【日本海・続】
この前、<こうして
1.マテオ・リッチの「坤與(こんよ)万国全図」(1602):〔中国語〕
2.ラ・ペールズの「シナ海・韃靼海域発見全図」(1797):〔フランス語〕
3.シーボルトの「日本辺界略図」(1854):〔ドイツ語〕
4.シャルル・ダレの「朝鮮事情」(1874):〔フランス語〕
5. ダデシュカリアニ公爵の「朝鮮の現況(1885年)」:〔ロシア語〕
6.イサベラ・バード:「朝鮮旅行記」(1905):〔英語〕
と、主要国の表記が「日本海」であることを確認することができる。>
と書いた。
帝政ロシアもオランダが出島で日本との交易を独占しているのを、指を咥えて見ていたわけでなく、救助した難破船の船員を日本に送還することを口実に18世紀末から、何回か日本に来ている。
1793年に「エカテリナ号」に乗って長に来たラックスマン使節がそうだし、
1803年に、2隻の船艦で長に来た使節レザーノフがそうである。
また、1809年から3回にわたり、乗艦「ディアナ号」を指揮して樺太、千島、北海道を調査してロシア海軍のゴロヴニン少佐がいる。ゴロヴニンは1811年に日本側に身柄を拘束され、函館の牢獄で2年を過ごした。
これらの記録は、
レザーノフ「日本滞在記:1804―1805」(岩波文庫)
ゴロヴニン「日本幽囚記(3冊)」(岩波文庫)、として閲覧できる。
しかし、レザーノフの航海は往路も復路も、太平洋沿岸にそって帆走しており、日本海についての言及も当時の海図も含まれていない。
ゴロヴニン「幽囚記」には巻末に、ゴロヴニンによる「日本概説」が収録されており、それを読むと、当時日本の地勢地理・人口、社会構成、対外関係などがどのように理解されていたかがわかる。
まず日本海について。「日本の領土は東大洋(太平洋)中に横たわり、広い海峡を隔てて、朝鮮、支那および韃靼の沿岸に接している。この海峡はいわゆる日本海で、狭いところは朝鮮海峡と呼ばれている。」とある。
1813年に、日本側が解放したゴロヴニン艦長を受け取ったのは、「ディアナ号」の後任艦長リコルド少佐で、彼による「手記」も上掲書に収録されている。それには、「有名な航海者ラ・ペールズが乗艦の名前をとって命名した<ブッソル海峡>(択捉水道)」(下p.260)という文章が出てくる。
これは国王ルイ16世の命により世界航海を行った、フランス海軍のラ・ペールズ大佐が1797年に刊行した世界地図に「日本海」の名称があることを知っていたためであろう。
リコルド少佐は千島列島の東方を北上し、雷公計島(ラショワ島)と松輪島(マツア島)の間にある海峡は「どの海図にも名前がなかったので、不運な艦長を記念して、ゴロヴニン海峡」と命名した(下p.260)と書いている。
これで1809年のゴロヴニン探検隊は「日本海」の記載があるラ・ペールズの世界地図を船に積んでいたことがわかる。従って19世紀の初めには「日本海」という名称は、ロシア海軍にもひろく受け入れられていた、と結論することができるだろう。
「日本海」を最初に命名したのはマテオ・リッチの地図(1602)だが、ひょっとするとこのルートでの知識は航海者の手に渡らなかったのかも知れない。これはさらに調査が必要だ。
この前、<こうして
1.マテオ・リッチの「坤與(こんよ)万国全図」(1602):〔中国語〕
2.ラ・ペールズの「シナ海・韃靼海域発見全図」(1797):〔フランス語〕
3.シーボルトの「日本辺界略図」(1854):〔ドイツ語〕
4.シャルル・ダレの「朝鮮事情」(1874):〔フランス語〕
5. ダデシュカリアニ公爵の「朝鮮の現況(1885年)」:〔ロシア語〕
6.イサベラ・バード:「朝鮮旅行記」(1905):〔英語〕
と、主要国の表記が「日本海」であることを確認することができる。>
と書いた。
帝政ロシアもオランダが出島で日本との交易を独占しているのを、指を咥えて見ていたわけでなく、救助した難破船の船員を日本に送還することを口実に18世紀末から、何回か日本に来ている。
1793年に「エカテリナ号」に乗って長に来たラックスマン使節がそうだし、
1803年に、2隻の船艦で長に来た使節レザーノフがそうである。
また、1809年から3回にわたり、乗艦「ディアナ号」を指揮して樺太、千島、北海道を調査してロシア海軍のゴロヴニン少佐がいる。ゴロヴニンは1811年に日本側に身柄を拘束され、函館の牢獄で2年を過ごした。
これらの記録は、
レザーノフ「日本滞在記:1804―1805」(岩波文庫)
ゴロヴニン「日本幽囚記(3冊)」(岩波文庫)、として閲覧できる。
しかし、レザーノフの航海は往路も復路も、太平洋沿岸にそって帆走しており、日本海についての言及も当時の海図も含まれていない。
ゴロヴニン「幽囚記」には巻末に、ゴロヴニンによる「日本概説」が収録されており、それを読むと、当時日本の地勢地理・人口、社会構成、対外関係などがどのように理解されていたかがわかる。
まず日本海について。「日本の領土は東大洋(太平洋)中に横たわり、広い海峡を隔てて、朝鮮、支那および韃靼の沿岸に接している。この海峡はいわゆる日本海で、狭いところは朝鮮海峡と呼ばれている。」とある。
1813年に、日本側が解放したゴロヴニン艦長を受け取ったのは、「ディアナ号」の後任艦長リコルド少佐で、彼による「手記」も上掲書に収録されている。それには、「有名な航海者ラ・ペールズが乗艦の名前をとって命名した<ブッソル海峡>(択捉水道)」(下p.260)という文章が出てくる。
これは国王ルイ16世の命により世界航海を行った、フランス海軍のラ・ペールズ大佐が1797年に刊行した世界地図に「日本海」の名称があることを知っていたためであろう。
リコルド少佐は千島列島の東方を北上し、雷公計島(ラショワ島)と松輪島(マツア島)の間にある海峡は「どの海図にも名前がなかったので、不運な艦長を記念して、ゴロヴニン海峡」と命名した(下p.260)と書いている。
これで1809年のゴロヴニン探検隊は「日本海」の記載があるラ・ペールズの世界地図を船に積んでいたことがわかる。従って19世紀の初めには「日本海」という名称は、ロシア海軍にもひろく受け入れられていた、と結論することができるだろう。
「日本海」を最初に命名したのはマテオ・リッチの地図(1602)だが、ひょっとするとこのルートでの知識は航海者の手に渡らなかったのかも知れない。これはさらに調査が必要だ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます