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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【書評など】長谷川伸「瞼の母・沓掛時次郎」難波先生より

2014-09-15 11:23:23 | 難波紘二先生
【書評など】
 エフロブ「買いたい新書」の書評No.234に長谷川伸「瞼の母・沓掛時次郎」( ちくま文庫)を取り上げました。
 http://www.frob.co.jp/kaitaishinsho/book_review.php?id=1409900266
 長谷川伸(しん:1884~1963)は,父が事業に失敗したため小学校にもろくに行けず,横浜で土木現場の小僧や作業員をして育った。成人後,地元紙の新聞記者になり,30代で小説の執筆を初め,40代で作家専業となり,幕末を舞台とする「股旅もの」の戯曲などを書いた。独学の人で、松本清張に似たところがある。本書には戯曲の代表作,「瞼の母」,「沓掛時次郎」,「一本刀土俵入り」外3篇を収める。いずれも繰り返し映画化され,演劇として上演されている名作だ。
 彼の芝居の真骨頂は,人情を踏まえた構成と主題そのものを圧縮した大詰めでの決め台詞にある。
 「瞼の母」は江州(近江)番場宿生まれの忠太郎が,幼い時に別れた母を探して旅人となり,風の噂を頼りに江戸の水茶屋に女将おはまを尋ね当てるが,嫁入り前の娘がある母は,旅人姿の忠太郎を警戒して「私の息子は死んだ」という。
 「考えてみりゃあ俺も馬鹿よ,幼い時に別れた生みの母は,こう瞼の上下ぴったり合わせ,思い出しゃあ絵で描くように見えてたものを,わざわざ骨を折って消してしまった。」
 忠太郎が立ち去る前に口にするこの台詞は,全編のクライマックスである。

 松本清張の自伝『半生の記』(新潮文庫)を読むと、父親が島根県日野町の出身で、広島の陸軍病院の雑役夫をしていた時に、広島で紡績女工をしていた広島県賀茂郡志和村出身の岡田タニと結ばれ、九州小倉に移住した後、一人子の清張が生まれた。清張の自伝には貧乏と無教育に対する怨嗟が書き連ねられており、冥い。
 「自分の半生がいかに面白くなかったかが分かった。変化がないのである」と「あとがき」に書いている。
清張は鷗外的である。これに対して長谷川伸はどちらかというと漱石的である。
 長谷川伸の自伝『ある市井の徒』(旺文社文庫)は、同じように貧しさと無教養を描いているが、根本のところに人生に対する明るさがある。生き別れた生みの母親と47年後に再会したら、母の再婚先三谷家は、姉が女流教育家、長男が一高教授の隆正、次男は外交官の隆信、妹は三校教授夫人と内務省課長夫人というふうに、社会的に成功していた。彼の文章を読むと、母の幸せ、異父きょうだいの幸せを心から喜んでいるのがよくわかる。この隆正は『幸福論』(岩波文庫)を書いた、あの三谷隆正(1989-1944)である。
 伸の晩年の著作『相良総三とその同志』(中公文庫)、『日本仇討ち異相』(中公文庫)、『日本俘虜志』(中公文庫)を見ると、いずれも「通説」に対する異議申し立てが根底において共通している。これは「侠」の思想であって、彼の股旅ものと共通の基底重奏音を奏でている。
 これに対して社会派と呼ばれた清張の作品は、社会の根本的矛盾を暴くところに力点が置かれていたように思う。
 これら自伝2冊は、作家の個性と人生観を知るのに欠かせないだけでなく、時代を語る貴重な記録だと思う。

