gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

「世界遺産」の持続と新しい創造

2007-01-30 08:42:39 | 日記・エッセイ・コラム

Img_0541_edited  「持続可能な美しい地域づくり」をテーマに第1回世界遺産フォーラムが、1月26日和歌山県高野山で開催された。会場となった高野山大学には全国から450人が参加。基調講演は『美しき日本の残像』『犬と鬼』の著書で有名なアレックス・カー氏。公共事業による日本の景観破壊の映像を示し、日本人の町に対するプライドの低さ、京都の町家再生『庵』の経験を語った。

Img_0556_edited_1  パネルデイスカッションでは、広島・原爆ドーム、鎌倉、長崎教会群、鞆の浦など世界遺産化された地域、申請をめざす地域、障害をかかえる地域の経験をふまえ、五十嵐敬喜法政大学教授をコーディネーターに討論。高野山町長の後藤太栄氏は、゛宗教環境都市゛高野山のめざすものと世界遺産条約の理念は一致していること、゛遺産゛と訳されている「Heritage」の本来の意義は「選民」「至宝」という普遍的価値のことだと、明快なコメントをした。世界遺産は、まさに世界の人々との共有物、世界と共存する日本人の知恵が問われている。行政だけでは守れないこと、世界遺産を過大評価しないことなどが各パネラーから強調された。

Img_0565_edited  もう一人の基調講演は、西村幸夫東京大学教授。世界遺産の平和的意味や゛危機゛があるから世界の力で守るというユネスコの精神とともに、文化遺産・文化財の新しいカテゴリーを創ることが必要とした。「四国遍路道」もまた、点としての88ヶ所でなく「へんろ道・お接待文化」の仕組みとしての文化遺産へと、これまでの文化財保護の考え方に変更を迫っている。あわせて「世界遺産から地域遺産へ」と目をむけ持続可能なまちづくりにつなげることを提案した。「『価値の享受者』である国民全体が『価値の持続』に自発的に関わることによってのみ保障される」。世界遺産を創り持続させるための「高野山宣言」も採択された。

Img_0589_edited  今回の「世界遺産フォーラム」の会場で久しぶりに高橋寛治氏にお会いした。かつての長野・飯田のまちづくりキーパーソン。3年前から高野山町の副町長として、2004年『紀伊山地の霊場と参詣道』世界遺産化後のまちづくりを手伝っている。高橋さんのガイドで聖地・高野山を案内いただいた。「観光という薄っぺらいものでなく、50年、100年前の宗教の地に戻すべきなんです」。人口4200人、減少率ワースト20の高野山町の将来を見通す。3月には内子町の岡田文淑氏を訪ねて、愛媛に来られる。


 「過去最低の投票率」の意味

2007-01-24 08:40:44 | 社会・経済

 15日付けの日経新聞に心温まる記事があった。「合併しない宣言」で有名な福島県矢祭町に『矢祭もったいない図書館』がオープンしたという。「もったいない」は、2004年ノーベル平和賞受賞者のケニア環境副大臣ワンガリ・マータイさんが゛日本人が忘れていた精神゛として見つけ、゛逆輸入゛されたキーワード。「眠っている本」の寄贈を求めた町の呼びかけに集まった本は約30万冊。ボランティアが整理・分類し約3万6千冊が並んだ。図書館も柔剣道場を改築転用。「20億円近くかかるが、閉架式書庫を含めて約3億円で済んだ」。「元気な子供たちに」ときれいな本ばかり、金額にすると7億円相当の贈り物。「図書館を作りたいけどお金がない」という人口7000人の町に無償の善意が届けられた。「もったいない」を全国に発信し、善意と励ましで図書館を開設した゛合併しない゛町の「自治・自律精神」の高さに感心させられる。

 さて話は変わるが、愛媛県知事選挙も終わった。選挙結果・投票率とも大方の予想通りだったが、やはり気にかかるのは「過去最低の投票率43.12%」の数字。選挙棄権者が゛多数派゛ということか。選挙前・後に「政策争点」「政治力学」による関心低下などのマスコミの解説も紹介されていたが、私流に各市町のデーターを解釈してみた。投票率のトップは、人口約5千人の松野町(70.06%)、最低は51万人の県都・松山市(35.32%)。いみじくも県下で人口が一番少ない町が民主主義の゛優等生゛という結果。同じ「松」がつくのも面白いが、「山」よりも「野」の方が住みやすいのか。「山」が動かなかったということか。もう一つの数字は前回からの「下落率」。砥部町(-24.54%)、伊予市(-19.14%)、内子町(-19.14%)、西条市(-7.67%)。前回市長選や議員選挙との同日選挙だった町で、当たり前といえばそれまでだが、「身近なことなら関心が高い」という証明でもある。

 今回の知事選挙は,゛平成の大合併゛後はじめての選挙であった。愛媛県は70市町村が20市町に再編された。首長や議員も減り、財政縮減には効果があったが、行政規模の拡大は「身近かな」政治参加もまた゛縮減゛したのではないかと危惧する。いま゛合併していない゛松野町は、町の行方をめぐり議会の解散が取りざたされている。「民主主義の学校」の葛藤が、投票率県下一位にも反映しているのかもしれない。また一方では、県内経済の「東高南低」の゛格差゛が投票率では「南高東低」に反映し、南予地域の切実さもにじみ出ている。地域の活性化は、住民自治という「民主主義の学校」の活性化ぬきに実現できない。「過去最低の投票率」を横目で見ながら、小さな町・矢祭町の「自治・自律精神」に学びたいと思った。


