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ロシア兵捕虜との゛交流遺産゛

2007-01-14 19:23:04 | 日記・エッセイ・コラム

Img_0518_edited   明治37(1904)年3月、松山に開設された日露戦争の捕虜収容所には、最大で4000名をこえるロシア兵捕虜が収容されていた。当時約3万人だった松山市民と捕虜との様々な交流の記録が残されている。松山収容所として21の寺院や建物が施設としてあてがわれたが、その跡地をめぐるツアーが日露戦争史料調査会松山部会(代表・宮脇昇立命館大学助教授)の主催で行われた。大手前駅に近い「妙圓寺収容所」には、道後温泉の湯番女・井上幾代に恋焦がれたレインガルト少佐が収容されていた。ラブレターが発覚、大阪へと転送された少佐を追って大阪に向う幾代。講和後レインガルトは来日、求婚したが願いはかなわず恋は結ばなかった。

Img_0536_edited_1  日露戦争下の国際交流の記録をまとめた宮脇昇著『ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマ』(愛媛新聞社)には、捕虜と人々との当時の様子が記されている。この本の表紙写真は、五色浜神社前のロシア兵捕虜たち。明治38(1905)年2月22日、郡中へ遠足に出かけた時のもので、海岸・石灯台前の写真も残されている。前年の9月25日には当時の伊予鉄道社長・井上要や郡中町長・豊川渉が捕虜たちを招待し、彩濱館で接待をする貴嬢たちの記録もある。

Img_0529_edited  4月にオープンする「坂の上の雲ミュージアム」。外装はほぼ出来上がり、展示内容にこれからの関心が向けられる。昨年、毎日新聞社創立135年記念「ヘリテージング100選」の1つに松山のロシア人墓地が選ばれた。『坂の上の雲』に描かれた明治の松山。戦前・戦後と長らくロシア人墓地の保存に関わってきた方々も多い。100年前のロシア兵捕虜との「草の根交流」の記録遺産が、後世へ世界へと伝えられるミュージアムであってほしい。収容所跡を訪ねながらの思いであった。