gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

伊予市出身のノンフィクション作家・城戸久枝さんの受賞作、来春NHKドラマ化

2008-12-31 00:14:14 | 日記・エッセイ・コラム

 P1010317_edited_21 2008年の秋は文化行事が目白押しだった。今年の4月、厚生年金事業振興団の施設であった「ウェルピア伊予」を伊予市が取得したことにより、市民の総合文化施設としてどのように活用するのかが問われた1年目。11月8・9日には「いよし市民総合文化祭&ふるさとフェスティバル」が開催され、子ども美術展・アートフェスティバル・障害者ふれあいのつどい・郷土芸能のつどい・ふるさと芸能大会・国際交流フェア・文芸大会など実行委員会による多彩な文化行事が開催された。

 Img_0251_edited_5 11月23日には、『あの戦争から遠く離れて-私につながる歴史をたどる旅』(情報センター出版局)で今年度の第39回大宅壮一ノンフィクション賞・講談社ノンフィクション賞・第7回黒田清JCJ新人賞の三冠を受賞された、伊予市育ちの城戸久枝さんの講演会がもたれた。中国残留孤児の父幹さんの半生を描いたルポ。中国に取り残された孤児たちの集団訪日調査が始まったのは81年だったが、70年に文化大革命のさなか帰国を果たした父親の数奇な半生に向き合い、自分につながる「歴史」の記憶を今日に引き継ぐ感動的な作品である。城戸さんは、からたち幼稚園、郡中小学校、港南中学校から松山南高へと伊予市で育った。転機は徳島大学3年生の夏、中国・大連市でのホームステイだったという。街の至るところに旧満州時代の名残りがあるのに自分は何も知らない。残留孤児だった父の生きていた中国を知ろうと、吉林大学に国費留学を決意した。Img006_2 卒業後、出版社勤務などを経て2005年からフリーのライターに。「日本生まれの中国残留孤児二世」として残留孤児、残留婦人、二世・三世への取材活動や国家賠償訴訟を追い続けてきた。そして10年の年月をかけて取材を重ね、長編『あの戦争から遠く離れて』が昨年7月に出版され、新聞・雑誌の書評欄でも大反響を呼んだ。 父幹さんと養母・淑琴との愛情と波乱に満ちた時代とともに、娘・久枝さんが父の足跡を現地に訪ね、歴史をたどる姿は、多くの感銘を与えてくれる。好きな言葉は「車到山前必有路」(困難があっても進めば必ず道は開く)。中国留学中にお父さんから受け取った手紙の中の一節だそうだ。Img_0269_edited 講演会でも紹介いただいたが、この作品を原作としたNHKのドラマ化が決定した。ドラマのタイトルは『遥かなる絆』。2009年4月から毎週土曜日に6回放送される。演出は『大地の子』を手掛けた岡崎栄さん、久枝さん役は『がんばっていきまっしょい』の鈴木杏さんとのことだ。八幡浜市や伊予市などでのロケもスタートしたという。これとは別にNHKドキュメンタリー番組(3月6日P8~放送)も企画されていると聞いた。

 Img_0328_edited_2 この日の文化講演会に続いて、25日には母校・港南中学校で全校生徒を対象に「夢を実現すること」と題した講演会が開かれた。 城戸さんの姉で音楽活動をしている一江ウタカさんの演奏や中国の「植樹歌」も披露してくれた。城戸久枝さんの作品と来春のNHKドラマ化によって、日本と中国の悲しく複雑な歴史を振り返り、家族の「絆」、日本と中国の「絆」へのメッセージとして全国に発信されていくことを期待したい。「車到山前必有路」-愛媛・伊予市発、日本・中国へ。


郡中三町独立200年・佐伯矩博士のこと

2008-12-27 17:20:07 | 日記・エッセイ・コラム

 Img004 2008年は、伊予市の歴史資源からみて記念すべき年であった。まず「郡中三町独立200年」。文化5年(1808)8月、灘町・湊町・三島町が町の発展を背景に、これまでの米湊村・下吾川村の郷(村方)から独立することを幕府に認められ、自治による町政が始まって200年目にあたる。この独立協定書である『郷町引離二付為取替証文』(8月11日)、湊町の安政『大地震記録』がこのたび発見され、伊予市指定文化財に指定された。奇しくも同じ文化5年7月29日、伊能忠敬測量隊が上灘から郡中の測量のために本陣・宮内小三郎家に投宿していた。

