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『主体としての都市』 - 関一のこと

2007-03-27 00:00:10 | 日記・エッセイ・コラム

Img_0014_edited_1   卒業・入学の季節になると、何故か大学時代がなつかしくなるものである。今年の2月中旬、宮本憲一ゼミ卒業生で組織されている「背広ゼミ」主催の出版記念パーティが大阪で開催された。あいにく所用で出席できなかったが、一冊の本が送られてきた。オレゴン大学アジア太平洋研究センター長・ジェフリー・E・へインズ著『主体としての都市-関一と近代大阪の再構築』(勁草書房)である。この翻訳を彼の友人や卒業生である「背広ゼミ」が取り組んだ。

  関一(せきはじめ)といっても、一般に知らない人も多い。大正末期、日本最大の都市は東京市ではなく大阪市であった。東京高商(現・一橋大学)の社会政策論を代表する教授であった関一が大阪市に乞われたのは大正3年(1914)。現在の大阪市長・関淳一博士の祖父である。パリのシャンゼリゼに匹敵する美しい銀杏並木の街並み、市電・バス・地下鉄・上下水道など大阪市の骨格はすべて「学者市長」関一によるものである。「日本都市史上、理論と実践を兼ね備えた最高の市長であった」。同時に社会改良の先駆者として「吾々は上を向いて煙突の数を数へると同時に下を見て、下層労働者の生活状態を観察せねばならない」と、大原社会問題研究所の高野岩三郎の助力をえて、日本で最初の家計調査や住宅調査をおこなった。

   またドイツ留学中のケルン商科大学に学んで、昭和3年(1928)、大阪にはじめて自治体の手になる大阪商科大学(現・大阪市立大学)をつくった。「国立大学の『コッピィ-』であってはならない。大阪市を背景とした学問の創造が無ければならない」と創立の精神を謳った。そして日本最初の都市学科である市政科をつくり、主任教授に日本の都市計画法を作成した神奈川県知事・池田宏を採用している。「一本の街路にも、一つの小公園にも、一つの理想、一つの指導原理によって貫かれた方針がなければならない。明日の都市、将来の都市、50年後、100年後いかなるものを頭の内に描いて、初めて計画を決定し得る。都市計画はいわゆる技術家のみの手に一任すべきでない」。高い理念を持ち、徹底した分権論者だった。ひまがあると若手の職員を集めて、原書の輪読会をひらいていた。「関さん」と慕われた関の葬儀には8万人という市民が参列し、当時のNHK大阪放送局は1時間にわたる実況放送をした。空前絶後のことである(宮本憲一先生著『思い出の人々と』・藤原書店)。2003年4月、新たに大阪市立大学大学院に創造都市研究科が開設されたのも、その伝統かもしれない。

 1980年、カリフォルニア大学からやってきた若いへインズ氏が「関一研究会」を促し、近代大阪における関一の調査・研究を大きく前進させた。来日して20年余、彼の大著が出版され、同じゼミ仲間の手で翻訳されたのである。「欧米の近代思想を日本の近代化に資するように変容していった」関一の進歩主義の軌跡が丁寧にたどられている。『主体としての都市』という魅力的な題名の日本都市史研究。大学時代を思い出して、じっくり読ませていただこうと思う。


市場競争の「常識」に危惧

2007-03-20 16:48:08 | 日記・エッセイ・コラム

Img_0017_edited  「まちづくり3法」が改正された。これまでの中心市街地活性化対策は効をなさなかったとして、都市計画を180度改正し1万㎡を超える大規模集客施設の立地規制とともに、国の認定による「選択と集中」で支援を拡充する基本法ができた。めざす方向は「コンパクトで賑わいあふれるまちづくり」。19日、四国経産省主催の「みんなで考えよう街なかづくり-中心市街地活性化シンポジウム」にでかけた。会場は銀天街のなかにある「ホットステーションおいでんか」。

Img_0014_edited  「㈱まちづくり松山」が、昨年12月に拠点施設「おいでんか」をオープンしたとは聞いていたが、場所がわからず銀天街から大街道までウロウロ。「ああ伊予銀行の店があったとこか」。どこでも街なかの銀行は閉店していく。伊予市でも広島銀行、香川銀行、朝日生命の支店がここ2、3年で毎年次々と撤退した。それは別として、この銀行跡がホットステーションとして、無料休憩所やイベントホール、趣味の教室、県下の特産品の情報センターに生まれ変わっていた。「㈱まちづくり松山」もここに事務所を構えている。地下の小さなホールは参加者で満席。ぎゅっと゛集積゛するのが、いかにもまちの拠点らしくていい。

