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「希望の島」フォーラム-逆転の使命を求めて

2008-02-22 15:42:09 | 日記・エッセイ・コラム

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 「希望の島フォーラム」-ボクらの地域の未来はボクらが創る-。魅力的なテーマのフォーラムが2月16日、愛媛県上島町でもたれた。4月からこの上島町に家族3人で移住し地域づくりに取り組む37歳の兼頭一司さんが企画したものだ。西条市丹原町出身、松下政経塾26期生という「志」をもつ地域づくりの仲間である。彼の友人たちも全国から集まった。基調講演は、神野直彦・東京大学大学院教授。昨年5月にも日本地方財政学会「道州制シンポジウム」で松山大学に来られていた。『地域と人間の回復』と題した講演の冒頭に、ある一文を紹介した。Img_0018_edited_2

 「第二次大戦後、スウェーデンは豊かな国となり、人々が『繁栄』と呼ぶ状況を生み出した。私たちは、あまりにも簡単に幸福になりすぎた。人々は、それは公正であるか否かを議論した。私たちは戦争を回避し、工場を建設し、そこへ農民の子どもが働きに行った。農業社会は解体され、私たちの国は新しい国になったが、人々が本当にわが家にいるといった感覚をもてたかどうかは確かではない。1950年から60年に至る10年間に、毎日300戸の小農家が閉業するというスピードで農業国スウェーデンが終焉した。人々は大きな単位、大きなコミューン(市町村)を信じ、都市には遠い将来にわたって労働が存在すると信じた。私たちは当然のことながら物質的に豊かになったが、簡単な言葉で言えば、平安というべきものを使い果たした。私たちは新しい国で、お互い他人同士となった。小農民が消滅するとともに、小職人や小商店が、そして病気のおばあさんが横になっていたあの小さな部屋、あの小さな学校、あの子豚たち、あの小さなダンスホールなども姿を消した。そういう小さな世界はもう残っていない。小さなものは何であれ、儲けが少ないというのが理由だった。なぜなら、幸福への呪文は<儲かる社会>だったからだ。」Img_0021_edited

 スウェーデンの環境教育学者スティーグ・クレッソンによるものだが、これは現在につながる日本の地域社会そのものを語っているのでないかと感じた。神野教授は、スウェーデンの教科書では、人間には所有欲求と存在欲求があると教えているという。所有欲求とは、人間の外側に存在する物質を所有したいという欲求。存在欲求とは人間同士が調和し、人間が自然と調和したいという欲求である。人間は所有欲求で「豊か」さを実感するとすれば、存在欲求・人間同士のふれあいで「幸福」を実感する。工業社会の大量生産・大量消費の経済は、存在欲求を犠牲にして、物質の所有という所有欲求を充足してきた。<儲かる社会>の現実は、「豊か」であっても「幸福」でなかった。そして今、工業社会から知識社会への転換が始まっている先進諸国で、依然として所有欲求を求めるアングロ・サクソン型の地域再生のシナリオを描くのか、市場主義にもとづかない存在欲求を求めるヨーロッパ型の地域再生なのかが問われているのだと語る。

  「サスティナブル・シティ」を合言葉にするヨーロッパの地域再生には、新しい時代に対応した人間の生活の「場」の再生という含意があるとされる。持続可能な発展とは、「将来世代が自らの必要性を満たす能力を損なうことなく、現代世代の必要性を満たすような発展を意味する」(ブルントラント委員会)。それぞれの地域が、人間としての生命・生活を世代内・世代間で維持・継承できる「場」でなければならない。Img_0036_edited

 弓削の小中高校生が、「地元学」ネットワーク主宰・吉本哲郎さんと一緒に取り組んだお年寄りへの聞き取り調査や食べ物など島の「宝物」さがしの発表を聞きながら、「関係性の修復」の取り組みこそが、「幸福」を実感できる「希望の島」への道なのだろうと考えていた。いたわり合い、信頼し合える関係づくり。存在欲求が地域社会で充足できれば、慎ましく豊かに生活することができる。故郷は近くにありて愛するもの、そして守るもの。弓削3610人、生名1933人、岩城2179人、魚島259人、瀬戸内の豊かな自然に恵まれた4つの島からなる上島町には、その条件が整っているのではないかと予感した。Img_0008_edited