   この200年前の出来事を再現すべく、7月28・29日、宮内家で『郡中町方文書』『伊能忠敬測量日記・米湊図』『宮内家・幕府巡検使文書』などの展示と愛媛県歴博主任学芸員・安永純子さんを招いたギャラリートークを開催。伊能の弟子・東寛治の描いた『大洲領海岸実測図』なども紹介され、伊予の測量技術の高さや矢野玄道家に残された測量道具など、宮内家との所縁についても興味ある話を聞くことができた。伊能忠敬らの直前の時機を得た投宿が、宮内家など町方による「自治都市・郡中」を祝う意味さえあったのではと推測される。

 Img_0009_5 栄養学の創始者・佐伯矩博士もまた、伊予市の「宝」である。11月3日、灘町・栄養寺で佐伯矩博士の顕彰碑設立除幕式が開催された。2008年が博士の没後50年であることを記念して、その業績を称え、食育や食文化など今日的な意義を問い直すことを目的に事業が行われた。博士は3歳のとき、医者であった父卓爾、母シンとともに北山崎・本郡に移り住み、松山中学から第三高等学校(現岡山大学)医学部、京都帝国大学医科学教室に進み、北里研究室では野口英世とも親交を深めた。エール大学大学院で学位を取得し、世界で初めての「栄養学」創始のために尽力し、大正9年(1920)には念願の国立栄養研究所が開設され、初代所長に就任した。注目すべきは「栄養」という公用語も佐伯博士によるものだ。当時使われていた「営養」を「栄養」に改定したのは、少年時代に親しんだ「栄養寺」の寺名にあったと思われる。

  顕彰碑の製作には、砥部・里山房の矢野徹志さんにご協力いただいた。Img_0060 庵治(あじ)石には陶板で焼き付けた博士の肖像画がはめ込まれた。碑文の作成には、佐伯矩博士を研究した日下部正盛先生をはじめ地元の思いが込められている。佐伯栄養学校の卒業生であり元愛媛県栄養士会副会長・合田徳明さんからは、博士の人柄や思い出を話していただいた。東京慈恵医大付属病院の柳井一男栄養部長による記念講演では、科学としての「栄養学」を基本とした「食」が健康には不可欠と提言された。Img_0040_edited 来年の1月京都で行われる日本病態栄養学会の学術集会でも佐伯博士の顕彰企画が予定され、2月の愛媛大学の学術講演会でも愛媛大学大学院医学系研究科・恩地森一教授が基調講演を行うことになっている。郷土・伊予市で育った佐伯矩博士の半世紀ぶりの顕彰事業が、食育・食文化のまちづくりへと発展していくことを期待したいものだ。

 「灘町・宮内邸を守る会」が事務局となって実施してきた2008年の活動。百年・二百年と近世・近代の歴史をひも解きながら、「郡中まちぐるみ博物館」構想による「まちなか再生」へ新たなステップにしていきたい。


多様な文化を享受した島国-マニラの旅

2008-12-23 23:10:03 | 旅行記

 「いよし国際交流の翼」訪問団も12回目を迎えた。これまで訪問した国は、中国・台湾とシンガポール・マレーシア・タイ・カンボジア・ベトナム、そして今回のフィリピンと8つの国・地域になった。中国各地・ASEAN諸国の市民の実際の暮らしぶり、教育や福祉の実情、海外で活躍する日本人、日本語を学ぶ若い学生たちとの交流を通じて国際理解を深める貴重な体験の旅となっている。Img_0230_edited_3 振り返れば、この10年間で中国をはじめ東アジアは大きく変化しており、これらの国々と日本との関係がますます緊密になることが求められている。東アジアは、経済を中心に急速に一体化しており、ASEAN+3(日中韓)首脳会議において「東アジア共同体」づくりに向けた議論も本格化しつつある。「アジアによるアジアの再発見」-市民レベルの交流を通じた私たちの事業も、こうした大きな流れの一助になるのでは、そんな思いで「翼」の旅が続けられてきた。

 Img_0065_edited_3 フィリピンは、多様な文化を享受してきた抵抗の島国である。16世紀にスペインの植民地となった歴史は、マニラ中心部にある城壁都市・イントラムロスのエリアに当時の面影が残されている。第二次大戦で多くの教会が破壊されたが、唯一残されたフィリピン最古の教会「サン・オウガスチン教会」(1571年建築)は世界遺産に登録された。幸い日曜日だったためか、華やかで厳粛な結婚式の様子を見学することができた。Img_0076_edited_2 この歴史あるバロック様式教会では頻繁に結婚式が行われているようで、国民の83%がカトリック教徒というアジア随一のカトリック文化が根付いている。19世紀末、スペイン支配に抵抗して処刑されたホセ・リサールの記念館もパッシグ川を望むサンチャゴ要塞の中にあった。