Img_0006_edited_1  講演は、全国すみずみ゛知らない町はない゛日本政策投資銀行の藻谷浩介氏。商業統計にもとづき、巷間の「常識」がいかに間違っているかを解説した。「地方の商業はだめだが東京・名古屋は景気がいい」「大型店を増やせば地域の売り上げは伸びる」「市場の競争なくして経済の発展はない」。これらの「常識」はどれも×。90-91年比で首都圏では売場面積が3割増えたが、個人所得は1兆3500億円マイナス、従業員数は3万7千人減った。松山都市圏(松山・伊予・東温・松前・砥部)の小売商業の動向データが興味深い。98-99年から売場面積が急増し4割増、とたんに個人消費・従業員数がマイナス。この理由について、96年をピークに定年退職者が新卒就職者を上回り所得が落ちたこと、地域の所得が増えないもとでの過当競争による値崩れ、中心市街地の解体による逆スパイラルをあげる。なるほど。今の時代、「店が増えるほど下がる売り上げ」が正しい知識なのだ。 

Img_0011_edited_2  松山・宇和島・今治・大洲・新居浜・四国中央なども同じ傾向、売場面積が増えるほど地盤が沈下している。「大型店はもういらない」という今治の世論も当然。しかし伊予市に隣接する松前町では、3法改正の前に市街化調整区域が用途変更され、12haというとてつもない敷地に複合商業施設が来年誘致される。ここでも町関係者は固定資産税の2億円増収、地元雇用などの効果を「常識」としてあげているが、果たしてどうか? 松山方面からの導入高架道路は、大型店が負担することになったが、開発関連のインフラや上下水道の維持管理費、交通・教育環境対策などに町に新たな負担が発生する。藻谷氏も「本当の自由競争なら郊外開発は儲からないので止めている」とズバリ。゛購買の町外流出を食い止める゛というのも所詮、大型店誘致の口実。都市間競争論者は、「わが町」さえよければいいという勝手な理屈の持ち主に思える。果たして「わが町」だけが生き残れるか。シンポの話を聞きながら、「人口減少、少子・高齢化」の変化を気にもとめない隣町の「常識」に危惧をした。


9つの島を結んだ「しまサミット」 

2007-03-18 22:54:06 | 日記・エッセイ・コラム

Img_0018_edited   松山市は旧中島町との合併によって、9つの有人島、27の無人島があるまちとなった。3月18日早朝、「松山しまサミット」に参加するため高浜港から高速船に乗る。昨年11月、道後で開催した「21世紀むらまちのかたち」シンポで報告いただいた松山離島振興協会会長・田中政利さんからも案内をもらっていた。真新しい中島総合文化センターに着くと、さっそく実行委員長である田中さんの顔を見つけ握手。ゲストの坂本冬実さんとの交流の話やらNHK「地域再生」特集番組の取材で中島がとりあげられる話など・・・。

Img_0006_edited  会場入口には惣那諸島9つの島から「しまのええもん市」のテントが所狭しと並ぶ。ちなみに9島とは、野惣那島・睦月島・中島・怒和島・二神島・津和地島・興居島・釣島・安居島。それぞれの島の特色あふれるサザエメシ・みかんもち・生ワカメ・しまうどん・たこ飯・干し物・なまこ料理・ひらめ丼・伊予かん・生ひじき・アオサノリ・魚介類・・・。゛寝ずに準備した゛「しまのええもん」は、昼前にはほとんど完売していた。

Img_0022_edited_1  パネルディスカッションでは、唐津市「加部島」の甘夏かあちゃん・山口めぐみさん、笠岡市「白石島」で修学旅行のプロモーションをする原田茂さん、「周防大島」で地域ポータルサイトで島を売り出す江良正和さんから、それぞれ素材にこだわった商品開発と販売、体験型ツーリズム、IT活用による島おこしなどの経験が報告。会場の中学生・高校生にも、都会人も羨ましがる「島に育ったことの優位性」を誇りにしてほしいとメッセージを送っていた。

