廃校を巡る

風雪に耐えた美しい木造校舎。小さな空き地にポツンと二宮尊徳。
錆びたブランコに、朽ちかけた百葉箱。廃校ノスタルジア…。

茨城県 旧里美村 上深萩小学校

2016年09月05日 17時52分33秒 | 茨城の廃校
8月も終わって9月。
やはりこの時期になるとラジオからはアースウインド&ファイヤーの「セプテンバー」が流れてきますね。
で、12月になると山下達郎ですよ。

廃校巡りのついでに今年から道の駅のスタンプラリーなんかを始めてしまいました。
人と言うものは何かしら集めたくなる習性があるもの。
流行りのポケモンGOしかり、御朱印集めの女子しかり…。
この手のルーツは空海プロデュースの四国八十八ヶ所巡りにあるとにらんでますが、
ポイント集めのTカードやマイル集めも同じと言えば同じかな。

そんなわけで茨城県道の駅巡りで見つけた廃校跡シリーズ。
旧里美村 上深萩小学校
明治25年12月創立
昭和48年4月 賀美小学校と統合のため閉校

道路脇の桜の木とフェンスで一目で学校跡と分かりました。
消防団の建物が新たに建てられていますが、
校庭はきれいに管理されゲートボール場として使われているようです。

入口の門柱横には地元の方が建てた上深萩小学校跡の説明看板が設置されています。
このような看板があるのは珍しいですね。
よほど地元に根付いた学校だったのでしょう。
説明板によれば閉校記念碑横の松の木は初代校長のお手植えとあります。

昭和48年の閉校ですので遊具や当時の建物関係はありませんでした。
ゲートボールの休憩用の机は当時のものかもしれません。

入る時は気づきませんでしたが門柱の下に小さなリスらしき卒業記念の作品を発見。
ラピュタに出てくるロボット兵のように、閉校後も学校跡を守っているようです。
閉校から43年目の夏。セミの鳴き声がうるさい廃校跡でした。

きちんとした説明板がある廃校跡はとても珍しい





真ん中に見える松の木が初代校長のお手植えの松







ゲートボール場の休憩用の机は当時のものかもしれません





門柱関係の建築年も判読可能




門柱下に佇んでいたリス? ウサギ? ずっと廃校跡を守っているようです。



夏草に飲み込まれる机

茨城県 旧岩瀬町 南飯田小学校 小塩分校 

2016年08月31日 19時08分30秒 | 茨城の廃校
現在は桜川市小塩農村公園となっています。
集会所といくつかの遊具が設置された公園となっています。
分校跡を思わせるものは門柱とわずかに残る築山の一部ぐらいでしょうか。
御影石の門柱には文字が刻されているようですが摩耗して判読できませんでした。

分校跡と刻された記念碑は昭和60年3月の建立。
閉校時期がはっきりしませんが昭和50年代後半のようです。
二宮像や当時の遊具類もなくあまり学校跡の雰囲気はありませんが、
道路から校門までの坂道のアプローチは良い雰囲気を残しています。











築山の一部は当時のものか?



校門から見下ろす風景は分校時代とあまり変わりがないように思われます。
田んぼの緑がきれい。

茨城県 旧岩瀬町 南飯田小学校 門毛分校 

2016年08月24日 16時58分05秒 | 茨城の廃校
南飯田小学校 門毛分校
学校跡に行っても廃校記念碑もないので詳しい沿革はわからずじまい。
WEBで検索してもまったく引っかかってきません。
おそらく昭和50年代後半には本校に統合されたものと思います。

集会所が新たに建てられていますが、集会所建築の寄付金の芳名碑の建立は昭和61年とあります。
立派な石の門柱は分校時代のもののようですが、
それ以外に分校時代をしのばせるものはありません。

ゲートボールにも使われているようで、
昔の少年少女の休憩用の椅子が分校時代のもののようですが、
フレーム以外はその後リペアしているようですね。

旧岩瀬町には大泉分校、下泉分校、中泉分校、富谷分校、門毛分校、小塩分校の6校の分校があったようですが
大泉分校、下泉分校、中泉分校は場所も未確認。
岩瀬町史でも見ないと場所の特定は難しそうです。


アプローチの門柱は分校らしからぬ立派なものです



もうひとつの入口も良い雰囲気



現在は門毛多目的集会施設になっています





春には良いお花見ができそう



分校時代の椅子でしょうか





茨城県 常陸大宮市(旧伊勢畑村) 上伊勢畑尋常小学校

2016年08月22日 19時05分12秒 | 茨城の廃校
戦前の古い地形図を眺めていて見つけた「文」マーク。
戦後すぐの地形図にはもう「文」マークは消えています。
分教場のような小さな学校だったのでしょうか。
学校跡の痕跡の期待は薄いですが、集会所のようなものが残っていれば見っけもの。
果たして痕跡はあるか?

