経営コンサルタント日野眞明のmoreな「ひとりごと」

「商売繁盛」「ビジネス(創業、起業、経営革新)」など更新中!(2022年5月引越)

恩義は忘れない。<3,722本目>

2011-09-26 06:24:00 | ひとりごと
築地(東京)の街をちょっとだけ歩きました。

思い出されるのは1980年代、イトーヨーカ堂を退職して、
いよいよ地元豊橋(愛知県)へ帰って事業を起こそうという時期でした。

大学を経て、サラリーマンになったものの
どこか心の片隅で「いつかは商売を始めよう」と漠然と持っていたのです。

サラリーマンを辞めて自分一人で立ち上がることは大変なことですが、
当時は”なーんも知らない若者”だったので、そんなに深くは考えていませんでした。

それでも、「そんな甘いもんじゃない」とは気づいていたので、
父がお米関連の事業をしていたので頼み込んで、

「東京で一番でっかくて、一番売っているお米屋さんを紹介してくれ。」と依頼し、
”修業”を始めたのが築地でした。

サラリーマン時代は、
木造2階建てのアパートながらお風呂はついて、
南向きの日当たりが良い1Kの間取り。

オンボロながら中古車も持っている生活。

そこから築地への”住み込み生活”は、寮という名の元荷物置き場でした。
6畳一間で住宅密集地なため日が当たらず、もちろん車も手放しました。
お風呂も銭湯通いです。

ただ、決して辛い気持ちはありませんでした。

80年代と言えば、バブル景気へちょうど向かっている時期で華やかな話題が多かったのです。

そんな中、それとはまったく「逆」の生活スタイル。
自転車の運搬車に、
お米を120キロぐらい積んで銀座4丁目の三越前をよく通って配達していました。

浮「お寿司屋さんの板前さんに凄まれながら、可愛がっていただきました。

もともと体育会系で育っているので、

きちんと挨拶をするとそれだけで、
「オウ、若いの。しっかししとるじゃないか、
まぁ、コーヒーでも飲んで行けや!」
って、缶コーヒーをご馳走にもなったりしてました。

その修行を受け入れてくれたお米屋さんが、今でも築地にあるのですが、
そこで暮らした時間や、そこで経験した様々な出会いは貴重な時間として明確に心に残っています。

周りに育てられたのですね。
ありがたいことです。

短い期間ではあったのですが、とても大切にしている日野の歴史でもあります。

当時と築地の様子もすっかりと変わってしまっていましたが、
ビルの谷間に当時の面影がある古いお店もいくつかあり

ちょっとばかり感傷に浸ります。

当時を懐かしむだけではなく、
その時の気持ちを大事に心に秘め、

恩になった築地のお米屋さんに感謝の気持ちを忘れないようにしています。

建物や道路は変わっても、人の気持ちは変わらない部分があります。
変えない大切な心を持ち合わせています。











晴@東京都内。
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