不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【処刑場】難波先生より

2013-06-04 12:54:38 | 難波紘二先生
【処刑場】進藤寿伯『近世風聞・耳の垢』を読むと、寛政年間(1789~1800)の広島の刑場として、「竹ヶ鼻」と「樽ヶ鼻」が出てくることを述べた。昔は広島には七つの川があり、河口デルタが発達していた。東から、猿猴川、京橋川、元安川、本川、天満川、福島川、己斐川(山手川)である。
 「寛政年間広島城下図」という古地図を見ると、広島城の外堀の一部である「八丁堀」から京橋川と元安川の間を「平田屋川」という人工の川が南に流れている。これは昭和4(1929)年の「広島市地図」では八丁堀の南、新天地から海に通じる細い堀としてまだ残っている。これを埋め立てたのが「並木通り」である。


 「樽ヶ鼻」刑場は己斐川の河口右岸にあり、近くに「新宮神社」があり、街道がここで広い畑を挿んで二つに分かれ、西のものは「福蔵寺」に通じているから、今日のJR古江駅の東北200mの位置にあったことがわかる。詳しくは『藝藩通誌』を調べないといけないが、山陽道と広島市街地の西に連なる山塊を越えて河内(かわうち)方面に抜ける街道が合流したのではないか。
 「さらし首」の目的は「見せしめ」としてできるだけ多くの見物人に見せることにあったので、三叉路付近に刑場があったのは理にかなっている。


 「竹ヶ鼻」の件は、社会科のS先生から以下のご教示があった。


 <「竹ヶ鼻」ですが,これは,現在の広島市河原町にあった刑場ですね。平和公園 のすぐ近く,舟入町の隣です。地図をご覧になれば,平和公園の南西あ たりに 河原町という町名がありますよ。
河原町という町名からして,昔から「」とよばれた被差別民が住んでいた 場所だろうと思います。被差別民の生業として,処刑やがありま す。>


 確かに、万延元(1860)年「広島城下図」を見ると、いまの舟入町の「羽田別荘」の電車どおりを挿んで向かい側が、本川まで「河原町」ですね。上記「寛政広島地図」を見ると、本川の右岸に「竹ノ鼻」という場所があります。そばに「御作事所」とあり、小屋のようなものが書かれており、周囲に長方形の広い土地があります。昭和2年の地図を見ると、この位置に「西村醤油所」があり、川岸がやや凸状に東にせり出しています(「竹ヶ鼻」という由縁でしょう)。対岸に広島県庁と県立病院があります。


 この本『近世風聞・耳の垢』も東大国史卒の編者によるもので、例によって索引がなく、他に「竹ヶ鼻」が何カ所出てくるか分からない。前に「竹ヶ鼻」は「斬首刑」で「樽ヶ鼻」は晒し首の刑と使い分けられいたのでは、と書きましたが、本を調べると、使い分けられてはいない。ただ火あぶりの刑は「樽ヶ鼻」で行われている。町中では火災の危険性があると判断したようだ。
 「竹ノ鼻」は「竹ヶ鼻」の地図誤記であり、「竹ヶ鼻」が正しいこと、その現在地も判明しました。どうもありがとう。



 ついで「河原町」ですが、天保3(1832)年に「6月29日、申の時より西えた村に出火、過半焼失」という記載があり、その前にも「西小屋焼ける」とあります。
 記載から広島には東と西の「えた・村」があったと思われます。あるいは三箇所だったかもしれない。
 東は仁保町の東端にあった「柞木(ほうそぎ)」の付近がそれに該当すると思われます。
 西は、かつて屠畜場があった福島町がそれに該当すると思われます。
 真ん中の「舟入新開」にあった「竹ヶ鼻」を含む地区は、昭和4年の地図では、西新町と河原町に分かれています。ここは「西遊廓」とも呼ばれ、映画館、酒場、旅館が並ぶ盛り場でした。


 まだ「大日本地名辞典」とか「地名語源辞典」をもたないので、これ以上探究できません。「河原町」が被差別に由来するという他の証拠があったら教えて下さい。広島県の同和問題について解放同盟が出した本があったのですが、目下、行方不明です。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【書評】城山三郎『男子の本... | トップ | 【アリの行列】難波先生より »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

難波紘二先生」カテゴリの最新記事