伊勢畑小学校からさほど離れていない山里を目標にウロウロすること数分。
まわりは畑や田んぼが広がる田園風景。
さすがに残っていないかとあきらめて、車をUターンさせようとした狭い道の土手に何やら新しい石碑を発見。
ムムム、怪しい。

見つけましたよ「上伊勢畑尋常小学校跡」。
なかなか立派な記念碑ですが建立されたのは伊勢畑小学校が廃校になった2009年。
記念事業として上伊勢畑尋常小学校跡に建てられたもののようですが、
学校跡地はすっかり変わり果て、ここに学校があったとはまったく想像できません。
記念碑には「上伊勢畑尋常小学校跡」となっていますが、閉校時の校名は伊勢畑第二国民学校のようです。
普通は閉校時の名前で記念碑が建てられますが、
やはり戦時色の強い国民学校は避けられたのでしょうか。気になりますね。


道路から上にある土手にあるので見つけづらい場所です。
しかも跡地は畑地になっていますのでまったく学校跡の雰囲気はありません。
どちらかと言うと遺跡の雰囲気。
縄文時代の集落遺跡みたいな感じですよ。

明治43年開校
太平洋戦争が始まった昭和16年に国民学校となり、
その翌年、昭和17年にはもう閉校しています。
戦後71年 卒業した方もかなりのご高齢と思われますがお元気でしょうか。


記念碑横の小道が学校へのアプローチだったのでしょうか。



記念碑がなければ、まったく学校跡とはわかりません。





かつてはここに校舎、校庭があったものと思われます。




茨城県 常陸大宮市 伊勢畑小学校

2016年08月18日 13時38分02秒 | 茨城の廃校
廃校後、元少年少女のゲートボール場になることもなく、
校庭は雑草が生えるがままになっています。

コンクリート打ちっぱなしの校舎のせいか何となく荒れた感じが漂っています。
炭鉱の町で廃校になった学校のような寂寞感があります。

校庭や校舎、体育館も再利用はされていないようです。
沿革・校歌が刻された廃校記念碑がありますが二宮像や卒業記念碑などは確認できませんでした。
ウサギ小屋やニワトリ小屋に描かれた子供たちの絵がわずかに当時の雰囲気を伝えてます。



















茨城県 城里町 七会西小学校

2016年08月10日 15時41分33秒 | 茨城の廃校
閉校から5年、すっかり花畑となった校庭はクローバーの白い花が咲き乱れていました。

東日本大震災のあった2011年3月に閉校した城里町立七会西小学校。
ここも卒業式や閉校式も慌ただしく行われたかのかもしれませんが、
今は静かに佇むのみ…。

閉校後は使われている様子はありません。
校庭は緑に覆われ草原化しています。

昭和24年 七会小学校徳蔵分教場 大網分教場 赤沢分教場を併合し徳蔵小学校として創立
平成2年  七会西小学校と改名
平成4年  現在地に新校舎竣工
平成23年 七会東小学校と統合し七会小学校となる


旧徳蔵小学校の校舎があった場所はサブグランドとプールになっていました。
現在はゲートボール場となっていますが、
猛暑の中ゲートボールに励む老人たち…。大丈夫なのでしょうか。








徳蔵小学校時代の校歌の碑が残っていました



校庭はクローバー畑と化していました。これはこれで美しい。







新校舎の近くには七会西小学校の校歌の碑がありました。
よく見ると徳蔵小学校校歌の校名を変えただけでした。





遊具類も緑に飲み込まれてます



校舎はとても瀟酒な建物でお洒落な雰囲気ですが、あまり使われていないせいか痛みが出始めていました。


閉校記念碑は2011年だったせいか「絆」

茨城県 城里町 古内小学校

2016年07月25日 19時01分53秒 | 茨城の廃校
茨城県城里町古内小学校は2011年3月、
青山小学校、小松小学校とともに統合され常北小学校になっています。
言わずもがな2011年3月は東日本大震災発生の月、
各校の閉校式も中止されてしまったようです。

震災から5年が経ち学校も少しづつ痛み出してきています。
鉄筋作りで最近の廃校なのであまり期待もせず訪れた古内小学校でしたが、
思わぬ掘り出し物件で貴重な遺構を目にすることが出来ました。

はやりのポケモンGO的に言うなら
超激レアキャラ ゲットしたと言ったところでしょうか。







まずはそんなレアキャラをご覧ください。
二宮像と思われる石像ですが、
何となく雰囲気も立ち姿も違います。
まず目につくのはなかなか高さのある烏帽子。
コンクリートで修正されていますが、元々あったものなのでしょうか?

それと、二宮像を二宮像たらしめる手に書物、背中に薪を背負っていません。
手には大切そうにひょうたんを持っています。熱中症対策か?
腰と背中にもひょうたんらしきものがありますが、
一応背中には背負子のようなものを背負っています。

顔立ちも何となく金次郎というより中国の役人のような顔立ち。
果たしてこれは二宮像なのでしょうか?

