廃校を巡る

風雪に耐えた美しい木造校舎。小さな空き地にポツンと二宮尊徳。
錆びたブランコに、朽ちかけた百葉箱。廃校ノスタルジア…。

矢板市 泉小学校山田分校

2015年03月02日 15時58分03秒 | 栃木の廃校
矢板市泉小学校山田分校跡を訪ねましたが、
どうにも情報が少なく閉校時期も確認できません。

泉小学校のHPの沿革に、明治26年7月に山田に分校設立とありますので
明治26年が設立年と思われますが、
昭和27年に山田分校新設という記述も見られますのではっきりしません。

また、閉校時期の記述も無く、
昭和40年に学区統合により山田分校分離の記述後
一切、学校の沿革から消えてしまいます。

学校跡は公民館と消防団の倉庫が建っています。
当時の遺構は二宮像に門柱。
古タイヤを利用した花壇らしきものもありますが、
学校時代のものかは不明。

敷地の片隅にポイ捨て禁止の看板が落ちていましたが、
看板には栃の葉国体推進協議会と描かれているので
1980年以前の看板と思われます。
廃校時期もこの頃なのでしょうか?


















矢板市 矢板小学校土屋分校

2015年02月25日 14時28分39秒 | 栃木の廃校
矢板市 矢板小学校土屋分校
現在は土屋公民館となっています。

校庭には新しい遊具がならんでいますが、近所に小さな子供はいなさそうです。
ただ、敷地の片隅には延命と安産を願う子育地蔵が祀られています。
最初に学校を建てる時に子育て地蔵の近くに建てたのは、
やはり地元の方の思いがあったのでしょう。

新しい公民館の建物以外に、分校時代のものと思われる建物が残っています。
1975年の航空写真に同様の建物が写っているので、
間違いなさそうです。
小さいながらも分校時代の雰囲気を伝えるいい建物ですね。

近くを東北線の線路が通っていますが、
少し北に行った箒川を渡る橋は、
1899年(明治32年)に強風による列車転落事故が起きています。
日本の鉄道史に残る大惨事だったようです。

















那須塩原市 戸田小学校

2015年02月18日 16時45分52秒 | 栃木の廃校
那須塩原市 戸田小学校。
2014年3月に穴沢小学校と共に高林小学校に統合されました。

開校は戦後の昭和26年(1953年)ですからさほど古いわけではありません。
那須塩原市のHPにある市史には昭和26年に戸田小学校開校とありますが、
手元にある昭和30年発行の「栃木県市町村史」には戸田小学校の記載がないので、
最初は穴沢小学校の戸田分校として開校しているのかもしれません。

ここ戸田小学校の特筆すべき点は、
開校時の校舎が閉校時まで変わらず使われたことでしょう。
現役木造校舎として最後まで子供達を見送った戸田小学校。
閉校時の児童数48名。
この時代木造校舎で学べたことは、ある意味幸せな事ではないでしょうか。

現役木造校舎ときいて以前訪れた事がありましたがその時は夏。
さすがに雪の積もる校庭は寂しいものがあります。
木造の校舎のせいか外壁の板はキツツキにたくさん穴を空けられています。
また、それを防ぐためかたくさんの巣箱がつけられています。
シンボルツリーにも丸い穴がたくさん…。
校舎の窓からキツツキの姿を見られるなんて楽しそうです。










校舎はキツツキの穴と補修跡、そして巣箱まみれ。
穴を開けるな、巣箱を使って!と言いたいのでしょうが、
キツツキは木を突いてこそキツツキ。



















那須塩原市 旧穴沢小学校

2015年02月16日 18時03分05秒 | 栃木の廃校
去年の秋の群馬県中之条町の廃校ツアー以来久々。
「今年も暖冬です」とカワイイ気象予報士が言ってた気がするが、
毎日のように北海道は暴風雪とか、日本海側は大雪とかの予報です。
明日の天気もわからないのに長期予報なんて当たるわけないですよね。

と言うわけで久々の休日、まだ確認していない那須塩原地区の廃校を巡ってみました。
北に向う空は完全に雪雲、
対向車の屋根にも大量の雪が乗ってます。
まぁ、そこまで山の中でないので大丈夫でしょう。

主要な通りには積雪はありませんでしたが、
目指した旧穴沢小学校の周辺は完全に圧雪状態。
校庭も積雪で真っ白です。
天気は回復し青空で、なかなか美しいコントラストを見せています。

ここ穴沢小学校の歴史は古く、
明治6年(1873年)又新学舎として開校しています。
閉校は平成26年ですから140年の歴史を持つことになります。
訪れた校舎は旧校舎で、閉校時の校舎は少し離れた場所にコンクリート造りのものがあります。

建物は昭和30年の建築。
移転後の旧校舎は一時「穴沢へき地保育所」として利用されていたようですが、
それも2004年に廃止。
WEBで調べると現在は国際医療福祉大学が主催する、
こころとからだの成長に遅れや特長のある子ども向けの、
社会参加を促進する施設として利用されているようです。

ただし訪れたのが2月なのでまったく人の気配はありません。
静かな雪の廃校。
時折、那須の山から吹き下ろす風冷たいですが、
ずっと見ていたくなります。








那須塩原市のHPにある資料ですと明治6年の開校ですが、
門柱には明治8年5月10日創立と刻されています。
ちなみに地元紙の下野新聞の閉校式典の記事では明治6年開校となっています。
開校と創立の違いが良くわかりませんが、
新学舎として開校し、明治8年に穴沢小学校として創立したと解釈していいのでしょうか。



栃木県内に良くあるパターンの二宮像。寒そうです。





昭和37年度に作られた国旗掲揚塔。
隣人愛・郷土愛・祖国愛を培ってもらうためのシンボルとしたい願いがあるそうです。














旧黒羽町 両郷西小学校

2015年02月14日 15時52分50秒 | 栃木の廃校
まだまだ梅の花も咲かないと言うのに
アップする写真は廃校跡の真夏の滑り台…。
半ズボンで滑ったら火傷しそうな感じです。

訪れたのは昨年の夏。
記憶が薄れないうちに早めにアップしようと思っていましたが、
この両郷西小学校の情報が少なくはっきりとした閉校時期もわかりません。

今の時代NETで調べれば大抵の情報が手に入りますが、
なかなか正確な情報に行き当たりません。
合併後の大田原市の教育委員会にでも問い合わせればいいのかもしれませんが、
ずるずると今まで引きずってしまいました。
詳細は今後の課題として写真だけでもアップしておきます。










旧都賀町 富張小学校

2015年01月30日 19時37分51秒 | 栃木の廃校
こちらの物件も蔵出し。
訪れたのは2014年の8月。

富張小学校は明治8年至誠館として創立され、
昭和55年に木村小学校、大柿小学校と共に統合され、
赤津小学校になりました。

現在はセイコープレシジョン栃木事業所の工場になっています。
民間に払い下げられて敷地内に入る事はできませんでしたが、
敷地の外に閉校記念碑や創立100周年の記念碑等がまとめて建っています。

しかしこれが用水路とフェンスに挟まれた場所で、
近づく事もままならず、閉校記念碑の裏に刻まれてあるだろう沿革の確認ができませんでした。

グーグルの航空写真を見ると工場裏手にはプールが残っているのがわかるのですが、
背の高い雑草が邪魔をしてまったく確認できません。
夏空と水のないプールのコントラストが、
いい感じで撮影できと思いましたが叶いませんでした。

廃校跡の脇を流れる水路にはたくさんの魚が泳いでいます。
20センチほどのアブラハヤや雑魚がウジャウジャ…。

ちなみに、統合された赤津小学校には、
プロ野球ロッテで活躍したサブマリン投手渡辺俊介選手がいるようです。


門柱は学校時代のものか?


記念碑類は敷地外へ移設されていました。
何となくないがしろにされている感じです。




日清戦争に関する記念碑も…。



この藪のさきにプール跡があるはずなのですが…。

茂木町 山内小学校

2015年01月27日 17時06分59秒 | 栃木の廃校
2003年に閉校した茂木町山内小学校。
訪れたのは2013年の12月ですので、
現在とは多少違う可能性があります。

学校跡はほとんど栃木県と茨城県日立大宮市の県境。
現在は「グリーンハウスやまうち」という老人介護の施設になっています。
施設のHPを見ると施設は旧山内小学校となっていますので、
当時の建物をそのまま使っているようですが、
かなり改装されたのか学校の面影はありません。

1975年の航空写真を見ると3棟の校舎が見えますので、
一部が利用されているようです。

校庭の一角に山内小記念館という小さな建物が残っています。
学校時代の資料やトロフィーなどが保管されているようです。
手づくり感あふれるイラストや看板は当時の子供達の手によるものでしょう。
廃校跡にこのような記念館があるのは珍しいですね。
閉校から13年目を迎えて地元の記憶も薄れる頃でしょうが、
このような記念館があればまた違うのかもしれません。

訪れた日は冬曇りの寒い日でしたが、
上空にたくさんのトンビが飛んでいたのが印象的でした。














旧足尾町 神子内小学校

2015年01月21日 19時50分31秒 | 栃木の廃校
こちらの物件も蔵出し。
訪れたのは一昨年の夏。
日足トンネルを抜けて旧足尾町に入った国道120号沿い。
左手に神子内川を眺めながら進むこと数キロ。
国道沿いにあるので探すのは苦労しないでしょう。

1875年に足尾小学校神子内分校として開校され、1900年に神子内小学校として独立。
1902年に神子内川の大洪水で校舎が流出。
何度か移転した後1958年に現在地に校舎が建築されたようです。

最盛期には児童数76名を数えたようですが、
1984年に児童数4名で休校となったようです。

地元の人達が設立に大きく関与したせいもあってか
しばらくは休校扱いだったようです。
行政的には今は廃校になっていますが、
地元に愛されているのか訪れた日にも下草がきれいに刈られていました。

学校近くのバス停の名前も「小学校前」。
子供達がいなくなって31年、
今だに小学校と呼ばれているのは、長く地元に愛されてきた証でしょう。

校門の音符は校歌をなのでしょうか?
閉校時の子供達は覚えているでしょうか、
ちょっとセンチな気持ちになってしまいますね。










旧足尾町 原小学校

2014年12月03日 14時30分45秒 | 栃木の廃校
訪れたのは11月最後の日曜日。
日光の市外はまだわずかに紅葉が残っていましたが、
日足トンネルを抜けると足尾は冬景色。

山の木々もすっかり葉を落とし何とも寂しい風景。
今回訪れたのは、わたらせ渓谷鉄道の原向駅近くにある原小学校。

明治6年に足尾小学校の原分校として創立。
明治33年に原小学校として独立。
昭和10年に210名の在校生を有するも、
6学年6学級だったのは昭和34年から5年間ほどだったようです。
平成7年に在校生が10名になり、翌平成8年3月に足尾小学校へ統合され閉校しています。

正面から見ると一見コンクリート造りに見えますが、木造モルタルです。
校舎は昭和31年建造。
体育館は新しくかなり最近になってからのもののようです。
市の体育館としてまだ使われている様子です。

ブロンズ製の二宮君が一人静かに読書中。
















那珂川町 谷川小学校

2014年10月29日 17時44分39秒 | 栃木の廃校
旧馬頭町から茨城県大子町に向う国道461号線沿いにある谷川小学校。
平成22年3月、大山田小学校、大内小学校と共に三校の統合により閉校しています。

訪れると校舎の前には洗濯物が並び人の気配があります。
新しい看板があり「グループホームえにし」と書かれています。
どうやら民間に払い下げられ、老人向けの施設として使われているようです。
入所者の中にはここの小学校の卒業生もいるかもしれません。

コンクリート2階建ての校舎は「く」の字型になった、なかなか凝ったデザインです。
入口の上のガラス張りは天気の良い日は青空を映して美しそうです。

校庭に残された卒業記念のモニュメントに刻された名前はどれも少なく、
統合による閉校も致し方なかったのでしょう。
閉校記念碑は確認できませんでしたが、
もしかすると校舎の近くにあったのかもしれません。



谷川小学校 沿革
明治8年    谷川村、盛泉村を学区とし松慶寺を仮校舎として盛川館開校
明治25年   那須郡大内村立谷川尋常小学校と改称
昭和16年   国民学校令により大内村立谷川国民学校と改称
昭和22年   学制改革により大内村立谷川小学校と改称
昭和2年    町村合併により馬頭町立谷川小学校と改称
平成17年10月 町村合併により那珂川町立谷川小学校と改称
平成22年3月  大山田小学校、大内小学校と共に三校の統合により閉校 

いまだ、谷川小学校のHPが残っていますが、
小学校のホームページの中では飛び抜けて良くできています。
沿革や歴史、小学校にゆかりのある人物まで非常に詳しく書かれていますし、
学校の活動や様子なども判りやすく好感が持てます。
調べるにもかなり時間と手間がかかっているようですし、
若い先生の片手間ではなさそうです。
木造校舎時代の写真も見ることができるので、
しばらくはこのまま残って欲しいですね。