ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【修善寺と韮山】難波先生より

2013-11-11 18:45:42 | 難波紘二先生
【修善寺と韮山】11/7は生憎、朝からの雨。クラス会は東京に会場を移して、東京見物の予定になっているが、私は東京には興味がない。
 前から西伊豆を見てみたいと思っていたので、フロントで「伊豆箱根鉄道」の起点、修善寺までのタクシー料金を聞くと、8~9千円という。そこで、「1泊参加」組の解散地点である熱海に戻るのはやめ、単独行動をすることにした。


 タクシーに分乗し、溶岩性の切り立った「城ヶ崎海岸」を見物。
 ここの海岸は、火山性の黒い玄武岩で、柱状に亀裂が生じていて、所々に白い長石か石英の塊が見られる。水平に走る地層が全然なく、垂直だったり斜めだったりする。それに水成岩がない。(添付A)
 溶岩の中に小石が閉じ込められた礫岩も目立つ。ここの地層は広島県のそれとは全然違う。


 昨夜、二次会で「丹沢はどこ?」と聞いたら関東に住む人たちから「あれはよっぽど北だ」と言われた。人間の感覚ならそうだろうが、地質学的スケールでは、伊豆半島と丹沢盆地は一塊であり、伊豆半島北部は、フィリピン海プレートの北端が日本列島に衝突している場所だ。その衝突部位に富士箱根山塊とその火山帯が出来たので、世界遺産になった富士山は元をたどれば、本州起源ではない。伊豆半島が衝突しなければ富士山もなかった。
 すぐ西を静岡・糸魚川を結ぶ、本州の裂け目「フォッサ・マグナ」が走っている。本を読むと、フォッサ・マグナの形成と丹沢地塊、伊豆地塊の2度にわたる衝突とは関係があるらしい。
 (Cf. 神奈川県立博物館編「南の海からきた丹沢」, 有隣新書)


 伊豆半島の付け根にある丹那トンネルの部分を南北に走る「丹那断層」は700~1000年に1回、大地震を引き起こしているという。この断層は横ずれを起こすのが特徴で、1回の大地震で約2メートル横にずれるという。前回は1930年だから、当分は大丈夫だろう。


 私は「城ヶ崎」と「城ヶ島」を混同していて、歌唱「城ヶ島の雨」の舞台かと思っていた。
あの歌の作詞・作曲は誰だろうという論議になったが、作詞に白秋説、雨情説など、作曲に山田耕作説などがあり、一致しなかった。
 後で調べると作詞が白秋で、作曲が梁田貞、大正2年の曲だった。
 http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-jogashimanoame.html


 続いて「サボテン公園」という、これもコンセプトがはっきりしない、熱帯動物園と熱帯植物園を兼ねた広い広い観光園を見る。すぐ側に「大室山」というコニーデ式の低い死火山があった。リフトが頂上まで続いている。



 特級「踊り子」号で東京に移動する人たちと伊豆高原駅で別れて、今まで乗っていたタクシーの運転手と交渉し、修善寺まで行ってもらうことにする。本当は下田街道を走って「天城越え」を逆ルートで辿りたかったのだが、あれは伊豆半島のほぼ突端まで行かないと無理なので、天城山の東山麓を走って、東から西に向け、半島を横断することにした。



 「天城越え」は川端康成の「伊豆の踊子」にも出て来る。この作品は何度も映画化されているが、野村芳太郎監督、木下忠司作曲、主役の一高生が石浜朗、芸人の娘が美空ひばりである同名の映画をよく覚えている。主題歌などもう何十年も聞いていないが、今でも歌える。


 運転手に聞くと所要時間は約40分という。夕方前に新幹線三島駅に着けばよいのだから、江川太郎左衛門が築いた韮山(にらやま)の反射炉跡が見物できるだろう。
 車は乾燥した高地の谷間の道を走る。意外に民家、それも比較的新しい団地式住宅が目立つ。しかし田圃や畑が作れそうな土地はない。水はどうしているのか運転手に訊ねたら、「ダムがあり、その水で水道が敷かれている」とのこと。


 間もなく左手に「奥野ダム」という大きなロックフィル・ダムが見え、満々と水を湛えたダム湖が見えてきた。地図を見ると、ここは古い火山の噴火口を「桧川湖」というダム湖にしたのだろうと思う。「中伊豆バイパス」に入り、「冷川トンネル」をくぐると天城山系を抜け、道はゆるやかに西伊豆の盆地に下って行く。


 冷川(ひやかわ)沿いに、団地があちこちにある。一体どういう人がここに住むのか、定年後は田畑がないから、野菜作りもできないだろうに…と思って運転手に聞くと、「伊東、沼津、三島の会社に働きに行く勤め人だ」という。2時間はかかるだろうに…と思ったが、道路がよくなっているので、車なら1時間かからないという。
 それにしても、家を建てる時に、老後はどうするか考えなかったのだろうかと思う。
 何しろ、伊豆高原から修善寺に抜ける路線バスさえないところだ。途中にコンビニさえ見かけなかった。年取って車が運転できなくなると、さぞ困るだろう。