 Img_0101_edited_2 今回のマニラ訪問の目的の一つは、世界三大夕日の一つ「マニラ湾の夕日」を見ること。「東洋の真珠」といわれる美しい夕日に何度もシャッターを切ったが、驚いたことは、マニラ湾に沈む夕日の時間帯になると多くの若者やファミリーが海沿いの遊歩道に次々と集まり、静かに沈む夕日をそれぞれに楽しんでいる姿であった。フィリピンは現在人口約9千万人、毎年人口が増え数年後には1億人を突破する若い国である。日本の高齢化社会から考えるとなんともうらやましい。

 Img_0141_edited_2 フィリピンは東南アジアの中で識字率93.9%と最も高く、初等教育の義務教育化が制度的にも整っている。アメリカ植民地時代の影響のもとで、英語を公用語として授業に取り入れ、6-4-4制の教育体系、初等教育の無償化などが実施されているが、人口増加や財源不足に伴う教室や教員不足、貧困などによる中退などの多くの課題を抱えている。私たちが訪れたケソン市郊外のドナ・ジュナ小学校は、生徒数が7198人、先生が145人、午前午後二部制の立派な学校だった。中央のグランドでは訪問団を迎える交流会が開催され、障害児クラス・小学生の歌や踊りが披露され、「さくら」を日本語で歌い振り付けを交えた踊りで大歓迎をしてくれた。カメラを向けるとポーズをしてくれる子供たちの人なつっこさ、折り紙や紙風船ではしゃぐ姿も素敵だった。学校敷地で行った植樹・プレートも市民交流の記念として大事にされるはずだ。

 Img_0212_edited_2 もう一つの今回の訪問施設は、フィリピンで看護師・介護福祉士を養成する専門学校である。マニラには各種の専門学校が町の雑居ビルの中にある。狭い教室の中ではあったが、実際に介護訓練の様子を紹介してくれ学生たちとの意見交換を行った。2006年に日本とフィリピンの経済連携協定(EPA)が結ばれ、フィリピン人看護師・介護福祉士が2009年春にも来日する予定となっている。政府は2年間で看護師400人、介護福祉士600人を受け入れる計画で日本での3~4年の研修後、国家試験に合格すれば滞在できる制度となっている。アジアの中で高齢化・人口減少が一番進む日本で、絶対的に不足する介護士をフィリピンなど海外からの人的支援として必要とする時代になっている。学生たちは英語が堪能でホスピタリティにあふれている。「フィリピンでは、親やお年寄りを大切にします」「日本で是非働きたい」と日本への専門職としての就職に大きな期待を膨らませているようだった。

 Img_0115_edited_2 今回のツアーでは、副団長の大塚房子さんが高校生のときにお世話になったシスター・イノセンシアさんにマニラで再会するというドラマチックな場面もあり、経営されている孤児院に古着などを寄付することもできた。『ああモンテンルパの夜はふけて』(渡辺はま子)の唄にあるモンテンルパ刑務所の日本人記念墓地に顕花を行ったが、第二次大戦の戦争犯罪者として処刑された17名の犠牲者もまた日本とフィリピンの歴史を物語っている。Img_0243_edited

  最終日には恒例の日本語を学ぶ学生たちとの交流。フィリピンでNO.1といわれる私立ラサール大学の日本語学科の学生たち15名との交流会が行われた。フィリピンは農林水産業を主要産業としているが、近年、トヨタ・ホンダなどの自動車メーカーの進出やキャノン・NECなどエレクトロニクス製品の加工貿易が経済を牽引している。フィリピンの大学進学率は約30%、毎年40万人以上の大卒者のうち約11万人が商業・経営関係、8万人がITやコンピューター関連の学科を卒業している。Img_0174_edited_3 英語能力の高い大卒者は、アメリカや日本のソフトウェア関連人材としても期待が高いと聞いた。日本語を学ぶ学生たちも日系企業への就職や日本への留学を希望していた。

 Img_0063_edited_2 マニラの街中を走る派手な飾りをつけたジプニ-。米軍の使っていたジープを15人ほど乗れる乗り合いバスに改造したものだが、網の目のような路線で乗りたいときに乗れ、降りたいときに降りれるという便利な乗り物だ。都市の活況とともに農村部には広大なバナナやパイナップル畑が広がっている。しかし富裕層と貧困層の対立、高い失業率、海外出稼ぎ労働者による送金経済で成り立つフィリピン。アロヨ大統領への支持率も30%台と政権への批判も強いと聞いた。スペイン・アメリカ・日本と何度となく他国の支配を受けながら自国の独立と文化を勝ち得たフィリピン。この国の抱える問題を垣間見ながら、交流した子供たちや若い学生たちに未来はかかっているのだと感じる国際交流の旅となった。