ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【出羽陸奥の面影】難波先生より

2014-06-12 19:19:12 | 難波紘二先生
【出羽陸奥の面影】
 イサベラ・バードが明治11年に旅した出羽山形から陸奥青森までの記録を、『日本奥地紀行』から拾い読みすると興味深い。彼女は横手から久保田(秋田)に行き、八郎潟、大館-碇ヶ関経由で青森県黒石に入っている。当時の道路事情ではそうせざるをえなかった。
 山形―天童―尾花沢―新庄―金山―湯沢―横手―(角館-田沢湖―鹿角―十和田湖)―黒石―大釈迦―新城―青森
山形=青森の道路距離:371Km
 特に興味深いのは当時の民衆の様子、宿屋の模様、民家の構造、病気と病人についての観察記録部分だ。山形県新庄市についてこう書いている。
新庄=新庄は人口5千人を超える大名の町(新庄藩=戸沢家6万8千石)だがみすぼらしい。道中の農家は、建築様式がすっかり変わった。家屋は長方形で、短辺が道路に面していて、ここに入口と住居部分があるが、大部分は納屋である。家屋には障子がなく、雨戸だけであり、その上端に障子紙の小さな明かり窓が付いている。日中には雨戸を引き、富裕な家では、開いたところに藁や割り竹で作ったすだれを下げている。家屋は重い梁と、切り藁をまぜた茶色の粘土の上を、木摺で塗った壁とで出来ている。天井はなく、鼠取りヘビ(青大将)が垂木の上にわがもの顔で棲んでいて、ときどき下の蚊帳の上に落ちてくる。
院内=院内は雄物川の支流に囲まれた村で、実に美しい。ここに宿を取った。上院内と下院内の二つの集落に、日本人が非常に恐れる脚気が発生している。人口が約1,500人なのに過去7ヶ月間に100人の死者が出た。
湯沢=着いてみると、湯沢は人口7千人の町で、数時間前に火事があり70戸が消失したという。その中には泊まるはずだった宿屋もあった。火事は酔っぱらいが一人死んだだけだが、もし私が泊まっていたら、お金以外のすべてを失っていただろう。
 いやな感じのする町だ。昼食を駅亭の中庭でとっていると、見物人が何百人も門のところに押しよせて来た。後の者は、私の姿を見られないので、梯子をかけて隣の家の屋根に登った。やがてそうした屋根の一つが大きな音を立てて崩れ落ち、男女、子ども50人ばかりが、下の部屋に墜落した。幸い数人が擦り傷をしたくらいで、負傷者はなかった。4人の警官が事情聴取に来て、私の旅券の提出を求めたが、旅券に書いてある文字を彼らは読むことができなかった。警官が立ち去った後、見物人はまた押しよせて来た。まことに奇妙な群衆で、黙ったまま口だけポカンと開けて、何時間もじっと動かずにいる。
横手=横手は人口1万人の町で、木綿の商取引が盛んである。もっとも良い宿屋でも、立派なものは一つもない。町は見栄えが悪く、悪臭がただよい、わびしく汚く、じめじめしたみじめな所である。町の中を歩いていると、男も女も私を見ようと、風呂屋から素っ裸で飛び出してきた。
 宿の亭主はたいへん丁寧だったが、竹の梯子を登って、私を暗くて汚い屋根裏部屋に案内した。
大館=大館は人口8千人の町で、半ば崩れかかった人家がみすぼらしく建て込んでいた。屋根は木の皮で葺いてあり、それを石で押さえてあった。宿は大雨で足止めされた旅人で満員だった。約40人の客はほとんど男で、たいてい大声で話しているので、襖1枚を隔てて土間や台所にも近いこの部屋は騒音のど真ん中にある。この騒音は、50人の英国人が紙一枚を隔てて隣にいた場合の3倍はある。
 日本の下層階級では、少なくと男の場合には、低い声で話すことは「立派なたしなみだ」と考えられていない。人々は声の限り高い声でしゃべる。その会話を聞いていると、イギリスの農家の庭先で鳴いているガチョウの騒音を想い出す。
碇ヶ関=白澤から最後の峠、矢立峠を越え、最後の橋を渡ると碇ヶ関に入った。ここは険しい山と平川の間の狭い岩棚にあり、人口800人の、まことにわびしくうらぶれた村である。もっぱら材木を切り出したり、屋根板を作ったりして暮らしている。
 ほとんどどの家も障子窓はなく、ある場合でも黒く煤けていて、ない方がましの有り様だ。屋根はほとんど平らで、屋根板の上に薄い木片で葺いてあり、大きな石を重石にしている。壁の多くは、粗末な板を縄で柱に結びつけているにすぎない。
 宿の下手は台所と納屋で、大雨で足止めされている学生の一団と馬、鶏、犬などがいた。私の部屋は梯子で上らなければいけない、屋根裏のあわれな部屋だ。土間は大雨で、部屋から下りるには膝まである長靴(ウェリントン・ブーツ)を履かなければいけない。
 雨が降り止まず、ここで三泊四日を過ごした。村長や宿の主人と話をした。この村には眼病、皮膚病、癩病患者が多い。温泉が癩病の治療に効くと思われていて、この村に来る患者もいる。1日に三度、沢山の眼病患者に「亜鉛華目薬」をつけてやったら、3日間のうちに著功があった。おかげで村人は私に親切になり、診てくれと多くの病人を連れてくる。この土地の子どもは半数近くが頭にしらくもがある。これらの病気の大部分は、着物と身体を清潔にしていたら、発生していないだろう。村には、石鹸がなく、着物をあまり洗濯しないし、リンネルの肌着がない。これらはいろいろな皮膚病の原因となる。
 携行の非常用外国食品が尽きて、米飯、胡瓜、塩鮭を食べて暮らす。地元の塩鮭はとても塩辛くて、二度水煮してもなお塩辛い。喉が渇いて困るが、それさえも尽きた。大雨のせいで海岸との交通が途絶え、村に塩魚が完全になくなったのだ。卵もなく、米飯と胡瓜だけになった。
黒石=(続く)
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