ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【訃報:石河利隆先生】難波先生より

2013-12-18 12:37:24 | 難波紘二先生
【訃報:石河利隆先生】「日経メディカル」がこんな記事を載せている。
 https://mail.google.com/mail/?hl=ja&shva=1#inbox/142e8fff08c5c383
 この木村鉄宣氏は個人的には知らないが、北大医学部を1974年に卒業し、病理学を研鑽後、「皮膚病理」に特化した人で「(有)札幌皮膚病理研究所」を開いておられた。皮膚病理は病理診断のなかで特に難しい分野のひとつである。


 皮膚症状のひとつに「かゆみ」があるが、これが読み取れないと皮膚の生検標本を診断するのが難しい。「そんなもの顕微鏡を見てわかるか」といわれるかもしれないが、それがわかるのである。
 「かゆみ」そのものは、化学反応だから顕微鏡で見えないが、ヒトは痒ければ掻きむしるから、それに伴って皮膚(表皮と真皮)に病変が起こる。それをていねいに見落とさないように読めばよいのである。


 2008年に「病理科」が標榜科として認定されたので、木村氏のように「皮膚科と病理科」を併設して、いままでの「検査所」から「診療所」に変わることができるようになった。「年収2400万円」というのは、普通の4大卒会社員に比べると(マスコミ、銀行などをのぞいて)多いかもしれないが、医学部6年、医師国家試験、臨床研修2年、大学院4年、病理専門医の資格取得に4~6年と計16~18年もかかる修業年限を考えれば、さほどでもないだろう。もちろん開業には勤務医とちがい、リスクもある。


 アメリカの大統領の給料よりも、アメリカの民間病院の病理部長の給料が高いのは普通である。開業病理医の収入はもっと高い。
 日本は欧米よりも50年くらい遅れて、病理医が診療医の一人として認知されるようになった。そうなるまでの道のりは長かった。



 日本の「病理専門科」を保険診療制度のなかにきちんと位置づけるのに、最も功績のあった元関東逓信病院病理部長の石河利隆先生が、去る11月9日肺がんのため、東京都内の緩和ケア病院で死去された。 
 1927年5月5日生まれで、86歳だった。葬儀は11月14日、ご本人のリビングウィルに基づいて菩提寺の西大井「養玉院」で近親者のみにより行われた。


 石河先生は1952(昭和27)年、東大医学部を卒業、東大病理学教室で病理学を研鑽、1957年大学院を卒業し、関東逓信病院の病理部長として勤務する傍ら、日本病院病理医協会の役員として活躍された。
 1978年、日本病理学会が「認定病理医制度」(2003年に「病理専門医」と名称変更)を発足させるに当たっては、病院病理の実務に関する知識に乏しい大学教授からなる学会幹部を補佐し、「認定病理医制度運営委員会」の重要メンバーとして病理専門医の資格条件、教育指定病院の基準などに、絶えず向上改善の努力をされた。


 日本病理学会は明治44(1911)年、世界初の実験的皮膚がんを作成した山際勝三郎東大教授を会長として発足した、日本でもっとも古い学会の一つだが、「学問研究」が中心で、医療制度のなかにその学問を組み込むための努力は不十分であった。
 戦後、ドイツ医学からアメリカ医学への大きな転換が起こったが、プラグマティズムを基盤とするアメリカ病理学の制度的な輸入は遅れた。このため病院で臨床診療を支える病院病理医は、ともすれば大学病理学者から一段低い存在と見られがちであった。
 
 これは医師法、医療法のなかに独立した診療科として「病理科」が位置づけられておらず、「検査」の一部として「医師免許をもった検査技師」とされていたためである。ここに着目され、病理学会の委員会として「病理標榜科専門委員会」の設置に尽力され、1988年、委員会設置後は、委員長として活躍されたのが石河先生である。


 若手病院病理医を結集した「少数精鋭」のこの委員会は、初会合を関東逓信病院セミナーハウスで合宿形式で行い、たちまち肝胆相照らす仲となった。初日の宴会には病理学会総務幹事(理事長)森亘氏(後に東大総長)も出席した。
 この専門委員会は委員交代なしで活動し、日本病理学会の法人化(1999年、文部省所管の「社団法人」として実現)と「病理診断科」(2008年、医師法、医療法の改正により実現)の原動力となった。その活動は、東日本大震災のため大幅に刊行が遅れた「日本病理学会100周年記念誌」(2011)に記録されている。


 先生は病院を定年退職後は、日本病院評価機構の設立に率先して取り組んだ河北博文医師が理事長を務める河北総合病院に勤務され、
 http://ja.wikipedia.org/wiki/河北博文
 その後、臨床検査会社BML病理診断部の参与などを勤められた。


 患者としての石河利隆氏の病歴は多彩で、「多重がん」の典型例といえるだろう。
 1)前立腺がん=手術せず、ホルモン療法などで対応
 2)尿管・膀胱がん=片側の腎尿管膀胱摘出、人工膀胱で対応
 3)肝細胞がん=鶏卵大、摘出手術で対応
 4)肺がん=4期のため、生検と病理診断はできず。


 先生は若い頃は喫煙されたが、1980年代に小生が知りあった頃はタバコは口にされなかった。
 近藤誠氏のいう「がんと闘わない」のも一つの人生だが、このように多くの「がんと闘う」選択肢もある。
 
 ご夫人を10年前に病気で亡くされ、杉並区高円寺の自宅で一人暮らしをされていた。二男一女があり、それぞれ立派な社会人として活躍しておられる。
 (英語ではここは「He is survived by …」となる。この方が「いのちの流れ」を表すのに適しているが、紋切り型の表現しか日本語にはない。)
 次男の石河 晃氏は東邦大学医学部皮膚科学教授である。慎んでご冥福をお祈りしたい。


(訃報を聞いた日の新聞には、京大病理学の浜島義博名誉教授の訃報記事が載っていたが、社会に対する貢献では石河先生の方が大きいと思い、メディアの不備を補いました。執筆にあたりご遺族、岡崎悦夫氏などの協力を得ました。多謝です。)
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