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青春メモリー ・好き勝手な人生で良かったのか? 自分探しの旅に出よう !

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北海道を創った Dreamer 発見者「坂 一太郎」

2019年02月10日 | 歴史コラム
1888年ベンジャミン・スミス・ライマンは、この谷に石炭層があるかもしれないと・・・・・

日本の雇われ地質学士は、夕張(ユーパロ)を調査し「ここには石炭鉱脈が眠っているかも知れない」と言い残していた。

当時 同行していた北海道庁の地質技師「坂 一太郎」は それから14年後、夕張を再調査するべきと強く進言し採掘調査を行なった。結果。

大露頭(石炭鉱脈)を発見した !


当時 日本にはこれといったエネルギーはなく北海道からも大口で石炭が採掘・生産出来ることは、強国に囲まれている日本にとっては画期的な出来事だった。



直ぐに、大々的な募集が始まり北海道へ夢を求め、土地がなく小作をするしかなかった人達が全国から集まり夕張は合衆国のように九州をはじめ色々な県からの人たちの坩堝と化した。

採炭夫への対偶は市営住宅・銭湯無料・公共料金はほぼ使い放題だった。

勢いは続き、天皇陛下をはじめ「美空ひばり」「三波春夫」「三橋三智也」「村田英雄」等 大物スターが次々とやって来た。

この蛇のようにうねる谷のような山地は11万人を超える人口に膨れ上がった。

みんな「いい振りこき」で家電は流行りが出ると直ぐ購入する。

買うとも言っていないのに業者が勝手に持って来て置いて行くのだ。

「いいっしょ 買っても」「ううううう~ん」



しかし、昭和30年のエネルギー革命により、国は石油へシフトしはじめる。又 海外炭との価格競争、相次ぐ事故が続き、5年に1回は合同慰霊祭が執り行われクラスでも父のいない子が幾人も出ていた。

地下10階位下の狭い空間で、起こる落盤事故、鉱脈の隙間からガスが発生し採炭夫が休憩でタバコに火を付け引火し 大爆発を起こし213名が亡くなったこともあった。

深い穴の中では何が起こるかわからず、鉄砲水や落盤事故で救出してくれる筈の会社側は、ガス爆発の二次災害を危惧し確実に何十人も坑内にいることを、わかっていながらとんでもないことをした・・・・。

続く・・。



北海道を創ったDreamer番外編「露寇」第二部

2019年02月08日 | 歴史コラム
罷免された羽太正養だったが、ロシアの非道は続いた。宣戦布告がない場合は外国からの犯罪なのだ。

幕府は新設された松前奉行と津軽藩・南部藩・庄内藩・久保田(秋田)藩から3000名の武士を徴用し、宗谷村・知床半島(斜里)地区などの警護にあたらせた。

越冬中過酷な配置で警備にあたっていた津軽藩と70人が厳寒の中病死した。

これらの侵攻はロシア皇帝の許可を得ておらず1808年に、皇帝からの撤退命令が下されたことにより、一時的にロシアの侵攻は退いたが、利尻島(稚内近くの島)で、襲われた幕府の船からは大砲が奪われている記録も残っている。

このほか樺太の久治古丹に上陸したロシア兵20数名が、銃で威嚇し17・18歳のアイヌの子供を拉致した。

この他、米六百俵・雑貨を略奮し11箇所の家屋を焼き討ちし、漁網・船全部に火をつけていった。

船がなく、この出来事を連絡する手段を絶たれた為、翌年4月になってこの侵攻が報告された。

さらに文化2年4月ロシアの船2隻が、択捉島の西の港に入港した。

一報を聞くが、南部藩の警護・番屋が襲撃されて、米・塩・什器・衣服までも略奮されロスケは火を放ち出帆していった。

このように「文化露寇」は一度の事件のようなものではなく、何度も何度も蝦夷各地が襲撃された、局地での戦争行為である。

当時の日本側は大きな戦争へ発展することを危惧し白旗を掲げ短船で、近づき話し合いに応じるよう努力をしたが、相手にはされなかった。



爛熟した太平文化の江戸時代の中、一見泰平に感じる日本で、改めて国防の重要性を覚醒させる出来事だった。

当然、幕府はこの後、内外に強硬策を取らざるをえなくなった。


「文化露寇」の略奮物はいまだに返還されることもなく、日本から分捕った大砲・弾薬その他の物が、ロシアの
民族博物館に収蔵されている。



いかに日露平和条約が詭弁の上に成り立っているかが、わかろう。

まず、それら盗んだものを返し、それから平和の話を進めることが交渉ごとの順番ではないでしょうか。
我々は歴史から学ばなくてはならない・・。

北海道を創ったDreamer 番外編「羽太正養」と「露寇」第1部

2019年02月07日 | 歴史コラム
『 羽太 正養』(ハブト・マサヤス)

1752年に生まれる。御用奉行から本丸目付へと出世して行った。

そして、幕府が東蝦夷地を仮上知した1799年に蝦夷地取り締まり役の御用掛へと任命される。

1801年頃には国後島に警備・番屋を設置し巡視して廻る。

やがて新設された蝦夷奉行に就任し安芸守となる。

箱館在勤と江戸在勤を一年毎に繰り返し行っていた。

その頃に、大変なことが起る。



『 露寇 』①

1792年エカチェリーナ二世は日本国との通商を思案しアダム・ラクスマンを根室へ送る。

日本との通商を求めたが、江戸幕府はシベリア総督の信書を受理せず長崎への巡航を指示し、レザノフが長崎へ来航し、半年に渡って交渉を求めた。

その頃は日本は鎖国中であり、結局幕府はそれを拒絶し続けた!

