ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【星野木骨】難波先生より

2013-06-04 12:12:34 | 難波紘二先生
【星野木骨】三次の「稲生物怪」について、もう少し調べたく思い、進藤寿伯『近世風聞・耳の垢』(青蛙房, 1972)を入手した。この人は芸州広島藩の漢方町医師で、「御医師格」という藩医でもあった。広島に居住し、読み、聞き、目にしたもののうち珍しい話を日記形式で記録したものだ。


 で、宝暦4(1754)年の条に、「今年三次の御家中がおいおい広島へ引き移った。三次では「御歩行(おかち)衆」の屋敷に化け物が出るという噂が当地にあったが、この地の人々は信じなかった。この度(廃藩のため)御家中が引っ越しになったので、実際はどうであったのか尋ねてみる機会があったので、概略を記す」とあり、「稲生の物怪」が30日にわたり毎夜出現したことと、その内容の概略が書かれている。


 平田篤胤の本と違うのは、相撲取りの三井権八が出て来ないこと、稲生平太郎が「稲生武左右衛門」となっており、弟の勝弥とともに30日間を堪えること、最後の晩に出てくる魔王の名前が「出雲の国五郎左衛門」であり、山本(さんもと)五郎左衛門でないこと、などである。


 三次支藩は1720年に藩主に跡継ぎがいないため、廃藩になったのに、なんで1754年まで余剰藩士の立ち退きが行われなかったのか不思議である。
 話者について「右の人、三次より引っ越し後、六丁目に住居」とあるだけで、話者の名前もその正確な住所も不明だ。
 事件が本当に寛永2(1749)年に起こったのであれば、5年後の宝暦4年には平太郎は21歳、勝弥は10歳のはずである。これも腑に落ちない点が多い。しかし『耳の垢』の方は2段組で2ページあり、『耳嚢』よりも話が長くなっており、化け物の種類や行動において平田本に近くなっている。(しかし『耳の垢』は校注者・金指正三の発掘により1972年に初めて出版されたのであり、『耳嚢』の根岸鎮衛も、平田篤胤も執筆時に読むことはできなかった。)


 従って、平田篤胤はこの二人とは違うルートから話を仕入れたのであろう。あるいはかなり潤色したかも知れない。


 で「星野木骨」というのは、広島の町医者星野良悦と恵美三白の二人が、刑死した罪人の死体解剖を行い、骨を蒸して肉を除去し、骨格標本を作製した。これを差物大工に渡して、木製の骨格模型を作らせた。これが「星野木骨」だが、この話が寛政3(1791)年4月6日の条に出てくる。


 それによると、「竹ヶ鼻」という刑場で、6名の海賊が打ち首・獄門になった。良悦と三白は死体一体をもらい受け、解剖したのち、「ほうそ木」という場所で骨を蒸して、肉を除去したとある。「柞木(ほうそぎ)」は仁保町黄金山の東側にある地名だ。すでに杉田玄白らの『解体新書』(1774年刊)が出て、17年も経っていた。しかし「人体模型をつくる」という発想は平賀源内でさえも思いつかなかった。


 (この「竹ヶ鼻」という刑場がどこかわからない。他の項を読むと「樽ヶ鼻」という刑場もあり、古地図をみるとこれは広島の西端で宮島街道にそう位置にあり、獄門刑がここで執行されたようだ。斬首の場合は、その場に死体を投げ棄てたので、晒し首にはしなかった。
 広島の東部に「竹屋村」という畑地があり、端に番小屋があるので、ここかと思う。今の竹屋町以南に相当する。広島大学旧本部キャンパスは旧「竹ヶ鼻」の一部、ということになる。)


 で、良悦は自分の作った木骨が、たまたま入手した『解体新書』の骨の図譜および説明と細部まで一致していることを知り、寛政10年、木骨をもって弟子とともに江戸に上り、前野良沢、杉田玄白らに木骨を見せたところ、たいへん驚き、幕府医学館でもほしいのでもう一体作ってくれという依頼を受けた。それで広島に戻り、実物の骨からもう一体の木骨を作らせ、寛政12年に藩を通じて幕府に献上した、という。


 (木骨のアイデアはその後、大阪の整骨医・各務文献(かがみぶんけん)が文政2(1819)年に、真骨をもとに木骨2体を作らせ、一体は幕府に献上し、一体は手元において、診療や教育に使用した。これが「各務木骨」である。幕府に献上されたものは、いま東大医学博物館にある。)


 星野家に伝えられた「星野木骨」は、いま「広島大学医学部・医学資料館」にある。これが広島大医学部に寄贈された際、当時「医学資料館」館長だった解剖学の片岡勝子教授が、国立自然科学博物館の馬場悠男人類学部長などを招聘し、同窓会館で記念講演会が開かれたのを憶えている。


 「竹ヶ鼻」処刑場から京橋川を東に渡ったところに比治山があり、その東に広島大学医学部と医学資料館がある。その東南に黄金山があり、星野木骨の元になった遺体の骨を蒸した柞木(ほうそぎ)がある。おおざっぱに言うと処刑場と遺体処理場の中間点に、医学部を含む広島大「霞キャンパス」があるわけだ。もっと医学資料館を大事に扱っても罰はあたるまい。いま、館長は学部長の兼任で、専任学芸員もおらず、収蔵品の整理・陳列もちゃんとなされていないという。
 私は、「ホジキン病」を記載した(1832)トーマス・ホジキンが解剖した、ホジキン病の4症例の組織標本を所持しているが、現状では寄贈する気になれない。
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