ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【書き込みを読んで:アーチの起原】難波先生より

2016-05-17 07:38:15 | 難波紘二先生
【書き込みを読んで:アーチの起原】
<Unknown (Unknown)=2016-05-09 22:21
>アーチ
古代ギリシアは多用しなかっただけでアーチ構造は知っていたよ。アルカディコ橋って知ってる? たぶん、後期青銅器時代に作られて、現在も使用されているよ。
アーチをローマ人に伝えたのはエトルリア人と考えてよい。王政初期には既にアーチを使ってたよ。クロアカ・マキシマとかね。どうしてマケドニアが出てくるの?
(中略)
 築城の石組みには文化がある。たしかな技術で積まれた石垣はめったに崩壊しない。…生半可な知識で、日本の伝統技術を馬鹿にするのは許さないよ。>
という書き込みがあった。

 間違っていれば(証拠を提示するのが前提)、いつでも訂正・謝罪すると述べて来た。同様に、間違った書き込みにも反論権を保持する。

まず「日本の築城技術」の「文化」について。
 中世の山城は、砦のようなものだった。
 信長が安土城を平城として初めて築いた時、「天守閣」が設置され、以後、五層の天守閣を具えた大型の平城が普及するようになった。なぜこの本丸を「天守閣」(現代英語でDungeon=ドンジョン)と呼ぶのか?
 これは中世英語ではDonjonであり、信長の天下統一の頃はラテン語、ポルトガル語、スペイン語でもDominioと呼ばれていた。ドミノ(Domino)とは「天主」の意味であり、天主の住む楼閣を意味するDominionが「天守閣」と翻訳・命名されたのである。この場合、信長にとって「天主」とは自分自身のことであった。
 後は、秀吉や家康やその家臣たちが、競って大型の平城を築き、天守閣を具えたので、必然的に日本の城は巨大な面積を占めるようになった。
 出発点が西洋の概念の借り物であり、その後400年間に、日本独自の石造建築の進歩があったとは私には思えない。

 つぎに「アルカディコ橋」。これはこの「橋」のことかな?
 ギリシア、ペロポネソス半島のアルゴリス地方にあるらしい。BC 1300〜1190年頃に築かれたと説明にある。(図1)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B3%E6%A9%8B

(図1)
 これが「世界最古のアーチ橋?」。単なる石の堤に水抜きの穴を開けただけではないか。

 今のブルガリア(昔のトラキア・マケドニア地方)を旅行すると、自動車道路脇に古墳が散在している。場所はバルカン山脈の谷である。(図2)「王家の谷」と呼ばれている。
(図2)
 一見したところ「円墳」だが、ブルガリア・カザンラクの博物館展示を見て、その後、実物の内部に入ってみて驚いた。(図3)
(図3)
 この墓に出入り口はない。前室と本室に分かれている。墓室の部分を拡大したのが次の図4である。上から見ると「前方後円」形をしており、方位は正確に北向きである。
(図4)
 円形の主墓室は、縦断面を見ると円錐に近い形をしており、天井部分に平たい巨石が載っている。
 墓室内部から見上げると、これは「ドーム状天井」としか見えない。(図5)
(図5)
 ここには天蓋にシャリオット(Chariot=2人乗りの二輪戦車)が描かれている。シャリオットは遊牧騎馬民族ヒッタイトの発明で、BC1800年頃のこととされている(E.D.Bono「EUREKA!」1974)。
 同書によれば「古代オリンピック」における「シャリオット競技」の優勝者の記録は、BC 776年から残されているという。図5に描かれているシャリオットは「戦車」と思われるが、これはすでに兵器としては前6世紀のヘロドトスの頃には、時代遅れであったという。
 「アーチ模様」がブルガリアで広く受け入れられていたことは、BC5世紀末〜4世紀前半にブルガリアで製作された王の酒盃(ゴブレット)の模様を見れば明らかだろう。(図6)
 これは銀製の酒盃に金メッキをほどこした精巧なものだ。盃の握り部分に、2種のアーチ模様に加えて、うろこ型模様が採用されている。
(図6)

