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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【絞首刑?】難波先生より

2014-07-13 22:29:30 | 難波紘二先生
【絞首刑?】
 堀川恵子『教誨師』(講談社)にG.H.ブスケ『日本見聞記1』(みすず書房)からの引用があり、明治5(1872)年頃、日本では「吊し首」による死刑が執行されていたのを知った。
 明治政府の新立法は箕作麟祥(みつくりりんしょう)がナポレオン法典を邦訳するところから始まった。が訳文はできても、日本法として法案を作成するのは彼の手にあまり、仏人の法律家が「御雇い外国人」として招聘された。ブスケは政府の法律顧問第1号である。そのブスケが来日早々に「吊し首」の実態を見て、早速に止めさせたらしい。
 新政府は明治3(1869)年に江戸幕府の死刑法のうち、「火罪(火あぶり)」、「鋸引き」を廃止したが、「磔刑」、「斬首」、「切腹」は残っていた。江戸期には「絞首刑」はなかったので、恐らく英国の方式を模倣したのであろう。
 ブスケの邦訳は東大法学者による無粋な文章で、意味不明である。森川哲郎『日本残酷死刑史』(日文新書)のよると、一本の柱があり、その下に四角い踏み石とその上に載せた板があり、死刑囚をその上に立たせて、組に輪を作った縄をかけ、縄の端を柱の上の溝に通し、その先に大きな重りをつけ、首を上に引くようにしておいて、踏み板を蹴って外したらしい。
 この方式は中国清朝の方式とも、それをまねたと思われる朝鮮李朝の方式とも異なる。中国・朝鮮方式は死刑囚の首にロープの輪をかけ、両端に木の棒を通し、刑吏二人が棒を回してロープを首の回りに締め付けて、窒息死させるもので、公開処刑として行われた。群衆の望みに応じて、死刑囚の苦しみを長引かせることができるという利点があり、失敗は少なかった。
 氏家幹人『大江戸残酷物語』(洋泉社新書, 2002)には明治3(1870)年施行「新律綱領」(刑法)による「絞首柱」の図が載っているが、角柱の前面に立たされた死刑囚の後首に当たる位置に木枕がある。木枕は半円状に凹んでいて、囚人の首がスッポリ接するようになっている。木枕と首との接する部分に柱の後に通じる穴があいていて、ここから輪状に絞め縄が垂れ下がっている。縄の両端は絞柱の後にぶら下がっていて、錘を止める金具が付いている。柱前面には囚人の胸部と下腿の部分で囚人を固定するように、縄を固定する金具が付いている。
 「新律綱領」による「絞首柱」式処刑は、明治6(1873)年、「改正律例」の施行により「絞罪器」式処刑に改められた。従って明治5年に来日したブスケが見学した日本の死刑は「絞首柱」方式で、木枕にあてがわれた囚人の首を縄の後に付けた重りの力で締め付けるものだ。この方式の欠陥は、罪人が死ぬまでに時間がかかりすぎること、苦痛が長引くことである。明治5(1872)年12月には今の愛媛県で死刑を執行した後、遺族に遺体を引き渡したところ、20キロばかり行列が歩んだところで、死人が息を吹き返したという事件が起きている。(『日本残酷死刑史』)このため「より確実な絞首方式」に改められたものであろう。

