廃校を巡る

風雪に耐えた美しい木造校舎。小さな空き地にポツンと二宮尊徳。
錆びたブランコに、朽ちかけた百葉箱。廃校ノスタルジア…。

大田原市 佐久山小学校 藤沢分校

2014年10月22日 11時43分03秒 | 栃木の廃校
大田原市 佐久山小学校 藤沢分校。
わずかな資料によると1967年に廃校になっているらしいのですが、
詳細はまったく不明です。

かすかな情報は昭和30年代の地形図と、
1975年に撮影された航空写真。
航空写真には赤い屋根の小さな校舎らしき建物が写っています。

現在のグーグルマップには別の建物が写っているので
当時の建物は期待出来ませんがとりあえず行ってみましょう。

行きついた先には「藤沢自治公民館」。
最近建てられたようで大変きれいな建物です。
閉校から46年が過ぎていますので遺構はまったく残っていません。
ほんのわずかに学校跡らしきものはコンクリートの四角い門柱。
しかしこれも当時のモノかは判りません。
門柱の横に松の木、それに敷地を囲むように銀杏と桜の木があります。
45年以上の樹齢のはずですがさほど大きな木でないのが気になります。

校舎はおろか学校跡の遺構はまったく見つけられませんでしたが、
たまにはこんな古い地形図頼みの廃校巡りもいいもんです。














足利市 毛野小学校大久保分校 

2014年09月03日 18時54分34秒 | 栃木の廃校
2004年に廃校になった毛野小学校大久保分校。
近くには花好きおばさんの聖地とも言える「あしかがフラワーパーク」や栗田美術館もあり
10年前まで分校が有ったとは思えない場所です。
すぐ近くを両毛線が通る典型的な田園地帯。
そんな場所に木造平屋建ての小さな分校が待ち構えていました。

閉校した後も学童保育の場として使われているようで、
子供の気配が濃厚に残っています。

校舎はサッシに替えられていますが、風雪に耐えた下見張りの外壁は美しさを保っています。
入口の石の門柱には「毛野尋常高等小學校大久保分教場」と彫られています。
詳しい沿革などが判りませんが、
毛野小学校HPの沿革では、本校の毛野小学校は明治6年に「共励学校」と称して創立されていることが書かれています。
大久保分校もそれに近い明治期の創立と思われます。

学校の前を流れる尾名川に架かる橋は「分校橋」。
良いですねー。学校無き後も分校が有ったことを教えてくれる橋。
川を除くとクチボソやアブラハヤらしき魚がたくさんいました。
最近、里川や用水路で魚釣りをやる子供がめっきり減りましたが、
この川ならいくらでも釣れそうです。

まさに、小ブナ釣りしかの川の風景が広がる小さな分校跡でした。




















日光市 川治小中学校

2014年08月25日 12時16分19秒 | 栃木の廃校
狭く急な坂道をクネクネと上った先には思いがけず広々と開けた学校跡がありました。

学校のある川治温泉も鬼怒川温泉と共にかつての勢いはなく、
寂びれた雰囲気の温泉街です。
お土産屋さんはシャッターを下ろしてずいぶんと経っているようですし、
荒れた感じの廃旅館もあったりします。

細い渓流沿いの道からさらに狭い道を登った先にある
日光市 川治小中学校は閉校から4年。
まだまだきれいで、子供達の声が聞こえてきそうです。

玄関にはまだ子供が遊んでいますよ…。

誰かのいたずらでしょうか、内蔵むき出しの人体模型がお出迎え…。
そう言えば、去年の夏は尿管結石で辛かったなー。
尿管はどの辺りかなちょっと調べてみよう…。

全く霊感とか無い自分ですが、
こんないたずらはちょっとビビりますね。

コンクリート3階建ての校舎に、
一段高くなった敷地に切り妻造りの校舎が4棟と体育館。
ちょっと変わった造りですね。
切り妻の校舎は小学校でコンクリートの校舎が中学校の校舎ようです。
小中学校併設なので低学年向けの遊具から中学生向けの体育施設まで充実してます。


沿革
明治7年5月 高原、川治二村連合の高原小学校として栃久保に開校
大正10年4月 藤原尋常高等小学校高原分教場と改称
昭和16年4月 藤原町国民学校高原分教場と改称
昭和19年3月 藤原町第二国民学校として独立
昭和22年4月 藤原町立川治小学校と改称 藤原町立藤原中学校川治分校併置
昭和31年4月 藤原町立川治中学校として独立
平成18年3月 市町村合併により日光市立川治小学校 中学校に改称
平成22年3月 統合により閉校 統合先鬼怒川小学校 藤原中学校

















足利市 名草小学校 足松分校

2014年08月19日 17時55分34秒 | 栃木の廃校
名草巨石群の後に訪れた分校跡。
足利市 名草小学校 足松分校。
公民館として使われているようですが、雰囲気は当時の分校を思わせますがさすがに建て替えられたものでしょう。
大正4年11月の日付が刻された立派な門柱が現存。

ウンテイと一体化した藤棚の下には小さなシーソーが1台だけ残されていました。
沿革が刻された閉校記念碑がありました。

以下記念碑から抜粋
明治8年  大橋地内の民家清水氏宅を仮校舎として名草学校分校として発足する
明治12年 仮校舎を大橋の臥龍院に移す
明治18年 名草小学校分校となる
明治30年 北郷村立第二尋常小学校第一分校となる
明治33年 独立し北郷村立名草尋常小学校となる
明治41年 義務教育が4年から6年となるに伴い北郷第二尋常小学校文教所となる
大正11年 北郷村より分村 名草村立名草尋常高等小学校分教所になる
昭和29年 足利市に合併 足利市立名草小学校足松分校となる
昭和57年 本校に統合

本来なら戦後すぐに名草小学校になっていると思われますが記載がありませんでした。
足松分校の名前が出てくるのが足利市合併時なのがちょっと不思議です。
名草小学校のHPでも確認できませんでした。













足利市 北郷小学校 月谷分校

2014年08月18日 19時53分29秒 | 栃木の廃校
足利の名草の巨石群を見に行った帰りに二つの分校跡を見てきました。
名草の巨石群は興味は有ったものの、宇都宮からはなかなか遠く今回初めて見ました。
山の中でもあるし人もたいしていないだろうと思っていましたが、
これがなかなか観光地化しており、駐車場前の売店はヤキソバやかき氷で賑わっています。

巨石の横で濃厚にいちゃつくカップルまでいます。
うーん、幽玄な雰囲気を期待していましたが、
ちょっとイメージがちがいますねぇ。

そんな巨石巡りの後に訪れたのが、
足利市立北郷小学校 月谷分校。

分校とはいえ体育館にプールまであり、
閉校になったのは平成になってからなのでわりと新しい分校跡です。

赤い瓦のモルタル平屋建ての木造校舎も残っています。
なかなか可愛らしい学校ですが、
門は固く閉じられ、他の入口もチェーンや針金で頑に封鎖されています。
校舎に近づくことはもとより校庭や敷地にもまったく入れません。
何もここまで厳重にしなくてもいいのでは?
校庭には遊具や閉校記念碑もあるのですから地元に解放すればいいのにねぇ。
写真は全て敷地の外から撮影。

沿革 廃校記念碑より
明治7年  敬業学校より分舎 月谷分校創立
明治33年 月谷尋常小学校として独立
明治36年 北郷第一尋常小学校と改称
明治41年 北郷尋常高等小学校第二文教所となる
大正5年  児童数147名 学級数3で運営
昭和17年 北郷村立北郷国民学校 月谷分校となる
昭和22年 北郷村立北郷小学校 月谷分校となる
昭和29年 足利市に合併 足利市立北郷小学校 月谷分校となる
平成8年 本校に統合 121年の歴史に幕を下ろす

名草巨石群 弁慶が割ったらしいです。


赤い瓦にクリーム色のモルタルが可愛らしいですね。


閉校記念碑の裏の沿革。表には校章に校歌らしきものが刻されていますが立ち入り禁止で確認できず。


二宮像は足首から折れて損傷。本体も確認できず。




小さいながらも体育館(講堂)も現存。




きょうも仲よく と良いながら頑に立ち入りを阻んでいます。


生け垣にセミの抜け殻 そろそろ夏も終わります…




旧馬頭町 久那瀬小学校 

2014年07月22日 19時09分05秒 | 栃木の廃校
旧馬頭町 久那瀬小学校は1967年馬頭小へ統合されています。
同じ日に訪れた松野小学校・富山小学校も翌年の1968年に閉校になっています。
馬頭町では北向田小学校(1964年閉校)に次いで閉校になった古い学校です。

桜の木が校庭跡を囲んでいますが、どれもりっぱな巨木。
桜の季節は見事でしょうね、
遺構は久那瀬尋常小学校と彫られた門柱がありますが、
どうやら元々1柱だったモノを真ん中で叩き割って2本の門柱にしたようです。
尋常小学校となっているので門柱は明治期のものと思われます。
ずいぶんと乱暴なやり方ですが、確かにここが学校跡だった証拠でもあるので、
残っているだけでもありがたいものです。

鉄棒などの遊具もありますが、さすがにこれは後から設置したものでしょう。
老人が集る機会が多いゲートボール場としても利用されているのか、
オレオレ詐欺の注意喚起の看板があります。

以下閉校記念碑より
明治8年8月 公立長善学舎創立
明治14年3月 長善学校と改称
明治17年5月 久那瀬学校と改称
明治20年3月 久那瀬小学校と改称
明治22年4月 武茂村立久那瀬尋常小学校と改称
昭和16年4月 武茂村立久那瀬国民学校と改称
昭和17年4月 高等科併設
昭和22年4月 学制改革により武茂村立久那瀬小学校と改称
昭和29年7月 町の合併により馬頭町立久那瀬小学校に改称
昭和42年3月 馬頭小学校と統合により廃校



本来は一つのものだったと思われる門柱。
尋常小学校の旧字体が重々しいですね。




馬頭町の廃校跡にはあまり見かけない廃校記念碑が残っていました。














那須烏山市 興野小学校

2014年07月10日 11時43分45秒 | 栃木の廃校
2009年に七合小学校に統合され閉校した興野小学校。


以下はまだ残っている興野小学校のHPから沿革を抜粋したものですが、
現在地に移転新築した時期が抜け落ちており不明ですが、
旧興野小学校跡地に残る卒業記念が昭和41年なので、
それ以降に移転したしたものと思われます。

明治6.3.3 明治5年「学制」発布に基づき、第6大区4小区那須上境に成美学舎を設ける。興野分校として創立する。(石塚定一郎氏宅)
明治8 区域改正のため烏山小学校分校となる。
明治20.4 学制改革により那須郡第23番学区大桶尋常小学校興野分教室となる。
明治33.1.18 興野中央に敷地を選定し、校舎を新築して開校する。
昭和12.6.1 校歌を制定する。
昭和29.3.31 町村合併により烏山町立興野小学校となる。
昭和31.4.13 旧地に新校舎を落成する。
昭和55.3.3 校章を制定する。
昭和55.9.28 校旗を樹立する。
昭和60.3.3 校訓を制定する。
平成5.2.28 敷地内にプールを新設する。
平成17.10.1 町村合併により那須烏山市立興野小学校となる


閉校から5年、遊具をはじめプール・校舎とも残っていますが、
少しずつ錆びて朽ち始めています。
学校の規模を考えると、閉校時わずか47名の児童しかいなかったことが信じられません。

興野小学校旧校舎跡はこちら









興野小学校 校歌 
野口 青眉 作詩  石井 勝也 作曲

1. 雲にそびゆる那須の峰の
  麓につづく原の末
  うねり流るる那珂川の
  水音清く澄むところ

2. 興野の里にそびえ立つ
  さくら花咲く学びやに
  身をすこやかにきたえつつ
  わざ学びゆくうれしさよ












旧馬頭町 松野小学校 

2014年07月07日 13時53分03秒 | 栃木の廃校
旧馬頭町立富山小学校の後に訪れたのは、
富山小と統合して閉校した松野小学校。
同じく1968年の閉校ですので遺構はほとんど有りません。

わずかに大正8年4月建立の記念碑が有ります。
明治期の沿革や校長の名が読み取れますが、廃校記念碑などは見当たりません。
隣の南那須町は廃校に優しく、校舎が残っていたり、廃校記念碑が有るのですが
旧馬頭町は廃校記念碑が残っているのはまれです。

今年になっても素晴らしい木造校舎だった和見小学校が取り壊されてしまいました。
廃校を利用した「もうひとつの美術館」という素晴らしい前例があるのにバカな自治体です。
フィルムコミッションに登録すれば、CMやドラマのロケ地のなったものを
むざむざ解体し近くには産業廃棄物処理場を建築する予定のようです。

今回の松野小学校も遺構は少ないですが、
なかなかお洒落なデザインの集会所が建っていました。
明かり取りの窓や、全体にシルバーのデザインが山の中のレストランのようにも見えます。
ありきたりのデザインの集会所が多い中これは素晴らしい。











校庭のすみに小さな社が移築されていました。



旧馬頭町 富山小学校

2014年07月02日 12時10分32秒 | 栃木の廃校
料理や食をテーマにしたエッセイや随筆は数多い。
有名なところでは魯山人や吉田健一、池波正太郎などの昭和の大御所から、
玉村豊男や田崎眞也などのワイン通の方々まで数多い。

でも、実際に読んでいて「そうそう、そうなんだよねー」と思う文章に出逢うことはまれ。
そんな中で、全面的に賛同してしまう話が多いのは東海林さだお氏の「丸かじりシリーズ」。

文春文庫の丸かじりシリーズは全部持ってます。
そんな数多くのエッセイの中で、時々氏の子供時代の話が出てくる。
戦時中東京から疎開していた栃木の山奥の話がそれだ。
しかも、時々当時覚えた栃木弁が出ることもある。

今回訪れたのは、東海林さだお氏が疎開していた旧馬頭町の富山小学校。
果たして、ショージ君の子供時代の面影は見つけられるか?

富山小学校は那珂川の支流富山川沿い、国道294号から1.5kmほど入った所に有りました。
現在は富山多目的集会所が建っています。
1968年松野小と統合し武茂小となって、すでに46年が経っていますので、
当時の遺構は創立95年を記念した石碑と石の門柱が移設されてあるだけです。
廃校記念碑や二宮像は有りません。

東海林さだお氏がいた頃のものはわずかに桜の木ぐらいか。
創立記念碑には校歌が刻まれていましたが
果たして氏は覚えているでしょうか。




こんな感じで通っていたのでしょうか?


集会所にゲートボール場は廃校跡の定番






古い航空写真を見ると桜の木の後ろに校舎が建っていたようです。


那珂川町 武茂小学校

2014年07月01日 10時48分23秒 | 栃木の廃校
2008年に廃校になった那珂川町立武茂小学校ですが、
廃校後は思いがけず有名になりました。

2005年に小川町と合併し那珂川町となった馬頭町ですが、
以前は県内でも山深く、栃木のチベットとも言われていました。
現在では「那珂川町広重美術館」や「もうひとつの美術館」、「いわむらかずお絵本の丘美術館」など
美術館も充実してなかなかいい感じのエリアです。

そして馬頭町の最近のイチオシグルメは「河豚」なのです。
海無し県の栃木で河豚?

実は地下から湧き出る温泉を利用して養殖されるているのです。
町内のお寿司やさんや和食処では河豚のにぎりや、河豚鍋が食べられ、
通販でも購入できる馬頭の新たな名産品となりつつあります。

そんな温泉トラフグの養殖場所がここ旧武茂小学校なのです。

こじんまりとしたコンクリート造りの校舎はなかなか凝ったデザイン。
小さいながらも存在感のあるかわいらしい校舎です。
転用されているため警備システムが有りますのであまり近づきませんでしたが、
閉校時の姿を良くとどめています。

教室数は1学年1クラスほどでしょうか? 入口のデザインが秀逸ですね。







池の跡はカエルの天国。トノサマガエルがうじゃうじゃ。



こんな教訓は大抵大人になって気づくもんです。
学んで楽しむ いい言葉だね 気づくの遅過ぎたか。



サボテンが鮮やかな花を咲かせていました。