった。

 1990年頃は、まだ湾岸戦争もなく、9/11も起こっておらず、平和だったからこそ、エイズが急速に広がったので、事情はいまとずいぶん違うが、芭蕉のいうように「旅に死す」のは、旅する以上、当然、心しておくべきだと思う。これは決して、なくなった2人を非難する言葉ではない。
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