【立花隆と塩野七生】
「文藝春秋」8月号の随筆欄にはトップに立花隆「滅びの風景」、末尾に塩野七生「EU政治指導者たちの能力を問う」が載せられている。塩野は相変わらず「マキャベルリ」から脱出できていないが、右手首骨折の方は治癒したようでよかった。
立花の一文は「新境地」を開拓しつつあるものとして注目した。
いつもの「知の見せびらかし」調ではなく、懐古調・自己の内面への沈潜を含むものになってきた。ひょっとすると膀胱がんが悪化しているのか?
面白く感じたのは、彼が卒業した上野高校は上野動物園の隣にあり、上野駅—鶯谷駅の山側は広大な墓地で、その一角に「葵」という戦災で焼け出された人たちが流れ込んだスラム街があったこと、このあたりは江戸時代後期から男娼の巣窟でもあったこと、上野高校では自宅に勉強部屋のない生徒には、放課後も教室の利用を許していたので、立花も「居残り組」として夜遅くまでそこで勉強し、帰りは葵を通って帰ったが、必ずオカマに腕を引かれたと懐古譚を記している。
寡聞にして「葵」のことは知らなかった。もちろん松原岩五郎「最暗黒の東京」(岩波文庫)のような、明治時代の東京のスラム街への潜入ルポには出て来ない。紀田順一郎「東京の下層社会」(ちくま学芸文庫、2000/3)は戦後の著作だが、例によって紀田が引用しているのは戦前の東京のもので、自分の足で取材しておらず戦後の東京についてはまったく言及がない。
東京帝大医学部を卒業し、後に同大衛生学教授となった山本俊一は学生時代に上野駅地下道に暮らす浮浪者を対象としたセツルメント活動に従事し、その記録が山本俊一「浮浪者収容所記:ある医学徒の昭和二十一年」(中公新書、1982)として残されている。当時はさかんに浮浪者の「かりこみ」が行われ強制的に浮浪者収容施設に送り込まれている。
かりこまれた女性225人のうち29人、12.9%が売春婦だったという東京都民政局の統計があるが、「葵町」も「男娼」についてもこの本には書かれていない。
上野の浮浪児、戦災孤児については写真集も出ているが、浮浪者の実態が数値的にわからない。上記山本の「浮浪者収容所記」にはGHQの命令で東京都が実施した「行政解剖の月別例数と死因別統計」(P.1459)が載っている。昭和21/4から8ヶ月間に422体の行政解剖が病理学教室と法医学教室によって行われ、餓死が92人(21/8%)、メチルアルコール中毒が56人(13.3%)、病死が124人(29.4%)、自殺・他殺が87人(20.6%)などとなっている。上野駅内外でいかにすさまじい生活が送られていたかがわかる。
工業用のメチルアルコールは、希釈して飲んだすぐ後には「酩酊効果」があるので、当時は「バクダン」と称して安価な「酒」として利用された。強い副作用は網膜視細胞を破壊することで、失明に至る。このため「眼散るアルコール」とも称された。当時の「バクダン」による被害者の実態は明らかでない。
現役病理医の時代に、他病で亡くなった患者さん中に「メチルアルコールによる失明者」がいた。遺言が「ぜひ眼を解剖して、メチルの被害を調べ、医学の進歩に役立ててほしい」というものだった。幸い病理解剖室には常に義眼が用意してあり、眼球を摘出しても、目蓋の陥没が起こらないようになっている。
眼球をとりだし、網膜の顕微鏡標本をつくり、顕微鏡を覗いて驚いた。網膜を構成する各種の細胞層のうち、視細胞(円錐細胞と桿状細胞)だけがみごとに欠落していた。色、形はもとより明暗さえもわからなかったと納得がいった。
1945年頃の「バクダン」被害者が多く生き残っていれば、iPS細胞による「再生医療」の対象としてクローズアップされただろうと思うが、もう超高齢になり、ほとんど生き残っていないのではなかろうか…
私の知る限り、戦後直後の上野駅周辺の生活実態については、まとまった記録がなく、ぜひ立花さんに葵を含めたルポルタージュを残して欲しいものだ。
「文藝春秋」8月号の随筆欄にはトップに立花隆「滅びの風景」、末尾に塩野七生「EU政治指導者たちの能力を問う」が載せられている。塩野は相変わらず「マキャベルリ」から脱出できていないが、右手首骨折の方は治癒したようでよかった。
立花の一文は「新境地」を開拓しつつあるものとして注目した。
いつもの「知の見せびらかし」調ではなく、懐古調・自己の内面への沈潜を含むものになってきた。ひょっとすると膀胱がんが悪化しているのか?
