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『記憶を記録する』 ― 昭和30年代・郡中港の暮らし

2012-01-27 20:45:27 | 日記・エッセイ・コラム

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昨年から愛媛県生涯学習センターとともに、昭和30年代の郡中港のにぎわいと港の産業・暮らしについて、製材業・伊予園芸・回漕業などに従事していた60~80歳台の方々を訪ね、「記憶を記録する」活動を進めている。市史や町史には記録されていない貴重な事実や歴史の再発見である。今年の3月末には『えひめ地域学調査報告書』としてまとめられる。

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そのうちのいくつか。昭和30年代、郡中には40軒余の製材所があった。木材製品の積出しでは愛媛県内でも宇和島港に次ぐ第2の港で活況を呈していた。聞き取りのなかで、福井製材が所有していた福力丸の進水式の貴重な写真が見つかった。内港の防波堤で造船したもので、船にはお祝いの福力丸の幟が数多く飾られ、餅まきに集まった近所の人たちであふれかえっている。「福力丸に乗って、広島の宮島さんに近所の人や灘の人たちとお参りに行ったことがありました。」 金毘羅さんなどにも行ったことがあるとのこと。

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また、郡中の港には、親子二代にわたって漁船や機帆船をつくってきた船大工さんがいた。黒田秋廣さん(大正11年生まれ)は、戦時中は海軍工作兵として徴兵されたが、復員したのち、親子で船大工を続けてきた。大西回漕店の千恵丸や福井製材所の福力丸も黒田さんが造った機帆船だった。

  愛媛新聞の『わが街に、この人あり― 伊予市』伊予職人気質(昭和501016)に、船大工・黒田さんの記事がある。「伊予灘で産声をあげた、おらが船。大漁旗を、いっぱいかかげて走っとるワイ。」 郡中港で最後の船大工として活躍された。

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<2011年あれこれ> 「伊予市・セーラム国際交流委員会」の設立、愛媛とオレゴンの橋渡し

2011-12-31 21:17:18 | インポート

 

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 伊予市とオレゴン州セーラムとの国際交流事業をすすめる委員会が、
4月に正式発足。両市の友好親善を目標に、中学生や青少年の相互交流、経済・観光・行政などの幅広い交流を進めることになった。

 中学生派遣事業と並行して、822日から25日の日程で初めて現地の関係団体への訪問・面談を行い、愛媛県・伊予市などの産業・物産などの紹介を行ってきた。伊予市からのメンバーは、岡部悦雄(会長・伊予商工会議所会頭)、岡井英夫(伊予市副市長)氏らとセーラムからEd Davis katsumi Itoh 両氏に同行いただいた。

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   セーラム市役所では、ANNA M. PETERSON (Mayor) LINDA NORRIS (City Manager)、セーラム市経済開発機構(SEDCORE) 社長Ray Burstedt、セーラム商工会議所 専務 Jason Brandt氏らが歓待。アンナ・ピーターソン市長から、今後とも両市の関係の発展を希望するというあいさつをいただいた。懇談のなかでは、中学生・青少年の交換留学や文化交流を続けていくこと、経済・産業関係のつながりを強めるための人的交流、観光・物産など交流事業が重要であること、また、議会・行政の交流についても、韓国の金海市から職員派遣研修を行っていることを例に、今後、伊予市からの派遣についても受け入れる用意があるとのうれしい話も。

 
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  中学生も参加した市議会での公式歓迎会につづいて、市議会(議員8名、毎月第4月曜日P6:30開催、市民意見の発表、CCTVによる公開)の運営について、セーラム市広報事務長・MIKE GOTTERBA氏から説明が行われ、セーラム市政について学習。セーラム市議会では、議員さんからも歓迎のあいさつをいただき、この日の訪問団の様子については、リアルタイムでCCTVによるインターネット配信(世界発信)が行われた。