   「ヨーロッパでは『ゆっくり進もう、おちついて(slow up and calm down)』をスローガンに人間生活の持続可能性がめざされる。そうした地域社会再生戦略では、自然環境の再生と地域文化の再生が、地域社会再生の車の両輪となる。地域再生とは『公』を再生し、大地の上に人間の生活を築く戦略である」(神野直彦『地域再生の経済学』)。新しい社会・『公』を創る「逆転の使命」を、この「希望の島」は持っているのかもしれない。


タイ近代法整備の功労者・政尾藤吉と郡中

2008-02-10 22:27:14 | 日記・エッセイ・コラム

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 2007年は「日タイ修好120周年」であった。これを記念した愛媛人物博物館の「タイ近代法整備の功労者・政尾藤吉」企画展が開催されており、出かけてきた。明治20(1887)年、西欧列強の植民地主義政策によってアジア各国が植民地化されるなかで、日本とタイ(当時のシャム)は自国の主権を守って独立を維持し続け、両国の修好通商宣言が交わされた。明治30年、外務省事務次官・小村寿太郎の委嘱をうけ、タイの近代法整備に貢献したのが愛媛県大洲出身の政尾藤吉。政尾藤吉は、苦学の末、アメリカ・エール大学で民事博士号を取得。タイに渡り、タイ政府の法律顧問として刑法などの起草に携わり、国王から法律の最高位「ピアー・マヒダラ」を与えられ皇族待遇として数々の勲章を授与された。帰国後、愛媛県選出の衆議院議員となりアメリカなどを歴訪。米騒動や大正デモクラシー、原敬政友会内閣の頃である。大正9(1920)年に、再びタイの特命全権公使に任命されたが、翌年、赴任地のバンコクで亡くなった。享年52歳、国王も参列した盛大な葬儀が執り行われたという。Img_0012_edited

 『政尾藤吉伝』(信山社)を著した香川孝三・大阪女学院大学教授の記念講演では、アジアにおける法整備支援国際協力の先駆者としての政尾藤吉の業績と人物像を紹介。同時に「これまで政尾藤吉があまり知られていないのは何故か」という疑問に、活躍した場がアメリカで6年タイで13年と海外であったこと、アジアの法律や法制史を研究する専門家が極めて少なかったことによるのではないかとした。Img_0017_edited

 この政尾藤吉は、これまた知られていないが、郡中ゆかりの人物である。藤吉は明治3年、喜多郡大洲町に御用商人「政屋」を営む父・勝太郎の長男として生まれるが、廃藩置県の後、家業が傾き、8歳の頃、父とともに親戚であった郡中町の呉服商・吾川屋岡井常吉の家に寄宿することになった。勝太郎は山嵜小学校の教員となり、藤吉も編入をした。のちに大正4(1915)年1月12日、タイから帰国した藤吉は郡中尋常高等小学校で講演をし「私は一生の最も面白い、なつかしい、腕白時代を郡中で過ごした」(海南新聞)と話している。14歳の時に両親が離婚、父は教員をやめ郵便局に勤務したが、月給が4円と低く生活が苦しかったので、藤吉も郵便配達の仕事を手伝ったと伝えられている。Img_0019_edited_2 政尾父子が寄宿していた吾川屋・岡井家は湊町の梶野家の隣にあったが、現在は空地になっている。また、明治5年にできた伊予郡初の小学校・山嵜小学校は大洲藩上屋敷跡にあった。少年時代を郡中で過ごした藤吉は、明治20年、17歳のときに大洲教会二代目牧師・青山彦太郎と出会い英語を学ぶ。父の死後、大阪に出たあと、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学、英語普通科を卒業。明治22年に念願のアメリカ留学に挑戦した。この留学を支えたのが「大洲の女傑」・中野ミツだった(澄田恭一『大洲・内子を掘る』(アトラス出版))。 タイの近代化に生涯をかけた愛媛人・政尾藤吉が、゛腕白゛として父や岡井家とともに暮らした明治10年代の郡中のまち。この足跡も、記録に残しておきたい。


