ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【佐野眞一】難波先生より

2013-06-30 22:16:14 | 難波紘二先生
【佐野眞一】の「ハシシタ 奴の本性」(「週刊朝日」2012/10/26号掲載)という記事が、昨年10月に差別記事だと問題になり、連載中止、編集長解任、版元の朝日出版社社長辞任という事態に発展した。企画は「週刊朝日」取材班が「橋下徹を三代さかのぼる祖先まで」調査し、60人以上の取材から得た素材をもとに15回連載の予定だったらしい。


 私は知らなかったのだが、ネットの世界では「佐野眞一の盗作癖」が大問題になっていたようだ。宝島社のムック(溝口敦・荒井香織編)「ノンフィションの<巨人>、佐野眞一が殺したジャーナリズム」(2013/5)を読んで驚愕した。


 「週刊朝日」問題浮上後の2012/10/19日、猪瀬直樹東京都知事がツィッターで「佐野眞一が1985年雑誌『現代』11月号に書いた記事には、1981年間の溝口敦の本からの盗用が10数カ所もあり、『現代』12月号に<お詫びと訂正>が載っています」(大意)という書き込みをしたのが発端だという。
 それをネット雑誌「ガジェット通信」の荒井香織が連載として執拗に掘り下げ、佐野の主な著作における「地の文」と巻末の「参考文献」に揚げられている対応書の文章を照合し、「盗用」があるかどうかをチェックした。
 大変な作業である。執念の産物というしかないが、「佐野眞一・盗用対照表」という62頁に亘る原本と盗用疑惑箇所の文章が対比されている。こんな傑作ははじめて見た。


 「盗作疑惑」を追及した本は日本には乏しく、手元には
 1)竹山哲:「現代日本文学<盗作疑惑>の研究」, PHP研究所, 2002
 2)鵜飼清:「山崎豊子、問題小説の研究」, 社会評論社, 2002
くらいしかない。


 竹山は阪大工学部卒の工学博士で、この本には国文学者・評論家の谷沢永一が30ページ弱の「解題」を寄せている。
 盗作が指摘されている作家は、田山花袋、森鷗外、徳富蘆花、井伏鱒二、太宰治の5人である。
 鵜飼は早大社会学部卒のジャーナリストで、山崎豊子の主な作品におけるネタ本と盗用をめぐる原作者とのトラブルを詳しく記述している。これも労作である。


 盗用を証明するには、「文章が似ている」だけではダメで、「文章が酷似しており、かつ原文にあるエラーがそのままコピーされている」ことを見つけないと、証明にならない。


 佐野眞一は創価学会の池田大作について、1985年11月号の雑誌『現代』に記事を載せている。
 池田が若い頃、雑誌編集者だったことを説明するくだりで、池田は「時に山本神一郎というペンネームで穴埋め記事を書いたという…」と書いている。
 これは溝口敦「池田大作ドキュメント、墜ちた庶民の神」(三一書房, 1981)にある「時に山本神一郎というペンネームで穴埋め記事をかいたという。」という文章のコピーである。
 なぜ「盗作」と断定できるかというと、ここは溝口の誤記で「山本伸一郎」が本当だからだ。佐野が地道な取材や資料の交叉照合をすることなく、溝口本の文章をそのまま自分の「地の文」として転記したために起こったミスである。
 この件の場合、他にも50箇所で無断転記があることが判明している。
 他の著者についても、本人が「表記の間違いまで写されている」と指摘している。
 これが2個もあるので、佐野が盗用したことは間違いない。


 佐野の手紙写真を見ると、万年筆で一字一字を楷書体で丁寧に書いており、器用な書き手ではない。パソコンは使えないそうだ。
 原本を机上に置き、手書きで写し取ったのだろう。


 佐野眞一が原作者宛に書いた「詫び状」の写真も2通、公開されている(別人宛)。いずれも担当編集者が持ってきたもので、佐野本人が直接面会して謝罪してはいないという。
 もし私なら本人の前で土下座して謝るけどね… それをしなかったのは「罪」という意識がないからだろう。
 佐野の盗作癖は若い頃から始まっていたようだ。「盗作常習者」というわけだ。


 で、佐野の取材データマンだった記者たちが座談会をやっているが、佐野の手法は週刊誌の「データマン=アンカーマン」と同じ方式だったそうだ。現地取材を自分ではしていないから、「私」と書いていてもそこは想像で補っているので、ノンフィクションと銘打っていても、実際は「佐野文学」だという。


 「<この佐野眞一が、これから橋下を料理するんだ>という意気込みはすごかった」というデータマンの発言もある。
 「傲慢」になると、えてして人は転ぶものです。解任されて「なぜだ!?」と発言した三越の岡田社長みたいに。


 この盗作問題で取材したら、「福田和也さんや坪内祐三さんといった業界の大御所が<佐野眞一の盗用は業界では有名な話>と冷笑的だった」と知らないのがバカ、という応対をされたという発言もある。
 佐野を育てたという小板橋二郎の回想によると、佐野は若い頃猪瀬直樹、山根一真と組んで仕事をしていたが、猪瀬と山根は「盗作されて」佐野から離れたのだそうだ。


 ともかくこのムックは、読んで面白いし、資料としても貴重だ。推薦する次第です。


 米国では1980年代に、科学論文の捏造・データ盗用が多発し、
 1)W.ブロード、N.ウェイド:「背信の科学者たち」,講談社ブルーバック
 2)村松秀:「論文捏造」, 中公新書ラクレ
 などで紹介されているし、
 3)奥野正男:「神々の汚れた手」, 梓書院 (毎日出版文化賞受賞)
 という旧石器遺跡捏造を扱った本も出ている。


 これら捏造者に共通するのは、
4)山本譲司:「累犯障害者」, 新潮社
 が示しているように、「出来心による」ものではなく、若い頃からあり常習的・体質的なものであり、「治らない」という点だ。山本は「一種の知的障害者」だと指摘している。


 旧石器遺跡捏造の犯人藤村新一は後に精神病院に収容され、30年近く捏造をしてきたことを認めた。
 1)が紹介しているジョン・ロングの事件の場合は、科学界から追放となりおよそ10年後、今度は裁判となった患者の病理診断書を偽造したことがばれて、医師免許剥脱になった。


 ただ「模倣、まね、パロディー、本歌取り、盗用、盗作、剽窃」は一連のスペクトルをなしており、法律のように無罪/有罪の境界を設定するのはなかなか難しい。日本の文化も技術もあらかた、よくいえば「模倣」、悪く言えば「盗用」である。


 林達夫の評論集「思想の運命」(中公文庫)に「いわゆる剽窃」という標題の一文がある。
 これはもと同じタイトルで岩波書店から昭和14年に出た本だから戦前の論考だ。


 この小論の小見出しは、
 1)剽窃はインチキであるか、
 2)剽窃家の歴史、
 3)文化継承の一手段としての剽窃、
 4)学問の共有と私有、
 となっていて文学だけでなく科学における盗作も論じている。なおこの時代の林はまだマルクス主義者である。転向はそれ以後のことだ。


 しかしここでは「学問的発見」の社会的共有の問題と私的な「知的所有権」=私有財産の問題がすでに論じられており、その議論の先駆性には驚く。
 「みんながやっている」から許されるという論理は成り立たないが、林は「<剽窃>から身の潔白を説明することのできる文筆の士の数は予想外に少ないのではないかと思う」と書いている。
 「宝島NF」に書いている若いジャーナリストたちにも、自戒の意味をこめて、この一文を読んでほしいと思う。
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