 セーラムには、ヤマサ・サンヨーなどの日系企業も早くから進出している。面談したYAMASA Corporation USA の守谷正明社長は、オレゴンへの進出理由として原材料(大豆・小麦)と水、消費税がないこと、インセンティブの高さなどをあげていた。

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  SANYO Solar of Oregon LLC
の川西康義社長からは、オレゴン州が再生可能エネルギーの先進地であること、許認可のスムーズさや対日関係のフレンドリーさ、教育水準の高さなどが進出理由とのこと。セーラム市・SEDCOREが誘致したこともあり、現在、コンファランスセンター(99kw)、チュメケタ・コミュニティ・カレッジ(200kw)には三洋のソーラーパネルが設置されている。オバマ政権のグリーン・ニューディールに呼応する動きだ。

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  8 24日 には、ポートランド・ オレゴン日米協会(JASO)を訪問。オレゴン州における日本企業・観光・文化関係のコーディネート・窓口役として、50年以上の歴史をもつ Paul Taylor (前会長・弁護士) Dixie Mckeel (専務理事)JASO役員、Charies Allcock (Portland General Electric事業開発部長)Noah Siegel (ポートランド市長室・国際部長)から、オレゴン事情について説明を受ける。特にオレゴンは環境への関心が高く住みよいこと、産業的には、再生可能エネルギー部門、フード・食料関連部門、デザイン・広告・アート・映画などのサービス産業部門において、日本からの投資や輸出入の可能性・有効性が語られた。愛媛県の産業や観光などの情報交換も行い、今後とも、様々なアドバイス・協力に応じていただけることになった。

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  今回特別に、在ポートランド日本国総領事・岡部孝道氏を表敬訪問できる機会を得た。
岡部総領事からオレゴン州やポートランドのまちづくりの先進性、アメリカの各州のなかでも高い親日性などの特徴が語られた。また、国際社会のなかで、これからの日本の青少年教育のあり方や国際交流についても貴重な意見交換。

 825日には、オレゴン州議会を視察・訪問。オレゴン州議会下院議員 Vicki Berger 議員の協力で、オレゴン州議会議事堂・上議会に招待され、オレゴン州の議会構成(下院60、上院30)や市民議員としての役割、議会開催や議決方法、公開性、公聴会制度などについて詳しく解説。

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  最終日のレセプションでは、セーラム市長のAnna Petersonさんから、「互いの市民の国際意識を促進するための非常に有益なプログラムです」と、長期にわたる伊予市との交流に協力を惜しまないとの伊予市長へのメッセージをいただいた。国際的な視野を持った次代の担い手を育てるためにも、伊予市とセーラム、愛媛県とオレゴン州との交流の絆をさらに強固なものにしていきたいもの。


<2011年あれこれ> 郡中の芝居小屋の歴史と「寿楽座文化ホール」

2011-12-31 21:10:50 | インポート

 

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 伊予市の文化施設のあり方が問われている。合併後の新庁舎建設と関連して、庁舎に隣接した現在の市民会館の代わりに新たに文化ホール(10.2億円)を建設するという。一般集会施設と文化施設の違いも認識されないままに、まちの郊外のウェルピア伊予に併設するとか座席数とか、基本となる理念やコンセプトがないまま、ソフトなき
「ハコ物」論議が先行している。年間20回も使われていない現在の貸館大ホール(650)の現状。旧厚生年金施設の購入・引継ぎのためにすでに10億円が投入され、維持管理費や今後の修繕・改修費を考えても、人口減少と市税収入(現在37億円)減、実質公債費比率15.2%の伊予市の財政力では荷が重すぎる。2035年29,264人、老齢人口37.1%という将来の伊予市の姿を見据え、日常的に市民や文化団体が参加し気軽に利用できる文化活動の拠点こそ求められているはずなのに

 
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 内子の町並み保存のシンボルでもある内子座では現在、楽屋増築や周辺整備が進められている。高知・香南市(旧赤岡町)では、まちなかに弁天座という芝居小屋を再生して日常稼働率8割以上という町民利用が実現している。