瀬戸内海-世界遺産「海の路」の普遍的価値

2008-02-05 22:58:31 | 日記・エッセイ・コラム

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 2月1日、第2回世界遺産フォーラム・瀬戸内in福山に「四国へんろ道文化世界遺産化の会」のメンバーとともに参加した。今回のフォーラムは、高度成長時代の産業都市・福山において、鞆の浦「埋め立て架橋計画」に揺れる緊迫した現実におかれながらも、「海の路」瀬戸内海の普遍的価値を世界へと、その可能性を探る多面的な議論が行われた。Img_0013_edited 昨年世界遺産に登録された石見銀山について、西村幸夫・東京大学教授と中村俊郎・石見銀山資料館長との対談では、「過疎化の中で残るのは文化しかない」という強い思いで50年にわたり続けてきた文化財保存活動が土台にあったこと、「世界遺産というキャンパス」で石見の土地に人を育てることの重要性が語られた。Img_0032_edited

 瀬戸内海には、港町ネットワークがある。世界遺産にむけた「それぞれの挑戦」として福山・鞆の浦・尾道・室津の活動が紹介された。いにしえから中国・朝鮮など大陸との交易の要路として、北前船や朝鮮通信使の寄港地として栄えた歴史・文化遺産が港町には残されている。Img_0090_edited 大波止・雁木・常夜燈・船番所・焚場という近世の港湾遺構をほぼ完璧に残す日本では数少ない港、ICCOMOS(国際記念物遺跡会議)からも世界遺産に匹敵すると高く評価された鞆の浦が、行政の「埋立て架橋計画」によって、世界遺産への可能性を完全に失わせられようとしている。昨年5月には「公有水面埋立免許」の出願がされ、認可が間近だと報告された。現在163名による免許差し止めの裁判も起こされているが情勢は厳しいという。Img_0040_edited NPO鞆まちづくり工房代表・松居秀子さんは、埋立架橋後のイメージを示し、その愚かさを訴えていた。「開発か保全か」という二者択一ではなく、山側トンネル案によって鞆の浦の景観と歴史遺産の価値を継承する道こそが、次世代へのわれわれの責任と訴える。フォーラムを受けて、瀬戸内海の歴史的・文化的資源と「海の路」の普遍的な価値を世界に発信するために挑戦する瀬戸内海宣言とともに、鞆の浦「埋立て架橋計画」中止を求める緊急アピールが採択された。Img_0125_edited

 鞆の浦と郡中は坂本竜馬の「いろは丸」でつながっている。幕末の慶応3(1867)年におきた「いろは丸」事件。大洲藩が土佐藩・亀山社中に「いろは丸」を貸し出し、鞆の浦沖で紀州藩の明光船と衝突し沈没した。賠償をめぐって万国航法にもとづき談判をしたのが坂本竜馬である。長崎で「いろは丸」を購入した郡中奉行所・国島六佐衛門。同行した豊川渉は『いろは丸終始顛末』を残し、「いろは丸」事件を世に伝えた。豊川渉は明治維新のあと郡中町5代目町長となった。Img_0080_edited この談判の舞台となった「町役人・魚屋満蔵宅」をNPO鞆まちつ゛くり工房が全国からの支援やWMF(世界文化遺産財団)設立スポンサーの助成を得て購入。2007年11月に修復・再現した。真新しい町家再生事業「御船宿いろは」を見学させてもらったが、6組が宿泊できる竜馬ゆかりの宿である。松居さんにも、いつか鞆の浦と郡中・長浜の「いろは丸」ネットワークをと伝えておいた。余談ではあるが、最近出版された澄田恭一『大洲・内子を掘る』(アトラス出版)では、謎とされた「いろは丸」の賠償金は土佐藩から大洲藩に支払われたという史料が紹介されていて興味深い。Img_0096_edited

 後藤太栄・高野町長が来賓挨拶でのべた言葉。「500年後に何が残せるか。気がつかないうちに変わってきた自然や文化と人間の関係が問われている」。鞆の浦の町並みを歩きながら、かけがえのない瀬戸内海の「海の路」世界遺産化の行方と懲りない日本の「官」害を思い浮かべていた。