 新しい「絞首器」は上記氏家本の挿絵を見ると、お祭りの櫓のような形をしていて、17階段で上に上ると6畳ほどの床があり、周囲が低い柵で囲まれている。床の中ほどに鳥居型の柱が立っていて、両側の支柱は地面に埋め込まれている。梁に相当する柱の中央部に2個の滑車が取り付けられており、そこから端が輪になった2本のロープがぶら下がり、他端が柱に固定されるようになっている。
 足もとは踏み板になっていて、右側の縦柱の床下レバーで開閉するようになっている。これは「落下絞首」方式で、一度に2名の死刑を執行できる。元最高裁長官、団藤重光『死刑廃止論・第6版』(有斐閣, 2000)付表によると、明治8~17(1875-84)年の10年間に、1,553名の死刑が執行されている。2名同時執行という例もあっただろう。
 俗に「十三階段」というが、この時に作られた死刑台は17段の階段を登って2階に上がったところにあり、鉄環を通した縄を死刑囚の首にかけ、鉄環を首に接して縄を絞め、床の踏み板を落として、死刑囚を落下させる方式だったという。囚人の足が地面からほぼ1尺程度の位置に来た。
 同じ落下方式でもこれは階段を登る「屋上絞架」方式で、絞首台そのものが屋外に設置されていた。篠田鉱造が『明治百話(上)』(岩波文庫)に採録している「首切り浅右衛門」の語りによると、「斬首刑」の廃止により失職したのが、明治14年7月24日のことだという。つまりこの時、斬首刑が全廃され、「絞首刑」に変わった。
 篠田は元刑務官で「山田実玄死刑の立会」という項で、明治26(1893)年に自分が目撃した死刑執行を記録している。
 それによると、刑場は東京市ヶ谷にあり、死刑囚を京橋鍛冶橋の監獄から馬車で護送した。刑場へ引き渡された囚人は、典獄長や立会の判事・検事 (篠田は「立会判検事」と書いているが、後述するように判事でなく「裁判所書記官」が正しいと思われる)と「教訓師」などが居並ぶ10畳ほどの「教誨場」のムシロの上に座らされ、白布で目隠しされ、首に絞殺用の紐を掛けられ、僧侶の説教を聞かされる。
 死刑執行場は別棟で、10間ほど離れたところにある。処刑場は階段を上がったところに6畳ほどの広さのものがある。この頃の締縄の長さは不明だが、篠田は「被処刑人の足が地上より2尺ばかり高い位置に来た」と書いている。囚人の身長個人差が30cmもあったとは思えないが、ともかく森川は「1尺」と、篠田は「2尺」と書いている。
 これで当時の死刑が「屋上絞架」式であったことがわかる。

 ところが「死刑執行場」の構造が、きちんとした法令なく、いつの間にか「地下処刑場」方式に変わったのだそうだ。(森川本、堀川恵子『教誨師』)
 A級戦犯の処刑が行われた東京拘置所(巣鴨)は、拘置所と監獄を兼ねていた。米軍に接収され、1958年に日本に返還されたが、「巣鴨刑務所」は閉鎖になった。その後まもなく東京拘置所で死刑が執行されなくなり、1963年まで宮城刑務所に移送して処刑していたという。つまりこの間、東京には処刑台がなかったらしい。
 精神科医・作家の加賀乙彦(本名:小木貞孝=こぎ さだたか)は、1955から2年間、小菅に仮設されていた「東京拘置所」の精神科医官として勤務した。彼の『死刑囚の記録』(中公文庫, 1980)には、「実際の死刑の模様を私は自分の小説のなかに忠実に描いておいた」とあり、これは『宣告(上・下)』(新潮文庫)のことと思われるが未読である。で、加賀は「地下絞架」式だと証言している。
 63年に小菅の東京拘置所に処刑台が設置され、66年4月からここでの死刑執行が再開されている。『教誨師』の渡邊普相師が立ち会ったのはここでの処刑である。これは「地下絞架」式だったという。
 連合軍に接収されていた「巣鴨刑務所」でのA級戦犯7名の処刑は、処刑台の処理能力の関係で先に4人(土肥原賢二、松井石根、東条英機、武藤章)が一緒に吊され、後に3人(板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎)が約20分後に同じ処刑台で吊された。取材した児島襄『東京裁判・下』(中公新書)によると、「十三階段の上には先端を環にした五本のロープが垂れていた」とあるから、実際の処刑能力は5人だったと思われる。数が多かったBC級戦犯の処刑の場合、5人一緒に吊した例もあると思われる。
 児島は「十三階段」と書いているが、日本製の処刑台なら17階段で、絞首環は2個、よって同時処刑可能は2名だったはずだ。1957年に「十三階段への道」というニュールンベルグ裁判を扱った西ドイツ製作のドキュメンタリーが放映されたから、多くの日本人が死刑台への階段数は13段と思いこんだ。
 http://eiga.com/movie/65617/
 私は小学生の頃から、「なんで学校の階段は下の段数が多くて、上が少ないのか?」と不思議に思って来た。下が9段、踊り場があって上が7段というのが多い。「13階段」は「13日の金曜日」と同じく、「不吉」を意味するシンボリックなものとやっと気づいた。(ちなみに今の洋式自宅のらせん階段の段数を数えたら14段だった。)
 こうしてみると、詳しい記録はないが、「地下絞架」式に変わったのは、1963年に小菅に新しい死刑場が設置された時ではないか、という気がする。「地下絞架」式の利点は死刑囚が暴れて階段を登ることを拒否しても、水平移動するだけだから、処刑に手間がかからない点にあるだろう。

