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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【侮日の起源】難波先生より

2017-09-19 12:43:07 | 難波紘二先生
【侮日の起源】やや古い話だが、去る2/21「産経」に<「韓国の侮日観の基、秀吉の侵略…」「つくられた正義が感情を増幅、日本批判」 呉善花拓殖大教授の講演要旨>という見出し記事が載っているのを、最近ネットで見つけた。
http://www.sankei.com/west/news/170221/wst1702210046-n3.html
 韓国済州島生まれで、軍の検査技師学校を出て来日した呉善花は著書で日韓の相互理解を深めるための努力をしたことが災いして、帰国禁止となり、日本に帰化した。彼女の著書はあらかた読んでいるが、「朝鮮における侮日感の起源」というテーマの話は初めてだ。

<拓殖大国際学部教授の呉善花(オ・ソンファ)氏は、韓国の「侮日観」の基になっていることとして「古代朝鮮半島が日本に高度な文化、文明を伝えたのに、日本は豊臣秀吉の侵略に加え、36年の統治で収奪した」という韓国社会一般の歴史認識を挙げた。…
 さらに「多神教の日本社会は歴史の多面性も受け入れるが、朱子学儒教を重んじる韓国では、情緒に反する事実が一切受け入れられない」などとして日韓の「和解」の困難さを分析した。>と要旨このようにある。

 秀吉の朝鮮出兵は、「文禄の役」(文禄1~2年=1592/3〜1593/1)と「慶長の役」(慶長2=1597年)とに分かれる。文禄の役では加藤清正軍と小西行長軍が北進し、平壌をふくむ北部朝鮮を占領したが、鴨緑江を渡ってきた明の援軍により脇を突かれて撤退に追いこまれた。
 明の援軍がなければ、何しろ朝鮮国王が鴨緑江左岸の義州にまで逃げていたのだから、国王の「明への亡命」になったかも知れない。
 「慶長の役」では日本出兵の動きを知ると、明軍はあらかじめ出兵し、ソウル南部の南原という要害の地に布陣していた。戦は秀吉の死により中止となったが、5年間に二度も侵略を受けた民衆の苦難は大変だったろう。だがそれが「侮日」の起源になるのだろうか?

 日本は「文永の役」(文永10=1274/10)、「弘安の役」(弘安4=1281/5~7)と高麗・元連合軍の侵攻を2回受けている。あの時の対馬、壱岐、博多、平戸あたりの被害は凄まじかった。だが日本人は「元寇の恨み」をほとんど口にしない。どうしてだろう?
 朝鮮の「高麗王国」は1245年以来「元に服属し、王妃は元の皇女をめとる」ことが国是となっていたからだろうか、それとも1392年に「高麗王朝」が滅亡し、「李氏朝鮮王国」に代わったからだろうか?
 
 朝鮮通信使関係の記録はまだ全部は読んでいないが、明らかな侮日表現があり、対馬藩儒者兼通訳の雨森芳洲を怒らせたのは、第九次通信使(1719=享保4年)の随員として来日した申維翰『海游録』(東洋文庫)だと思う。
 維翰は「日本国の書籍は朝鮮から渡ったものが百近くあり、中国から渡ったものが千以上ある。古今の異書、百家の文集にしても書肆が刊行したものは朝鮮の十倍どころではない」と日本の文化レベルの高さを正確に観察している。

 だが他方で、清維翰が侮日的表現を多用するため、通訳の芳洲と論争になっている。芳洲は朝鮮語・中国語ができ、木下順庵の門弟で兄弟子が新井白石である。
 「いつか貴方に言おうと思っていたことがある。朝鮮国と日本は互いに敬礼の書を通じている。しかるに貴国人による文集を見ると、我が国を指す言葉が、倭賊、蛮人酋長となっており、醜蔑狼藉(しゅうべつ・ろうぜき)、言うに忍びない」と芳洲。
 答えて維翰いわく、「貴君が見た文集が誰の手によるものかわからないが、おそらく壬辰の乱(文禄・慶長の秀吉の出兵)以後のものであろう。秀吉は朝鮮人にとって天にも達するほどの恨みであり、上は貴族から下はにいたるまで、日本人を奴といい、賊といって省みなくなった。しかし今日では、信使を派遣し和睦を深め、国書を交換している。これからは、どうしてあえて宿怨を再発させることがあろうか」と維翰。
 第二次朝鮮征伐(「慶長の役(1597)」)で、日本軍の捕虜となった朝鮮の儒者・姜沆(ヤン・ハン)の著書「看羊録」(1656刊、現・東洋文庫)をすでに読んでいたと思われる芳洲は、この程度では納得しない。この書には「倭、倭人、倭奴、倭将、倭卒」といった類の語が満載されているからだ。