 天城山系を抜けると道路は西向きに流れる川沿いに走り、次いで冷川は北流する「狩野川」に合流する。修善寺はその川の畔にある。かつては「修善寺町」だったが、平成の大合併で「伊豆市」の一部になった。
 「修善寺」というと、岡本綺堂の「修善寺物語」、夏目漱石のいわゆる「修善寺大患」で有名な温泉地だが、駅舎は工事中ですっぽり工事用テントに覆われていた。


 修善寺で三島までの料金を見たらたった500円だった。各期停車での所要時間を尋ねると、わず30分。修善寺で下車し、一人駅長に「韮山反射炉」までのタクシー料金を聞くと「1000円位」とのこと。ただ、本当は一つ手前の「伊豆長岡」で降りた方が近いというが、今さらしかたがない。駅前に1台だけ客待ちしているタクシーに乗り、伊豆の国代官・江川太郎左衛門が日本で最初に築いた「反射炉」を見に行く。


 反射炉は溶鉱炉の一種だが、石炭を焚いて発生した熱を天井と側壁の反射で横に逃し、そこで鉄を溶融して、鋳型に向けて流し込み、鋳鉄法により鉄製大砲を造ったようだ。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/反射炉
 現地に行くと反射炉が2基残っていて、「世界遺産登録に応募中」と看板があった。傍に資料館や博物館はない。小さな公園になっていて、入場料100円。古い青銅製大砲や小型臼砲が野外に展示してあった。(添付1)


 反射炉は耐火レンガを積み上げて作ってあり、まず耐火レンガの製造が問題だったな、とわかるが、その製造場所に関する説明資料はない。反射炉の外から見える部分は四角な煙突だけで、窯の焚き口は半地下に、鋳鉄の出口は反対側の地上部にあった。(添付2)


 江川家は代々伊豆の代官でその所領は甲斐まで含んでいたそうだが、どうして独力で反射炉の建設と大砲の鋳造が行えたのか?資金力はどこから来たのか?これも不思議だったが、運転手に聞くと伊豆には金山があったそうだ。
 今の伊豆市の「土肥港」近くの山が金山で、その産金量は一時は佐渡の金山に次いだそうだ。
 これで資金の問題は理解できたが、高野長英や渡辺崋山と交わりがありながら、よく「蛮社の獄」を免れ得たなと思う。これもWIKIを読むと天領の代官であったからだとわかる。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/江川英龍
 銅像になった江川太郎左衞門は短躯だが、なかなか意思力の強い人物のように見うけられた。
(添付3)
 
 韮山駅に戻る途中に、「蛭ヶ小島」と書かれた案内標識があり「あ、源頼朝が流された土地はここか?」と思ったが、時間がなく訪問できなかった。地図を見ると付近に北条氏ゆかりの土地が幾つかあり、このあたりは伊豆北条氏の地盤であったことは確かなようだ。だから北条政子と結婚したのだなと納得。
 (頼朝の伊豆配流の地が「蛭ヶ小島」とは、「平治物語」、「「吾妻鏡」、「源平闘諍記」にはない。頼山陽「日本外史」にはある。但しこれは資料調べがいい加減な本である。)


 秀吉の「小田原城攻め」の際の北条氏の城は、この韮山にあり、「城池」という池を挿んで西に韮山城跡があり、東に代官所跡があるのを知り、驚いた。
 韮山の西を流れる狩野川沿いには「さくら公園」があり、そこには鎌倉北条氏の屋敷跡や墓所がある。東にある北条氏の韮山城は「伊勢新九郎」こと北条長氏早雲が築いた城だった。
 早雲は土地の豪族北条氏の跡目を継いだので、北条氏を名乗ったことを知った。


 それにしても、義朝の遺児のうち、弟の希義は土佐に流され、義経は奥州に逃れたのに、義朝の長男頼朝が伊豆に流されたというのは、当時はよほどここが「異境」であったのだろうと思う。そう思って見ると、地名の発音がずいぶん変わっている。
 冷川=ひやかわ
 牧之郷=まきのこう
 大仁=おおひと
 田京=たきょう
 原木=ばらき
 大場=だいば
 土肥=とひ 
 運転手に聞くと、「伊豆弁」には語尾の「そうずら」など、「ら」音がつくことが多いそうだ。


 地名の漢字を見ると、元の音に当て字したのが、特に北海道の地名などではすぐわかるが、伊豆の地名も現地音に、後になって漢字を当てはめたものが、多いように思われる。
 旅館の建物位置を示した案内図にある説明文の最後に「オバンデス」とあり、我々が泊まった建物の温泉部屋の名前が、「サンパヤ テレカ」に「ヒュレヒュレ イセポ」。妙な言葉だ。
 松本清張「砂の器」では出雲弁と東北弁が似ているというのが、事件の謎を解く、大きな伏線になっているが、伊豆の地名はアイヌ語と関係があるような印象を持った。
 これもまた宿題だ。どうでも吉田東伍「日本地名辞典」を入手する必要があるようだ。
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