Img_0024_edited  会場には、戦前からの惣那諸島の暮らしを記録した地理学者・村上節太郎の写真展も開催されていた。昭和20年代の由利島浜辺の集落写真。江戸期からイワシの豊漁場だった由利島には、夏の漁期に二神島から移り住んだ数百の集落があったという。

Img_0033_edited  そのなかに怒和島の獅子舞の写真を見つけた。「獅子だけでなく狩人や狐が登場する芸能は、郡中(伊予市)から伝えられた」とある。確かに郡中と同じ獅子舞である。怒和島と郡中とのつながり。これにはわけがある。江戸時代、惣那諸島は松山藩と大洲藩に領地が分かれており、惣那島(中島)のうち大浦・小浜・粟井・宇和間と怒和島・睦月島が大洲藩領、惣那島の残りの村と野惣那島・津和地島・二神島が松山藩領であった。同じ大洲藩領内の郡中と怒和島。「海の道」をつうじた交流がここにあった。そういえば藩医であった郡中の藤井道一(司馬遼太郎『花神』に登場する村田蔵六の親友)の生家が中島・粟井にあることが最近わかった。怒和島の田中政利さんに今回「しまサミット」を案内されたのも、そんな縁だったのかもしれない。

Img_0007_edited_1  松山離島振興協会によって9つの島が結ばれた。松山市のリフレッシュゾーンをめざして安居島・睦月島・野惣那島をめぐるクルージングなど新たな連携がすすめられようとしている。『しまはく(博覧会)』開催に向けたステップに。過疎化・高齢化の中でも「中島に何かが始まる」と田中さんは夢を膨らませていた。


 総合計画策定プロセスの゛体験゛

2007-03-17 08:09:58 | 社会・経済

 『ひと・まち・自然が出会う郷』-自立を目指す多様な地域が、交流し共生するふるさと。合併後の新伊予市の総合計画、2014年度を目標とする将来像・基本構想・基本計画が策定された。「三位一体改革」による厳しい財政状況、少子高齢化・人口減少のもとで「参画と協働」をキーワードとした中期的な計画指針がまとめられたといえる。2005年8月から審議会に公募委員として参画し、2007年3月まで1年半の間、この総合計画・自治基本条例の策定に関わった。かつてシンクタンクに勤務していた頃、大阪府下自治体の行財政調査や総合計画に多く携わってきたが、人口規模の小さいまちの、また合併後の計画づくりのプロセスを久々に体験させてもらったことは様々な意味で勉強になった。

 そもそも1969年に自治法上に「基本構想」が導入されたのは、70代の高度成長政策によるもの。国・県のいわゆる「上位計画」という国土計画に自治体計画を組み込ませるという中央集権的な意図があった。「基本構想」「基本計画」「実施計画」の三本立ても、旧自治省の「策定要領」(1969)にもとづくものである。内容は公共事業呼び込みのために夢のようなビジョン、補助金頼みの事業計画、数値目標もなくごまかしができる記述型、計画の評価(総括)・見直しもないまま首長が変わればロッカー入りという例も多かった。

 しかし地方分権の流れの中で、実効性の乏しい計画づくりを改める自治体が増えてきた。武蔵野市や多治見市のように目標・戦略・戦術を明確にした計画づくり、10年の「基本(長期・総合)計画」の前期5年を「実施計画」あとの5年は展望計画とし市長・議会の4年任期に対応させる手法、検証しやすい個別・具体の施策プログラムによる体系化など自律的な計画づくりが取り組まれるようになっている。国・地方の財政危機を背景としながら、地方分権の時代にふさわしい計画行政が定着できるのかどうかが問われているといえる。

 合併前の旧3市町の総合計画をみると、コンサルに丸投げした施設プロジェクト中心のもの、分野別施策の総花的な寄せ集め作文というもの、小さな町らしく目標と手段が明確にされて住民参加によって実効性を高めようとするものとそれぞれの゛個性゛があらわれている。これまでの旧市町の総括にもとづき、どのような合併後の総合計画を展望するのかが今回の課題であった。また、合併に伴う政治的公約ともいうべき「新市建設計画」の基本方向 ① 地域の特性や多様な地域資源、地域づくりの経験・蓄積を生かすこと ②一極集中でない分散型のまちづくりをすすめること ③地域内分権・行政内分権を基本とした行財政改革 をベースとすることも必要であった。しかし現実の旧市町関係者の関心は、合併協議にもとづく個々の地元要望事業が、新市の総合計画・実施計画に盛り込まれるかどうかに集まっていたのではなかろうか。