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 行政が「公の施設」として会館・ホールを建設し始めたのは、昭和30年代頃から。そもそも庶民の芸能・文化は、芝居小屋から始まっている。郡中の歴史からもそのことがわかる。
江戸時代後期には、人形浄瑠璃や歌舞伎芝居などが奢侈禁止のもとで禁令されたが、社寺や市・祭礼などに伴う興行は許可されていたことが古文書に残されている。『半窓日記抄』には、天保13(1842) 415日夜 光明寺 浄瑠璃場に角力取ノ喧嘩 (灘町)、嘉永4(1851) 56日 上行寺 能芝居初日11日仕舞(灘町)とある。また、文久元年(1861)に奈田町(灘町)が伊豫稲荷神社に奉納した絵馬「豊年踊図」には、力士や芸人などの風俗画が描かれており、様々な興行が行われていた。

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 明治以降になると常小屋として、明治35(1902)頃、萬永座が湊町に初めて設けられた。大正5(1916)まで興行がおこなわれたが、それに代わる形で大正8(1919)に灘町に寿楽座ができている。当時の写真にあるように、松山市の新栄座(明治2010月落成)を模した、望楼と千鳥破風の大屋根が特徴的であり、郡中のシンボル的な建築物であった。
  大芝居一座の地方興行が盛んになるにつれ、松山をはじめ県下各地に常設演劇場が建築された。これらの地方演劇場は活動写真の創生後、映画館を兼ねることとなり、「普通選挙促進」などの政見演説や各種の集会場としても利用された。大正5814日の夜、郡中灘町・湊町で米騒動が起こり、松山や宇和島へと暴動が広がった。都市人口の増加や大正デモクラシーを背景に演劇場が増えたとされる。湊町・増福禅寺には明治28(1895)と銘がある浄瑠璃太夫「豊竹邑太夫」墓が残されており、浄瑠璃が当時の庶民文化として根付いていた。

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 戦後は、映画館として利用され、昭和31年の伊予商工名鑑によると当時、品川静子が経営していたが、昭和38(1963)に閉館し、その後取り壊された。寿楽座の鬼瓦や鳳凰の飾り、梁の一部などは、湊町の仲田家に残されている。

最近、寿楽座支配人の子孫から寿楽座の呼び出し太鼓を持っていたという貴重な話が飛び込んできた。近々、升席や花道などの内部の様子の図面を送ってくれるとのこと。

  こうした郡中の庶民文化の歴史をたどり、町並み保全や景観整備計画にあわせて、まちなかに、゛室内音楽と芸能・演劇の拠点゛「寿楽座文化ホール」の再生ができないだろうか。

 伊予市らしい誇れるまちづくりのために、市民の文化力が試されている。

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 <2011年あれこれ> 「伊佐庭如矢・道後物語館」のすすめ

2011-12-31 20:59:03 | 日記・エッセイ・コラム


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ドラマ『坂の上の雲』3部作が今年で終了する。これから南海地震・老朽化対策のために国の重要文化財・道後温泉本館の保存修復が本格化し、期間は11年かかるという。その影響予測では、入浴客は9割減、宿泊客は年間50万人(現在110万人)に減少するとのこと。この機会に、道後温泉本館の建設を手掛けた伊佐庭如矢について話をする機会を得た。

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  秋山好古の墓も鷺谷墓地にあるが、その階段を上ると正面に伊佐庭如矢の墓がある。「禿毫庵(とくごうあん)碧梧桐」という学者らしい筆塚の墓碑。土佐藩士で町医者の父・成川如水の子。
16歳になると阿部家の養子に迎えられ、28歳のときに、勤王の志士を育成する「老媒下塾」を開き子弟を育てた。明治維新とともに、道後の古きゆかしい地名・伊佐庭の姓に改名。明治の市町村制のもとで道後湯之町の初代町長に請われ、命を狙われるほどの住民の大反対に会うも、総工費135千円(当時の町予算の162倍、現在価格20億円以上)の道後本館が、明治27410日に落成した。Img_0001
松山藩主おかかえの城大工・名棟梁の坂本又八郎に設計をさせ、和風建築に西洋式のトラス工法を取り入れ、ギヤマンのガラス障子、屋根には振鷺閣を設け、伝統的な建築技術と近代的な手法を組み合わせた三層楼の大建造物。落成の日は天気晴朗。愛媛県知事・小牧昌業が入浴初めをなし、道後在住の80歳以上の翁・おうなを入浴させた。当時の新聞は「その壮麗天下に冠たり」と絶賛した。