 余談だが、長谷川伸『生きている小説』(中公文庫, 1990/2)の「事実残存抄」に中国華南・三竈(さんそう)島で昭和13年11月、日本軍の慰安所を見学した記録が載っている。ここには20余人の慰安婦がいて、台湾の基隆や高雄で募集された日本人であること、将校用と下士官兵・徴用工の2種に分かれていること、「情意の深入りを防ぐため」に女には番号が与えられ、番号で指名すること、前借金の額とか料金まで具体的に書いてある。
 この中に、軍医が性病検査を行ったところ、業者に騙されてきた20歳処女の慰安婦を発見し、矢野主計中佐に報告。中佐が発起して将校たちに娘を解放するために寄付金を呼びかける話が出てくる。この時の中佐の対応について長谷川伸は、「慰安所関係の責任者と、女の監督や金銭収支の担当者を、司令部の主計長室に呼び、軍医の検診報告書をつきつけ、生娘をこんなところへ持ってくるからは話に聞く誘惑の嫌疑をかけると叱りつけ、娘に関する書類一切の即時提出をもとめ、その書類を検討して、前借金返済の金額をその場で決め、娘の身柄を酒保の責任者に預けた。」と記している。
 文中の「話に聞く誘惑の嫌疑をかける」とは、昭和13年3月4日、「陸支密第745号」(副官より北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案)にある「慰安所設置のため、この従業婦を募集するにあたり、ことさら軍部了解などの名義を利用して、軍の威信を傷つけ、かつ一般国民の誤解を招くおそれを生じたり、募集にあたる者の人選に適切を欠き、募集方法が誘拐に類し」(中略)「将来これらの募集等にあたりては、これに任じる人物の選定を周到適切にし、……もって軍の威信保持上、ならびに社会問題上、遺漏なきように配慮するべく、命により通牒す」を踏まえて、業者に「誘惑の嫌疑で告発するぞ」と迫ったことを指している。
 この「陸支密第745号」命令は、中央大の吉見義明教授が1991年12月に防衛庁防衛研究所文書館で発見し、翌年の92/1/11、宮澤首相の訪韓を前にして「朝日」が「慰安所に軍の関与」として大々的に報道したものである。吉見は命令書案の文章を誤読して、間違った事実を新聞に公表したのだ。
 華南・三竈島の矢野兼武陸軍主計中佐が、昭和13年の11月に、同年3月4日に発せられた軍命令にいかに忠実に従ったかを知っていたら、そういう解釈も発表もできなかっただろう。「朝日」の記者も同様だ。
『生きている小説』は光文社から1958/5に刊行されていた。長谷川伸はもっと読まれるべき作家だ。
=献本お礼=
 ☆豊田紘一先生から核兵戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会(編)『復刻増補・医師たちのヒロシマ』(つむぎ出版, 2014/8)のご恵与をいただきました。広島の原爆投下後に、京大物理班(荒勝文策教授)と京大病理班(杉山重輝教授)が陸軍、海軍の技術者と合同で10人の調査団を作り、8/10に広島入りし、直ちに放射線の調査、遺体の病理解剖による検査を始めた。この隊は宮島の対岸にあった大野陸軍病院を宿舎にしていたため、枕崎台風が直撃したために9/17夜に発生した、病院裏山に発生した土石流により海まで流されるという大惨事に巻き込まれた。
 この本は当時調査団にいて生き残った医師たちと京大卒で、当時広島で被爆者治療に当たった医師たちの証言集を復刻し、その後反核運動を行ってきた「京都医師の会」のメンバーの寄稿を増補したもので、いずれも貴重な記録である。厚くお礼申し上げます。
 これによると、京大病理の杉山教授は8/10に京大理学部の荒勝教授らと広島に入り、似島で被爆遺体3例の病理解剖を行った後、一旦8/12に広島を離れ、この時に持ち帰った臓器が与えた衝撃と8/27に中国軍管区司令部から行われた救援・調査依頼が「京大原爆災害総合研究調査」班を組織、派遣するきっかけになった。
 この調査班は9/2~9/10にかけて、約30名が広島に入った。本書中、8/17~18に牛田小学校校庭で杉山教授が被爆者の解剖をやっているのを見たという井街譲の証言(p.120)があるが、事実とすれば杉山は広島に3回来たことになる。
 調査班の宿泊所だった大野浦の「大野陸軍病院」は前の浜が「玉石浜」で90年前に山崩れがあり、大きな岩が山から転がり落ちた、その斜面に建てられた病院だったと後でわかったという(井街証言)。昭和20年の90年前というと日米和親条約(1854)に基づいて初代アメリカ総領事ハリスが下田に着任した年だ。陸軍病院を建てる時、誰もそれを知らなかったとしても無理はない。
 寺田寅彦がいうように、5年か10年の短いサイクルで天災が繰り返すなら、誰もそれを避け、あるいは備えができるが、30年の倍数になるような長いサイクルだと、切実感がないから忘れてしまう。今回の広島市安佐南区八木地区での土砂災害も同じような要素が多分にあると思う。

 考古学者・思想家の竹岡俊樹先生から『石器・天皇・サブカルチャー:考古学が解く日本人の現実』(勉誠出版)のご恵送を受けた。ありがとうございました。
 昔「日経サイエンス」で、石器の作製過程を解析すれば、石を割るという行為が脳に支配されている以上、それは脳内の言語的イメージ発言であり、左脳/右脳の優位、使われた言語の種類(ホモサピエンスか原人か)までわかる、という議論が展開されていて、古い考古学のイメージを打ち破られたことがある。その論者が竹岡先生だった。
 本書は「現在の学問は日本社会が直面している問題を具体的に分析して解決し、あるべき方向を指し示す」という役割を果たしているといえない、その理由は「人類・人間を対象とした学問が…細分化され、狭い領域が排他的に固定化している」として、先史時代の考古学(石器)から出産、婚姻、葬儀に伴う古来からの民俗、穢れ/、神/天皇などの文化的役割、そして現代日本のポップカルチャーからオウム真理教まで、さまざまな文化現象を横断的に論じたものだ。
 今月、竹岡俊樹『考古学崩壊:前期旧石器捏造事件の深層』(勉誠出版)という本も刊行されるので、これも見過ごせない。

=訂正=
 9/8付メルマガで、藤田眞幸氏の勤務先を「大阪大学医学部法医学教室」と書きましたが、「慶応大学医学部法医学教室」の間違いでした。お詫びして訂正いたします。
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