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<2011年あれこれ> 郡中の芝居小屋の歴史と「寿楽座文化ホール」

2011-12-31 21:10:50 | インポート

 

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 伊予市の文化施設のあり方が問われている。合併後の新庁舎建設と関連して、庁舎に隣接した現在の市民会館の代わりに新たに文化ホール(10.2億円)を建設するという。一般集会施設と文化施設の違いも認識されないままに、まちの郊外のウェルピア伊予に併設するとか座席数とか、基本となる理念やコンセプトがないまま、ソフトなき
「ハコ物」論議が先行している。年間20回も使われていない現在の貸館大ホール(650)の現状。旧厚生年金施設の購入・引継ぎのためにすでに10億円が投入され、維持管理費や今後の修繕・改修費を考えても、人口減少と市税収入(現在37億円)減、実質公債費比率15.2%の伊予市の財政力では荷が重すぎる。2035年29,264人、老齢人口37.1%という将来の伊予市の姿を見据え、日常的に市民や文化団体が参加し気軽に利用できる文化活動の拠点こそ求められているはずなのに

 
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 内子の町並み保存のシンボルでもある内子座では現在、楽屋増築や周辺整備が進められている。高知・香南市(旧赤岡町)では、まちなかに弁天座という芝居小屋を再生して日常稼働率8割以上という町民利用が実現している。

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 行政が「公の施設」として会館・ホールを建設し始めたのは、昭和30年代頃から。そもそも庶民の芸能・文化は、芝居小屋から始まっている。郡中の歴史からもそのことがわかる。
江戸時代後期には、人形浄瑠璃や歌舞伎芝居などが奢侈禁止のもとで禁令されたが、社寺や市・祭礼などに伴う興行は許可されていたことが古文書に残されている。『半窓日記抄』には、天保13(1842) 415日夜 光明寺 浄瑠璃場に角力取ノ喧嘩 (灘町)、嘉永4(1851) 56日 上行寺 能芝居初日11日仕舞(灘町)とある。また、文久元年(1861)に奈田町(灘町)が伊豫稲荷神社に奉納した絵馬「豊年踊図」には、力士や芸人などの風俗画が描かれており、様々な興行が行われていた。

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 明治以降になると常小屋として、明治35(1902)頃、萬永座が湊町に初めて設けられた。大正5(1916)まで興行がおこなわれたが、それに代わる形で大正8(1919)に灘町に寿楽座ができている。当時の写真にあるように、松山市の新栄座(明治2010月落成)を模した、望楼と千鳥破風の大屋根が特徴的であり、郡中のシンボル的な建築物であった。
  大芝居一座の地方興行が盛んになるにつれ、松山をはじめ県下各地に常設演劇場が建築された。これらの地方演劇場は活動写真の創生後、映画館を兼ねることとなり、「普通選挙促進」などの政見演説や各種の集会場としても利用された。大正5814日の夜、郡中灘町・湊町で米騒動が起こり、松山や宇和島へと暴動が広がった。都市人口の増加や大正デモクラシーを背景に演劇場が増えたとされる。湊町・増福禅寺には明治28(1895)と銘がある浄瑠璃太夫「豊竹邑太夫」墓が残されており、浄瑠璃が当時の庶民文化として根付いていた。

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 戦後は、映画館として利用され、昭和31年の伊予商工名鑑によると当時、品川静子が経営していたが、昭和38(1963)に閉館し、その後取り壊された。寿楽座の鬼瓦や鳳凰の飾り、梁の一部などは、湊町の仲田家に残されている。

最近、寿楽座支配人の子孫から寿楽座の呼び出し太鼓を持っていたという貴重な話が飛び込んできた。近々、升席や花道などの内部の様子の図面を送ってくれるとのこと。

  こうした郡中の庶民文化の歴史をたどり、町並み保全や景観整備計画にあわせて、まちなかに、゛室内音楽と芸能・演劇の拠点゛「寿楽座文化ホール」の再生ができないだろうか。

 伊予市らしい誇れるまちづくりのために、市民の文化力が試されている。

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