 英国の場合、ロンドン郊外のタイバーンは、公開処刑場として有名なところで、3辺の梁をもつ首吊り台が設置され、一度に6人を処刑できた。少年法が成立する1833年までは、盗みをした7歳の子どもまでが死刑に処せられている。
 1個のパンを盗んで20年の懲役刑に処せられた『レ・ミゼラブル』の主人公、ジャン・バルジャンの話は、決してフランスだけのことに留まらない。英国の死刑判決文には「デス・バイ・ハンギング」とある。これは「死ぬまで吊すべし」という意味だそうだ。
 高校生の頃に見た「東京裁判」の記録映画で、裁判長がA級戦犯に判決を言い渡す場面があり、次々と「Death by Hanging」と主文を読み上げる場面を想い出した。文字どおりだと「吊しによる死」なのに、なぜ日本では「絞首刑」というのか、あれ以来ずっと不審に思って来た。
 上記の森川本によると、「絞首」の形での「絞柱刑」は明治6年2月に「絞架刑」に変えられるまで続いたという。(死刑方法としての「絞柱刑」がいつ始まったのかは不明。)絞架刑は屋上式も地下式も、「縊首刑」であり「絞首刑」ではない。縊首とは俗にいう「首吊り」のことである。

 「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁じる」(憲法第36条。)
 「死刑は、監獄内において、絞首して執行する」(刑法第11条)
 「人を殺したものは、死刑又は無期刑若しくは三年以上の懲役に処する」(刑法第119条)。
 「死刑の執行は、法務大臣の命令による」(刑事訴訟法第475条①)
 「法務大臣が死刑の執行を命じたときは、五日以内にその執行をしなければならない」(刑事訴訟法第476条)
 「死刑の執行は判決確定の日から6ヶ月以内にこれをしなければならない」(刑事訴訟法第475条②)。
 「死刑の執行は監獄内の刑場においてこれを為す」(監獄法第71条)
 「死刑は、検察官、検察事務官及び監獄の長又はその代理者立会の上、これを執行しなければならない」(刑事訴訟法第477条①=「旧刑訴法541条」, 大正11年施行)
(なお、明治23年施行「刑事訴訟法」(第318条②)では検察事務官でなく「裁判所書記」の立会が義務づけられていた。今、裁判官は死刑の実態について無知である。)
http://www.geocities.jp/lucius_aquarius_magister/M23HO096.html#08
 「死刑を執行するときは、絞首の後死相を検しなお五分時を経るにあらざれば、絞縄を解くことを得ず」(監獄法第72条)。
 上位法である憲法(1946)から、上から下へと下位法に降りて行くと、確実にタイムスリップして行く感覚がある。刑法でまず明治40年代に遡る。刑事訴訟法も同様である。監獄法に至っては、明治6(1873)年に廃止されたはずの「新律綱領」による「絞縄による絞首法」が今なお生きている。
 「縊首」を「絞首」と読み換えて平然としておられる国だから、「解釈改憲」による「集団自衛権」の正当化など屁ともないであろう。G.オーウェル『1984年』はここに実現している。ビッグ・ブラザーが支配する国では、「平和」は戦争の意味であり、「真理」は虚偽を意味する新言語「ニュー・スピーク」が公用語になっている。

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