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  伊佐庭は、道後本館の建設にあわせて、一番町と道後間を結ぶ「道後鉄道」を明治
288月に開通させている。この年の4月に夏目漱石が松山にやってきた。三番町の城戸屋旅館に泊まり、その後、一番町の愛松亭(裁判所の裏)の離れに下宿、6月には二番町の上野義方の2階建ての離れに引っ越す。827日、松山に帰省してきた正岡子規に1階を明け渡し、ここを愚陀仏庵とした。52日間の共同生活のなかで文学者・漱石、子規の俳句革新が誕生した。

子規は、漱石とともに二番町の愚陀仏庵から伊佐庭が開設した道後鉄道に乗り、道後温泉本館に入浴し、三層楼より道後の町を眺望している。「柿の木にとりまかれたる温泉(いでゆ)哉」。小説『坊ちゃん』で「温泉だけは立派なものだ」と漱石に言わしめたのは、「百年の計」で道後のまちづくりを考えた伊佐庭如矢の業績である。
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  愚陀仏庵を宝厳寺前に再建・誘致する議論がある。漱石や子規、伊佐庭が生きていれば、大いに叱られるに違いない。宝厳寺に温泉本館建設反対派がむしろ旗や竹やりを持ち出し、連日かがり火を焚いて騒動を起こしたことをお忘れかと。

 「百年の計」を考えれば、道後には、愚陀仏庵より道後温泉本館を創建した「伊佐庭如矢・道後物語館」がふさわしい。
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   原田光三郎『伊佐庭翁概傳』(昭和19)/ 二神将『愛媛県の創生期を支えた能吏 伊佐庭如矢翁伝』(伊予史談会)<o:p></o:p> 


<2011年あれこれ> 次代を育む食のまちづくり - 若狭・小浜とのネットワーク

2011-12-31 20:50:43 | 日記・エッセイ・コラム

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月、大雪に見舞われながら、福井県小浜市へ食のまちづくりの視察研修に出かける。「御食国(みけつくに)」の名のとおり古代から朝廷に塩や海産物を送る若狭の地。2000年に食のまちづくりを公約に掲げた農業指導者・村上利夫前市長のもとで、全国初の食のまちづくり条例を制定。近年の外食産業や食のグローバル化に対して、食の地域性に根差したスローフードの食文化を育んでいる。

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  伊予市にも
2年前に講演に来ていただいた食のまちづくり課・中田典子さんからレクチャーを受け、幼児期から料理を始める「キッズ・キッチン」を見学。子どもたちが、地域の食材に向い、、命にふれる食育を30名の市民サポーターがささえている。幼稚園・保育所、学校、公民館、集落センターで、あらゆる世代への生涯食育。伝統野菜や郷土料理の再発見、校区内地場産給食は、生産者の心と顔の見える関係を育てていた。食を切り口にしたまちづくりは、環境、産業、経済、文化、教育に深くかかわる。小浜藩医・杉田玄白、食育を唱えた福井の医師・石塚左玄に学び、人づくりこそ原点という小浜の食のまちづくりから教わるものは多い。

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  伊予市でも、栄養学の創始者・佐伯矩博士に学び
、「伊予市食育14推進計画 い~よ!いよしの食育物語が策定された。伊予市を元気にする指針になるはずだ。

村上利夫『縁が生きる―次代を育むまちづくりの実践』(河出書房出版) /佐藤由美『食のまちづくりー小浜発! おいしい地域力』(学芸出版社)