 「それは当然のことだ。しかし現在でも通信使の従者は日本人を指して必ず倭人と呼んでいるではないか。これは遺憾である。」
 嘘がばれた申維翰は、
 「貴国には古くから倭という名があるではないか。それを君はなんでうらむのか」と逃げようとするが、芳洲はそれを許さない。
 「日本の要求に応えて唐は『唐史』で、国号を日本とした。今後はこれに習って部下たちに倭ではなく、日本人と呼ぶように指導願いたい」
 つまり宗主国である中国さえ日本と呼んでいる。属国である朝鮮もそれに習え、といいたいのである。

 劣勢の論争を立て直そうと、申維翰は論点をそらし、芳洲にこういう。
「貴国の人は我らを呼ぶのに唐人(からひと)といい、我が国人の書いたものを唐人の筆跡などというが、あれは一体どういう意図があるのか?」
 芳洲の回答は美事だ。
 「国法では信使を客人あるいは朝鮮人と称している。しかし日本の古くからの習慣で、貴国の文物を中華と同等にいう。このため朝鮮人を指すに唐人といい、これに敬意を示している。」
 内心「小中華意識」を持っていた申維翰はこう言われて喜んでいる。

 だがこの時実際には、1632年、朝鮮は北から興った清軍に降伏し、明の年号使用を停止している。1654年には清の命令により吉林省に銃兵を派遣し、ロシア兵と戦っている。申維翰が来た1719年頃、明の属国を脱した朝鮮は、今度は清の属国への道を辿りつつあった。
 この辺の事情を芳洲は承知していたと思われるが、「外交の場」だから言及を控えたのであろう。
 
 呉善花さんに反論するわけではないが、「侮日」の起源として、雨森芳洲の「いわれなき侮蔑」説の方に私は賛成する。今日でも「ウェノム(倭奴)」と日本人を呼ぶ朝鮮人は多い。韓国の新聞は平気で天皇を「日王」と書いている。

 本間九介「朝鮮雑記」(1894「二六新報」連載記事、2016、祥伝社刊)に本間が黄海道・瑞興という土地で東学党幹部2名と論争したことが書いてある。両名の曰く、
「貴国には壬辰倭乱のことで、朝鮮を敵視している人が多いのではないか?」
壬辰の倭乱とは日本でいう秀吉の二度にわたる「朝鮮出兵」(1592, 1597)のことだ。本間は、
「壬辰の役では日本は朝鮮全土をことごとく蹂躙し、全勝している。勝った側がどうして今も恨みを抱きましょう」と答えた。
 すると彼らは全羅道沿海や慶尚道東部の局地戦について、主として陳舜臣の海軍が勝ったことをあげ、「貴国ではこの歴史について事実を伝えていないだけではないか」という。
 そこで本間が「壬辰の乱」(日本では1592年第一次朝鮮出兵=「文禄の役」、1597年第二次出兵=「慶長の役」という)の概略について、
 「侵攻した16万人の日本軍は4月に釜山に上陸、加藤清正、小西行長らの軍は、またたく間に北上し、ソウル(漢城)を占領した。国王宣祖はソウルを捨て、開城—平壌へと脱出したが、両城とも6月中に日本軍に占領され、王子二人が捕虜になっている。
 国王はさらに明国との国境、鴨緑江左岸の義州に逃れ、明に救援を要請している。」と述べ、

「どうも両国の歴史に対する理解は異なっているようだ。
 貴国が勝ったとすると、どうして日本軍が無人の野を行くように釜山から漢城まで急進撃でき、二人の王子を捕虜にできたのでしょうか。またわが軍が敗北したというのであれば、貴国は何を苦しんで明に救援を求めたのでしょうか。国王はなぜ畿内(ソウル都城)から逃れたのでしょうか」
 と答えたら二人とも反論できなかったという。

「壬辰矮乱」については当時の朝鮮側記録に姜沆「看羊録」、柳成竜「懲毖録」、李舜臣「乱中日記」(共に平凡社東洋文庫)があるが、ろくに読んでいないようだ。こういう生半可な学者が愛国主義に駈られ国際情勢にうといままに興したのが「東学」で、最後は「東学党の乱(1894-95)」に発展している。幕末水戸藩では武田耕雲斉の「天狗党の乱」、大陸清末には「義和団の乱」が起きているが、いずれも無能な政府に対する庶民の悲憤慷慨が背景にある。

 この時、本間九助と激論した二名の東学指導者名は記されている。東学首領の全琫準らは1894/2の蜂起後、1895/4逮捕されてソウルで公開処刑されている。日本に亡命していた開化派指導者の金玉金が閔妃の刺客により上海におびき出され暗殺された後、遺体がソウルに送られ五体切断後に首が晒されたのと同様の目にあっている。(写真3)