 カザンラクの博物館には英語の案内書がなく、フランス語版を買ったので、この「L’Or des Thraces(トラキアの黄金)」は、私には一部、難解の箇所もあるが、スキタイ人の古代「トラキア王国」がマケドニアのフィリッポス2世の支配下に入ったのが、BC.340年のこととある。
 従ってこの古墳壁画は、シャリオットがまだ有力な兵器であった前7〜6世紀頃までに描かれたものと思われる。
 「高松塚古墳」の天蓋部がどうなっているのか興味があるが、カザンラクの古墳と比較して論じた日本考古学者の本を知らない。

 同じギリシアでも旧マケドニアの一部である北ギリシアの「テサロニケ」には立派なアーチ式教会と修道院がある。(図7)
 私はこれを見た時、「カザンラクの地下墳墓を地上に移しだだけだ」と感じた。屋根だけなく、窓にもちゃんと「アーチ構造」が利用されている。
(図7)
<アーチをローマ人に伝えたのはエトルリア人と考えてよい。王政初期には既にアーチを使ってたよ。クロアカ・マキシマとかね。>
 「初期古代ローマ史」については、今でもLivy:「The Early History of Rome」(Penguin Classiics, 1961)が最良の歴史書と考えられるが、「Cloaca Maxima」(巨大排泄管)は要するに、地下に下水道の総排出管を造ったという話に過ぎない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Cloaca_Maxima

これはタルキン(タルキヌス)王(在位534-510BC.)の時代だから、少なくともギリシア、マケドニア/スキタイが並立していた時代のことである。ローマから一方的に文化が波及したということは考えにくい。
 有名なローマの水道は「アッピア水道」が最古で、BC311年に造られている。
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Roman_aqueducts_by_date
 マケドニア・ブルガリア・ギリシアをアレクサンドロス大王が統一した後、東征に出発したのがBC334年であり、アレクサンドロス急死(BC323年)後に「ディアドコイ戦争」が始まった時代のことだ。ヘレニズム世界の没落後に、ローマの優位性が高まるのである。
 とかく西洋人には各種文化の起原を「ギリシア・ローマ文明」に求めようという偏見がある。東洋の「中華思想」と同じことだ。図1を「アーチの起原」と見るか、図3〜5をアーチの起原と見るかは、観点の相違にすぎないと私は考える。
 私は中央アジア・ステップ地帯の「騎馬民族文化」が日本に波及して生まれたのが、北を正位とする「古墳時代文化」だと考える。「前方後円墳」はその一部であろう。
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3 コメント

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Unknown (Unknown)
2016-05-18 04:13:43
別にけんかを売ってるわけじゃなくて、古代ギリシアにアーチの知識がなかったと書かれていたから、アーチ構造はありましたと書いてあげただけ。アルカディコ橋は現存している中では最も有名だけど、他にも例はあるでしょう。帝政ローマ台頭後は、ギリシアの技術力は見る影もないけどね。

王政ローマの技術力はエトルリアから導入されたというのが定説。同時期にマケドニアが高い技術力を持っていたのは確かだが、ローマがマケドニアからアーチ建築を含む技術を導入したと考えられる証拠はない。エトルリアの技術だけで、ローマ地域の排水・治水を行い、クロアカ・マキシマを建築し、その後のアッピア水道やアッピア街道の建築を行えた。ところで、ナンバくんはクロアカ・マキシマの出口は見た事ないの?
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Unknown (Unknown)
2016-05-22 10:45:27
みんな若山のせい。
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Unknown (Unknown)
2016-05-22 12:51:31
石川さんって専門も違うし、横浜の人だし、如何して小保方さんの冷凍庫の中身知ってるのかしらね。
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