ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【対馬の姓】難波先生より

2014-02-18 12:43:05 | 難波紘二先生
【対馬の姓】雨森芳洲は近江の国雨森郷の出身で、21歳で対馬藩に仕え、88歳で没するまで対馬を離れなかった。
 白石が20歳の頃、主家の土屋家から解雇されて浪々の身となり、木下順庵の塾に学んでいた間に、対馬藩の塾生「阿比留順泰」と友人になった。対馬藩は朝鮮との外交にあたる人材を養成しようとしたらしい。
 白石は26歳の年、大老堀田正俊の堀田家十三万石に仕官したが、正俊が白昼斬殺される事件が起き、堀田家が出羽山形に移奉されている。この頃、白石は漢詩や紀行文を書いたようだ。書きためた詩約百篇を阿比留順泰の仲介で、折から来日した朝鮮通信使に見せたところ、通信使が「白石に会いたい」と言いだし、阿比留の同道で会った。すると製述官(通訳官)の成琬が詩集に序文を書いてくれた。(「折りたく柴の記」、岩波文庫、p.71-72)
 ところが阿比留(西山順泰)は元禄1(1688)年、病を得て江戸に29歳で客死した。芳洲が対馬藩のお抱えになるのは、その翌年である。
 その「阿比留」だが、「産経」に「極言御免」という、ちょうど「毎日」の「木語」に相当するコラムがあり、そこに「阿比留瑠比」という人がいつも書いている。
 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140212/plc14021212470007-n1.htm
 名が「瑠比」とあるから一見女の名前かと思うが、似顔絵をみると立派な男性だ。この阿比留と白石の友人阿比留はどういう関係にあるのだろうか?と思った。

 そこで「日本名字家系大事典」(東京堂出版)を調べてみた。阿比留は対馬の姓だが、その元は上総の国畔蒜(あびる)の庄(現千葉県袖ヶ浦市)が発祥の地で、813年、新羅国内の内乱に伴い対馬、壱岐に漂着・侵入する新羅船が増えたので、関東から対馬に武官を配置したという。1019年には対馬・壱岐へ「刀伊(とい=女真族)」の海賊船が来寇し、北九州沿岸をも略奪している。この時、阿比留氏は刀伊の将・龍羽を討ち、その功により代々対馬の代官となったとある。
 朝鮮との貿易に利があり、そこを狙われて1246年、太宰府の官人宗重尚により反乱を企てたとして征討された。以後、対馬の島主は宗氏となり阿比留氏は支配される側になったが、対馬ではいまでも最多姓という。つまり13世紀半ばまでは支配者階級であった阿比留氏は、以後、宗氏に仕える立場になったが、室町・戦国の時代から江戸時代をとおして、幕藩体制に服従しながら、たくましく生きたからいまでも最多姓なのであろう。
 「産経」の阿比留氏も本は対馬に繋がっているのであろう。

 これで対馬藩主宗氏と阿比留氏の関係、それと白石のつながりがわかった。
 では、その白石は朝鮮側からどう評価されていたのであろうか?
 白石がからんだ通信使は三度ある。
 第一は、綱吉の将軍就任の慶賀に来た、天和2(1682)年の通信使。この時は阿比留順泰の仲介で通信使たちに自作詩集を見てもらい、序を書いてもらっている。
 第二は、白石自身が接待を担当した六代将軍家宣を慶賀に来た正徳1(1711)年の使節。
 第三は八代将軍吉宗を慶賀に来た享保4(1719)年の通信使。この時、白石は吉宗から罷免され自宅で執筆に専念していた。芳洲が対馬藩を代表して表に出たのはこの時である。
 この享保4年の通信使製述官(通訳官)に選ばれた申維翰がソウルに行き、大学者崔昌大に製述官に選ばれたことの挨拶をすると、崔は書架から一冊の詩集「白石詩草」を取り出して開いて、申維翰に見せてこういった。
 「これは去る年(1711)日本に使いした使節、趙泰億が得てきた(新井)白石源與が作った詩である。君はいま、この人と相対すれば、その援助をうけるべく対等の礼をもってすべきである。
 日本の国は広く、山水は爽麗と聞く。必ず才高く、眼識の広い者がいる。(この白石の如く)我に信服しない一、二の者こそ、すなわちこれ畏るべきである。」(「海游録」p.7)
 白石の強烈な朝鮮との対等外交方針は、朝鮮の朝野に鳴り響いていたが、それでも彼の文は学者から深い畏敬の念をもって扱われていた。

 さて、通信使の一行に加わって出発した申維翰は対馬滞在中には芳洲とのみ話したが、壱岐まで来ると対馬藩の随員にいた、芳洲と同じく順庵門下の松浦沼霞と会話している。
 「白石公にはつつがありませんか」
 「どうして貴方はあの方をご存知なのですか」
 「辛卯年(1711)の使臣趙泰億が白石公の詩集を持って帰りました。彼はそれを私に示し、常にその華のような才能を讃えてやみません」(「海游録」p.63)
 これは冒頭の崔昌大の話の受け売りである。彼は崔に会うまでは新井白石を知らなかった。申維翰は前回の製述官趙泰億と自分が知りあいであると、松浦に告げ、何年も前から白石詩集とその評価を知っていたと知らせようとしている。こういうウソを平然とつくところに、この通訳官の品性が表れている。

 白石は武士の子で、学問はほとんど独学である。17歳の時に中江藤樹「翁問答」を読んで、聖賢の道というものがあることを知り、学問に志したと述べている。漢詩も漢文も漢字辞書、音引き辞書を脇において自学自習したようだ。
但し四書五経に関しては、京都出身の医師江馬益庵に素読の稽古をつけてもらっている。(「折りたく柴の記」, p.64-71)木下順庵との関係は、白石が30歳の時に阿比留が順庵に紹介して始まったもので、正式の子弟の関係というよりも、「順庵の弟分」というような関係だったらしい。「束脩(そくしゅう)の礼を執るにも及ばで、親しき師弟とはなりたる也」(「同」p.72-73)と書いている。「束脩」は婚儀における結納のようなもので、入門に際して弟子が師匠に渡す贈り物のことである。江戸期の塾は授業料を取らず、束脩が教師の重要な収入源になっていた。これをしないで、木下順庵のような大学者の弟子になった人はまれであろう。ちなみに月払いの授業料制度を始めたのは、福沢諭吉の「慶應義塾」が最初である。
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