今までかなりの数の二宮像を見てきましたが、
まったく初めて見るタイプです。

もしかすると孔子像とかなのでしょうか。
WEBで調べてますが同じタイプを見つけることが出来ません。

旧古内小学校の関係者の方
もしここを見たらぜひともご教示願います。

そんなわけで激レア二宮GETで興奮してしまい、
学校自体の印象はあまりないのですが、
鳥小屋やウサギ小屋らしき動物を飼う小屋がたくさんあったのが印象的でした。
















大志と刻された少年像。茨城にはこのような子供の像も多いですね。



なかなかの達筆で子供には読みにくいかも


茨城県 旧七会村 塩子小学校

2016年07月20日 11時59分15秒 | 茨城の廃校
ペンション ソルト&ペッパー
名物は脱サラのオーナーの作る田舎風フレンチ、
食後は奥様の得意なパッチワークで手作りコースターなどいかがでしょう。
キャンドル作りも体験できます。

じゃらんの広告にありそうなお洒落な佇まい。
赤い屋根が印象的ですね。


木造の可愛らしい建物は果たして当時のものか不明ですが、
平成になってからの閉校で、新たに集会所を造るにしても木造にするとは考えにくいので
当時の校舎を半分ほどにしたリホーム物件なのでしょうか。
1970年代の航空写真にも赤い屋根の校舎が見えますが、
今よりかなり長い建物のようです。

七会村 塩子小学校
明治6年 民家借りて創立
明治27年 校舎新設 草藁葺き 3教室 障子張り
大正13年 現在地に移転
昭和22年1月19日 火災により焼失
昭和24年 新築
平成2年3月 小勝小学校と統合 七会東小学校となる
その後町村合併を経て 七会西小学校と統合 七会小学校となる

立派な閉校記念碑と校歌を刻した記念碑が現存。
他にブランコ、鉄棒などの遊具類に風速計が残っていました。
木造の建物脇には給食センターの看板が掲げられた建物がありますが
現在は使われている様子はありません。

統合を繰り返した現在の城里町立七会小学校も
全校児童は75名ほどのようです。





















茨城県 旧美和村 氷之沢小学校

2016年07月19日 11時29分29秒 | 茨城の廃校
旧美和村にあった氷之沢小学校。
昭和54年4月に旧檜沢小学校、上桧沢小学校と共に統合され新檜沢小学校になっています。
現在も当時の木造校舎が残っていますが、
校舎は昭和13年建築との情報もあり、かなり貴重かもしれません。

しかしながら、この校舎は他の木造校舎とはちょっと雰囲気が異なります。
それは、窓という窓すべてがトタンで塞がれ、
まるで何かを封印するかのようにかたくなに閉ざされているのです。
それは、校舎だけに限らず付帯施設の小屋のような建物にまで及びます。
なぜここまでする必要があったのでしょう。
何か学校の怪談的エピソードでもあるのかな?

ここまで窓を塞いでしまうと集会所としても使えず、
風通しも悪く建物にも良くないでしょう。
あえて残すのであればなぜ建物にダメージを与える方法をとったのか不思議です。
悪ガキどもにガラスを割られたりすることを憂慮したのでしょうか。
これでは尾崎も窓ガラス割れないね。

廃校記念碑、国旗掲揚ポールの基礎部分、朝礼台が現存していました。

廃の雰囲気もまとい始め、何となく痛々しく感じられる廃校でした。





窓は完全に封印されています。
お花を植えたり地元の方は手をかけているようですが、
なぜにこうなってしまったのか。
ガラス窓があればさぞかし美しかったものを…。



ペパーミントグリーンが可愛らしい玄関。
SEXの落書きを見ると封印もヤムなしだったのか。



傾き始めている小屋も封印されています。



このトタンの塞ぎ方には強い意思を感じますね





非常に雰囲気がいい感じですが、少しずつ廃墟感もまといつつあります










朝礼台と石灰で白線を書く道具が放置されていました










封印される前は良い雰囲気の学校だったと思われます


茨城県 旧八郷町 朝日小学校

2016年06月09日 13時33分02秒 | 茨城の廃校
緑が美しい季節にもかかわらずまったく廃校巡り出来ずにいます。
梅雨にも入ってしまいしばらくは古地図を眺めて過ごすようです。

今回の蔵出し物件は、
茨城県旧八郷町(現石岡市)にある朝日小学校。
現在は取り壊しを免れ、体験型の学習施設朝日里山学校となり余生を送っています。
訪れた日も障碍者児童と父兄の石釜ピザ体験が行われていました。
一般の見学者の自分はそそくさと見学。
石釜ピザ以外にもパンや手打ち蕎麦体験などができるようです。
宿泊もできるようです。

しっかり管理された物件なので廃校の情緒感はありませんが、
昭和30年建築の木造校舎が残っているのは貴重ですね。