ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【相対】難波先生より

2016-02-22 14:13:52 | 難波紘二先生
【相対】
 この言葉は「そうたい」とも発音されるし、「あいたい」とも呼ばれる。
 もともと遊廓で客の相手となる女郎を「相方(あいかた)」と呼んだのが始まりである。江戸幕府は「心中」という言葉を禁止したので、庶民はこれを「相対死」(あいたいじに)と呼ぶようになった、「相対尽く」とは当事者同士が合意して行うことをいう、と「岩波・広辞苑」にある。
(近松門左衛門の代表作に「曾根崎心中」、「心中天網島」、「心中宵庚申」があるが、いずれも発禁になっていない。「広辞苑」の説明は不可解だ。
 その後「三省堂・大辞林」を見たら「元禄=1689〜1704:頃から心中が美化される風潮が起こったため、幕府が心中に代えて使わせた語」とあった。これならわかる。近松の作品はほぼ元禄時代のもので、しかも大阪で刊行されている。つまり門左衛門は流行を作り出した側なのだ。)
 ところがこの「相対」という言葉は明治22年刊の大槻文彦「言海」(ちくま学芸文庫)にはない。どうも彼は花柳界の語彙には弱かったようだ。「岩波・古語辞典」にも「相対」はない。

 「あいたい」も「そうたい」も「新潮社・新明解語源辞典」、「小学館・語源大辞典」、「東京堂・日本俗語大辞典」に載っていない。わずかに「ミネルヴァ・日本語源広辞典」が「相対」=「そうたい:相い向かう(中国語)」という語釈を載せているだけだ。
 「岩波・広辞苑」は「あいたい」に「相対」「相対死」「相対尽」などを収録しているし、「そうたい」に「相対」「相対論」「相対性理論」などを取り入れている。哲学的概念としての「相対」と「絶対」の説明も上手くなされていると思う。

 こうしてみると、日本語学者のほとんどは、ずいぶんいい加減な「辞書作り」をしているな…と思う。
 アインシュタインの1905年論文(今日では「特殊相対性理論」と呼ばれている)の原題は「動いている物体の電気力学」であった。(アインシュタイン「相対性理論」岩波文庫、前書き)。
 1905年は、日本の明治38年であって、日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」結ばれ、漱石の「吾輩は猫である」が発表された年である。
 その頃、この論文を理解できた日本の物理学者が誰で、「相対性(Relativity)」という概念が理解できたのが、誰と誰だったのかは、分からない。

 「三省堂・大辞林」には「相対」の語の初出例が載っており、北村透谷(1868-1894)「日本文学史骨」における「慰藉という事は…何物にか相対するものなり。」という文が初用例だという。
 念のために「青空文庫」の「北村透谷・日本文学史骨」をチェックしたが、「彼(福沢諭吉)は平穏なる大改革家なり、然れども彼の改革は寧ろ外部の改革にして、国民の理想を嚮導(きやうだう)したるものにあらず。此時に当つて福沢氏と相対して、一方の思想界を占領したるものを、(中村)敬宇先生とす。」という文脈での用例しか見つからなかった。この「相対」は「あいたい」と読む。
 福沢諭吉と中村正直(敬宇)を比較して、外部改革では福沢が優れていたが、国民に与えた思想的影響では中村が勝っていたという論旨である。この「相対」の用例は「ペアー」の概念に近い。

 高校時代に使っていた「英和辞書」など、別の使い方があるとは思わず、とっくに破棄してしまったが、唯一残っている「研究社・和英辞典」(昭和8年刊)には「Sotai」という項があり、「相対性原理」が「The theory of relativity」となっている。したがって1933年には「相対性」という日本語があったとわかる。彼の「一般相対性理論」発表は1916年、「光電効果」論文(1905)に対してノーベル物理学賞が授与されたのが、1922年(但し1921年分として)である。彼は同年(1922=大正11)、40日余にわたり日本を訪問している。
 滞日中にノーベル賞受賞となったので、いやでもその知名度は上がったと思われる。よって「相対性理論」という言葉もこの頃に生まれたと考えられよう。「Relativity」が「相対性」と訳語されたいきさつは知らない。

 「相対」が元は廓言葉であったことは先に述べた。これを「そうたい」と読み、性科学の研究に利用した人物がいる。福島県出身の小倉清三郎(1882-1941)である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E6%B8%85%E4%B8%89%E9%83%8E
 1913年に雑誌「相対」の刊行を始め、会員から性体験の告白を集めて、掲載した。清三郎は昭和16年に早死にしたが、愛媛県出身の妻のミチヨは夫の死後も「相対」の刊行を続け、1967年に死亡している。(下川耿史・編「小倉ミチヨ・相対会研究報告」ちくま文庫)
 小倉ミチヨの性体験を綴った上記の手記は、ローレンス「チャタレー夫人の恋人」やサド「悪徳の栄え」が原文通りに読める現代では、大した内容といえないが、大正末期から昭和の初めにかけては、性の民俗誌・科学は本格的研究対象になっておらず、それなりに貴重である。

 子供の頃、雑誌などで「相対性」という言葉を見かけると、理論物理などまったく分かっていないから、「相対・性」と字面解釈して、エッチな気分になったのを思い出す。
 そういえば「相性」と血液型に衰えない人気があるのは、血液型というものがさっぱり分かっていないからではないか、という気がする。これについては「ヘルスプレス」に続篇を書いておいたので、お読みいただければと思う。
http://healthpress.jp/2016/02/post-2239.html
 いや「相対」の話がずいぶん脇にそれた…
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1 コメント

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アインシュタイン (九天)
2016-02-24 07:13:27
 寺田寅彦は、大正10年(1921年)に『アインシュタインの教育観』、『アインシュタイン』、そして大正11年(1922年)に『相対性原理側面観』という随筆を出しています。
 『相対性原理側面観』で相対性原理について述べていますが、量子論にまで言及しています。古い論文を読むときに言い回しや記法で苦労することがありますが、当時の人はその点で、現代人よりも論文を読みやすかったのではないでしょうか。このころには日本の物理学者は論文を読み理解していたようです。
 『アインシュタインの教育観』と『アインシュタイン』は寅彦お得意の洋書翻訳紹介ですが、驚くのは現在でもよく見かけるアインシュタインの人物像がすでに世界的に流布されていたらしいことです。このプロパガンダによって、19世紀物理学を葬り去り、物理学は20世紀の産軍複合体の一環になっていったのでしょうか。
 マイケルソン・モーレーの実験を利用したアインシュタイン。アインシュタインを利用した重力波観測。CERNもそうですが、巨額予算獲得のため時々戦果発表をしなくてはいけないのでしょう。実験観測結果を発表するディスプレー上の画像はなにやら小保方を連想させます
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