 総合計画の策定は、政策内容とともに政策決定プロセスである審議会でどのような議論がされてきたのかが重要である。伊予市の場合、旧合併協議会委員・議員・職員・公募市民という審議会構成もまたユニークなもので、それぞれの立場がよく見えてくる。合併協議以来、資料・会議録がHPで公開されるようになり審議内容の公開度が高まった。今回の審議会では、意見の文書発表とともに「パブリック・コメント」という自主レポートを毎回発行しながら、委員及び事務局とのやりとりを記録してきた。市町村の総合計画づくりの実際はどのようなものだったのか、いずれまた紹介したいと思う


宮崎・地域づくりへの旅

2007-03-13 20:25:38 | 日記・エッセイ・コラム

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宮崎県が゛そのまんま旋風゛で注目を浴びている。ということではなかったが、「灘町・宮内邸を守る会」メンバーで宮崎の「ほんもの」の地域づくり拠点を訪ねた。一つは、西都市にある高見乾司さんが主宰する「森の空想美術館」。これまで九州各地に伝わる多様な神楽面の収集と展示・研究を続けてきた旧「由布院空想の森美術館」 をこの地に移し、「森の空想美術館」として活動を継続。西都原古墳群に囲まれた茶臼原台地に、教会を再生したギャラリーと「九州民俗仮面美術館」が開設されていた。

Img_0010_edited_2 美術館は、明治27年、児童福祉の父・石井十次が拓いた36haという広大な「石井記念友愛社」の敷地内にある。子どもたちの寄宿舎を「手づくりミュージアム」方式・ワークショップで改装・再生した。200点にのぼる民俗仮面が展示され、アジア・環太平洋の仮面文化と南九州の古代芸能・神話との連環を想像させる。

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高見氏は「福祉と芸術の究極の出会い」といわれたが、大原美術館を創設した大原孫三郎と「岡山孤児院」の石井十次の出会い、大原美術品を世界から集めた石井の孫・児島虎次郎の3人の絆など、近代 黎明期のフィランソロピーの軌跡を「石井十次資料館」で初めて知ることができた。松平建主演の映画『石井のおとうさんありがとう』も2004年夏にロードショーされたという。

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「天は父なり 人は同胞なれば 互いに相信じ 相愛すべきこと」。「石井記念友愛社」の憲法にある一節。「自然主義」「家族主義」「友愛主義」が、ルソーの「エミール」に学んだ石井十次の理想郷の理念なのであろう。明治から脈々と続く福祉と芸術の地域づくりの歴史・・。

Img_0072_edited_1 かつては「夜逃げのまち」といわれた綾町。今では「有機農業のまち」「照葉樹林の残るまち」として年間120万人の観光客を迎え、全国的にも注目を集めている。前町長・郷田実氏が提唱した「一坪菜園運動」から生まれた「手づくりほんものセンター」を訪問した。センターは町から商工振興会が委託を受け、町民が生産した有機農産物や加工食品などを販売し、地域の産業や観光の振興をはかるための施設である。

Img_0073_edited 「綾町民が町内で生産した品物、綾町内で加工した物を原則とする」「綾町の条例に基づき、有機農産物認定基準による認証を行った品物」などの自然生態系「綾ブランド」の維持や徹底した地域内循環。都市住民との連携をはかり、レジ客だけで年間35万人、売り上げは3.5億円にのぼる。゛顔の見える゛登録生産者掲示板には700人の名前があった。

Img_0077_edited こうした取り組みの基礎には、前町長・郷田氏による「結いの心」を取り戻す「自治公民館活動」、全町民総参加のまちづくりがある。照葉樹林伐採反対運動を契機に、郷田氏は人間も自然の一部であると住民に強く説いた。自然リサイクルの考え方は、有機農業や地域資源循環システムを生み出し、自然環境を保全する観光コンセプトにも連動している。゛合併しない町゛人口7500人の綾町に住みたいという中高年も増え、新しい定住者やビジネスも生み出している。日本一の照葉樹林とともに、自治の心を育む綾町にも「ほんもの」の地域づくりがあった。