(写真3.東学党員の首)
(写真4.捕らわれた東学党首領・全琫準)

 写真3はイサベラ・バード「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)にある絵で、著者序文には「挿絵は三点をのぞいて、私の写真をもとに描いてもらった」とある。しかし、今回スキャナーでこの絵を拡大してみて、右下三脚のすぐ右に見える横文字署名がロシア語らしいのに気づいた。訳者はこのことに触れていない。同じ原書は「朝鮮奥地紀行」の邦題で東洋文庫からも出ているが、挿絵・写真の質が悪くて見るにたえない。よって原画の由来は不明だ。
 上の首が首領全琫準であることは、右にある負傷して捕らえられ担架に載せられた全琫準の写真(写真4:呉知泳「東学史」、東洋文庫)から見て、たぶん間違いないだろう。同じ写真は岩波新書(山辺健太郎「日韓併合小史」)などにも見えるが、これらの写真は担架に座った全琫準を中心に周囲がトリミングされている。写真4には担架の前後にサーベルと金属ボタンを付けた制服の護送警官(兵士?)が写り、担架を運んでいるのが同じく東学党員(腹に縄が掛けられてている)であること、写真の右下に「東学◯◯・全琫(準)」という文字が焼き込まれているのがわかる。

「どうも両国の歴史に対する理解は異なっているようだ」という本間九介の観察と朝鮮の日本に対する「いわれなき侮蔑」があるとする雨森芳洲の説を組み合わせると、呉善花説とは異なり、侮日の起源は負け惜しみ、歴史の正確な認識欠除(「大韓民国」建国年が定まらない)、針小棒大(「半万年の歴史」など)、夜郎自大の心性(ウリジナル)、科学的理解(論理性と不可分)の欠除などの国民性に起因していると思う。換言すれば、国が小さく度量も小さいということだ。
 放置すれば自縄自縛のトラップにはまるだろう。だがこれも静観するほかないだろう。

 1936年のベルリン・オリンピックではマラソンで孫基禎(1912-2002)が朝鮮系日本人として初めて金メダルを獲得した。「大韓帝国」はすでに1910年に消滅しており、彼は「日本代表」として出場した。むろんゼッケンには日の丸がついていた。ところが朝鮮の新聞「東亜日報」はこの日の丸を抹消した写真を掲載して、無期限発行停止の処分を受けている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%9F%BA%E7%A6%8E

 WIKIの国籍記事はこうなっている。
<孫の金メダリストとしてのIOC公式記録によると国籍は日本となっている。朝鮮南北双方が自国籍と表記するように要請をそれぞれしているが変更はない。
 1970年には当時韓国の国会議員であった朴永禄(パク・ヨンロク)が夜間にベルリン五輪記念スタジアムに不法侵入し夜間零時過ぎから約5時間かけて、記念碑に刻まれた孫の国籍「Japan」を金槌と鑿で削り、「Korea」と彫り込む公共財産破壊容疑事件を起こし、逮捕状が出るやいなや、韓国へ逃亡するという刑事事件を起こしている。事件発生後、記念碑の国籍は「Japan」に戻されている。>

 日本は1912年にIOCに加盟しているから出場権があった。韓国の加盟は1948年だ。北朝鮮は1972年に加盟している。1896年当時、IOC加盟国はギリシア、ドイツ、英国、スウェーデン、米国など少数の西欧先進国だけだった。ギリシアは発祥の地だから入れたのだ。
 李氏朝鮮や「大韓帝国」はIOCに加盟したことがない。つまり孫基禎選手は日本国籍だったからオリンピック出場権が与えられたのだ。これが史実だ。

 現在の韓国は孫基禎の国籍を「韓国」としている。生地は鴨緑江左岸の新義州で現在の北朝鮮、死没地は韓国ソウルであり、彼は北朝鮮の英雄でもある。しかし受賞時の国籍は日本である。女子500m陸上の女王ゾーラ・パッドはロサンゼルス・オリンピックに出場するため、国籍を南アから英国に移して出場したが、勝てなかった。もし勝っていたら英国の金メダルがひとつ増えていた。むろん国籍は英国として記録されただろう。

 これについてはノーベル賞受賞者とその国籍など、日本人も反省すべき点がある。受賞時の国籍が米国であるのに日本のメディアが「日本人」として報道した例がある。
 2008年度ノーベル物理学賞受賞の南部陽一郎、同年の化学賞受賞の下村脩は米国に帰化しており、日本人ではない。ある時は国籍を重視し、ある時は血筋を重視するようなダブルスタンダードこそ、歴史認識を混乱させるものだと思う。


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