 ゛足元゛の「国の光」資源調査

2007-01-21 21:45:37 | 日記・エッセイ・コラム

Img_0110_edited  昨年から、新伊予市の地域資源調査のために伊予・中山・双海を歩きまわっている。調査メンバーは、文化財保護など歴史・文化関係者や市の観光担当者。゛足元゛を調査し、「誇り」となる観光・文化資源の再発見と活用方法を考えようと、市民と行政との協働の作業である。それぞれの地域には、固有の自然的条件や景観、歴史的建造物などの歴史・文化資源、産業や生活文化などが多様に組み合わされた独自の「らしさ」がある。これまで観光というと、集客のためのイベントやポスター・パンフをつくることと勘違いしている向きもある。「国の光」、地域で形づくられた文物・風光や暮らしよさを゛観る゛ことが本来の「観光」。「国の光」である地域資源の現状を調査し、維持・活用をどうするか、ここが問われている。

Img_0068_edited  新年早々から、450をこえる地域資源カードを整理し、「いーよ88」のエリア・ポイントにまとめる編集にとりかかっている。風景・景観価値、歴史・文化価値、地域共感度、公開度、保存活用などのものさしで、地域の「誇り」と「宝」に新しい光を当てたいと思う。これはまた、過疎化によって地域の「国の光」が急速に摩滅・損失することへの警鐘、対策づくりへの第一歩でもある。写真は、中山町永木地区の茅葺お堂、泉地区の脇本陣・旧玉井家の御成門。いずれも地域固有の歴史を語りかける。


ロシア兵捕虜との゛交流遺産゛

2007-01-14 19:23:04 | 日記・エッセイ・コラム

Img_0518_edited   明治37(1904)年3月、松山に開設された日露戦争の捕虜収容所には、最大で4000名をこえるロシア兵捕虜が収容されていた。当時約3万人だった松山市民と捕虜との様々な交流の記録が残されている。松山収容所として21の寺院や建物が施設としてあてがわれたが、その跡地をめぐるツアーが日露戦争史料調査会松山部会(代表・宮脇昇立命館大学助教授)の主催で行われた。大手前駅に近い「妙圓寺収容所」には、道後温泉の湯番女・井上幾代に恋焦がれたレインガルト少佐が収容されていた。ラブレターが発覚、大阪へと転送された少佐を追って大阪に向う幾代。講和後レインガルトは来日、求婚したが願いはかなわず恋は結ばなかった。

Img_0536_edited_1  日露戦争下の国際交流の記録をまとめた宮脇昇著『ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマ』(愛媛新聞社)には、捕虜と人々との当時の様子が記されている。この本の表紙写真は、五色浜神社前のロシア兵捕虜たち。明治38(1905)年2月22日、郡中へ遠足に出かけた時のもので、海岸・石灯台前の写真も残されている。前年の9月25日には当時の伊予鉄道社長・井上要や郡中町長・豊川渉が捕虜たちを招待し、彩濱館で接待をする貴嬢たちの記録もある。

Img_0529_edited  4月にオープンする「坂の上の雲ミュージアム」。外装はほぼ出来上がり、展示内容にこれからの関心が向けられる。昨年、毎日新聞社創立135年記念「ヘリテージング100選」の1つに松山のロシア人墓地が選ばれた。『坂の上の雲』に描かれた明治の松山。戦前・戦後と長らくロシア人墓地の保存に関わってきた方々も多い。100年前のロシア兵捕虜との「草の根交流」の記録遺産が、後世へ世界へと伝えられるミュージアムであってほしい。収容所跡を訪ねながらの思いであった。


 無名の民による゛世間遺産゛

2007-01-11 20:15:48 | 日記・エッセイ・コラム

61_11  風のようにやってきて、風のように帰っていく。

 ウォッチャーの岡崎直司氏から先日電話がかかってきた。大分の写真家・藤田洋三さんが伊予市・鵜崎の和田家に゛タイル゛を見に来るという。タイルって?と思ったが、「藤田洋三」と聞いて即座に翌日同行。藤田さんに初めてお会いしたのは、6年前の安心院町のグリーンツーリズム研修の折。鏝絵の案内の後、会長・宮田静一さんのブドウ園で農家民泊。地ワインをいただきながら、夜遅くまで「石灰・漆喰で世界の歴史がわかる」藤田流゛お石灰(せっかい)史観゛のご高説を賜った。とにかく博識なのには驚く。その後「全国藁こずみ大会」や別府でもご一緒した。久しぶりなのに、いつも近くにいるような不思議な方だ。無名の民の「世界遺産」ならぬ「世間遺産」を記録してきた藤田さんは、『鏝絵放浪記』(石風社)『藁塚放浪記』(同)に続いて、タイトルもずばり『世間遺産放浪記』(同)を2月に出版するという。分厚いゲラを見せていただいた。西日本新聞新年号にも紹介記事があった。

Img_0424_edited_1  和田家は、砥部との境界・鵜崎峠にある庄屋であった。「タイルが珍しい」と今回発見・紹介したのは岡崎直司氏。お世話をされているご親戚の好意で見学させていただいたが、私の関心はもっぱら入母屋造りの庄屋屋敷。旧伊予市に遺されている庄屋の建物は、「上野・玉井家」「下三谷・宮内家」、そしてこの「鵜崎・和田家」と数少ない貴重なものだ。現在住まわれてはいないが、眼下に両沢・唐川の棚田風景を望む和田家をこのまま廃屋にするには惜しい。

Img_0486_edited_2  藤田さんの語る「人の営みがつくりあげた風土・景観」という意味では、地域の歴史的建築物もまた無名の民がつくった「世間遺産」といえるかも知れない。「『世間遺産』の定義って? 『世間遺産フォーラム』を全国各地でやれば面白いねえ」などと話しているうちに、藤田洋三さんは、また風のように九州へと帰っていった。