面白く感じたのは、彼が卒業した上野高校は上野動物園の隣にあり、上野駅—鶯谷駅の山側は広大な墓地で、その一角に「葵」という戦災で焼け出された人たちが流れ込んだスラム街があったこと、このあたりは江戸時代後期から男娼の巣窟でもあったこと、上野高校では自宅に勉強部屋のない生徒には、放課後も教室の利用を許していたので、立花も「居残り組」として夜遅くまでそこで勉強し、帰りは葵を通って帰ったが、必ずオカマに腕を引かれたと懐古譚を記している。
寡聞にして「葵」のことは知らなかった。もちろん松原岩五郎「最暗黒の東京」(岩波文庫)のような、明治時代の東京のスラム街への潜入ルポには出て来ない。紀田順一郎「東京の下層社会」(ちくま学芸文庫、2000/3)は戦後の著作だが、例によって紀田が引用しているのは戦前の東京のもので、自分の足で取材しておらず戦後の東京についてはまったく言及がない。
東京帝大医学部を卒業し、後に同大衛生学教授となった山本俊一は学生時代に上野駅地下道に暮らす浮浪者を対象としたセツルメント活動に従事し、その記録が山本俊一「浮浪者収容所記:ある医学徒の昭和二十一年」(中公新書、1982)として残されている。当時はさかんに浮浪者の「かりこみ」が行われ強制的に浮浪者収容施設に送り込まれている。
かりこまれた女性225人のうち29人、12.9%が売春婦だったという東京都民政局の統計があるが、「葵町」も「男娼」についてもこの本には書かれていない。
上野の浮浪児、戦災孤児については写真集も出ているが、浮浪者の実態が数値的にわからない。上記山本の「浮浪者収容所記」にはGHQの命令で東京都が実施した「行政解剖の月別例数と死因別統計」(P.1459)が載っている。昭和21/4から8ヶ月間に422体の行政解剖が病理学教室と法医学教室によって行われ、餓死が92人(21/8%)、メチルアルコール中毒が56人(13.3%)、病死が124人(29.4%)、自殺・他殺が87人(20.6%)などとなっている。上野駅内外でいかにすさまじい生活が送られていたかがわかる。
工業用のメチルアルコールは、希釈して飲んだすぐ後には「酩酊効果」があるので、当時は「バクダン」と称して安価な「酒」として利用された。強い副作用は網膜視細胞を破壊することで、失明に至る。このため「眼散るアルコール」とも称された。当時の「バクダン」による被害者の実態は明らかでない。
現役病理医の時代に、他病で亡くなった患者さん中に「メチルアルコールによる失明者」がいた。遺言が「ぜひ眼を解剖して、メチルの被害を調べ、医学の進歩に役立ててほしい」というものだった。幸い病理解剖室には常に義眼が用意してあり、眼球を摘出しても、目蓋の陥没が起こらないようになっている。
眼球をとりだし、網膜の顕微鏡標本をつくり、顕微鏡を覗いて驚いた。網膜を構成する各種の細胞層のうち、視細胞(円錐細胞と桿状細胞)だけがみごとに欠落していた。色、形はもとより明暗さえもわからなかったと納得がいった。
1945年頃の「バクダン」被害者が多く生き残っていれば、iPS細胞による「再生医療」の対象としてクローズアップされただろうと思うが、もう超高齢になり、ほとんど生き残っていないのではなかろうか…
私の知る限り、戦後直後の上野駅周辺の生活実態については、まとまった記録がなく、ぜひ立花さんに葵を含めたルポルタージュを残して欲しいものだ。