しかも交渉団への待遇は幽閉に近い状態で、レザノフは立腹し、全く交渉が進展しないことから日本に対しては武力行使を持って開国を要求するしかないと皇帝を通さずに、日本への侵攻が数箇所で始まることになる !

レザノフの部下のニコライ・フボォストフは、樺太の松前藩居住地を襲撃する。

さらに、日本固有の領土である択捉の幕府軍などの北方における日本側の拠点を次々と攻撃させた。



この責任を取らされ最終的に羽太正養は処分を受けることになる・・・。


続く !




北海道を創ったDreamer「依田勉三」第二部

2019年02月06日 | 歴史コラム
(前回までのあらすじ)
伊豆半島の漁村 松崎町から夢を抱き「晩成社」造り、志を抱き北海道へ渡って来たベンゾウだったが、もともと体は丈夫ではなかった。

当時の政府には大きな資金はなく、開墾したものは早もの勝ちで所有して良い、つまり自分で何とかしてくれ。
と言わば開墾開拓民頼みの政策だった。

勉三はアイヌと仲良く融けあい相手を尊重し縄張りを侵すことなく開墾を進めていった・・・・。


(2部)
そういった環境を整えると勉三は、明治30年に自らの社有地を夢を抱き来る開墾移民者に解放すると、大勢の移民が殺到した !

そして、バター工場、練乳工場、缶詰工場と規模を拡大して行き帯広、北海道の先駆者として酪農的な基幹産業を次々と構築していった。

しかし「晩成合資会社」の経営内容としては上手くはいってはいなかった。

折しも勉三は中風にかかり、それを寝ずに看病していた妻のリクが先に亡くなってしまった。


そして、依田勉三も12月12日に帯広の自宅でついに息を引き取ったのです・・・。



勉三はその死の間際に「晩成社には何も残らなかった。しかし十勝野 に は・・・・・」と述懐しながら

12月12日に帯広の自宅で息を引き取りました。



昭和16年十勝野・帯広には彼の銅像が建立された、しかし、終盤の大東亜戦争において銅を必要とする政策で国へ没収された。


十勝野の大樹町には、勉三が当縁村 生花苗で住んだ住居が復元され「依田勉三翁住居」として

大樹町の史跡の一つになっています。


北海道、大樹町におよりの節は明治の開拓の楚となった。「依田勉三」を偲んで頂きたい・・・・・。







北海道を創った Dreamer「依田 勉三」第一部

2019年02月05日 | 歴史コラム
「おちぶれた極度か豚と ひとつ鍋」と詠むと勉三は毅然として 「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」と詠んだ・・・

1853年6月 彼は賀茂郡 松崎町で生まれた。

三男であるが次男が幼くして亡くなり、12歳の時母が亡くなり後を追うように14歳の時にも父が死去し、兄の佐ニ平が後を継ぐ。

19歳の時スコットランドの宣教師の英学塾に習いその後、慶應義塾へ進む。

慶應義塾では福沢諭吉の影響もあり、北海道へ渡る志を立てた。



明治12年 従妹のリクと結婚し、夢は北海道へ飛び開拓開墾の意図で「晩成社」を立ち上げる。

そして、勉三は政府から未開地 一万町歩を無償で払い下げ開墾するべく北海道へ渡ったのである !



その頃、帯広の平陵地帯には、アイヌが10戸と和人が1戸あるのみだった。

明治16年4月には、後続の開墾民 13戸27人が横浜港からやって来た。

その開墾年はイナゴの大群、鹿猟の追い火からの野火に襲われたり、天候の不順もあり目標の一万町歩の開墾は進まず10年で30町歩の有様だった。

食料用としてアワを蒔き付けするが、ネズミ、ウサギ、鳥の被害に遭いそれもほとんど収穫できなかった。

食事は客人が、豚の餌と勘違いするほどの粗末なもので、「おちぶれた極度か豚とひとつ鍋」と詠むと勉三は毅然として「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」と読み返した。

それでも社名を「晩成合資会社」と改めて心機一転、開拓へ夢を託し続けるうちに函館に牛肉店を、札幌町の近郊の当別村に畜産会社を作る。

そして帯広には木工工場を作り、現・音更には牧場を開いた。


続く・・・

北海道を創った Dreamer 「永野重雄」

2019年02月04日 | 歴史コラム
室蘭は鉄の街それは 彼が来たから・・・Dream・・

1900年7月 島根県 松江市で生まれる。成長期は広島県で過ごす。

お寺の息子だった彼は第六学校で、柔道に専念しワンパクで通り、学業は東大法学部に進む。

就職は一社を経て兄の口利きで、倒産した会社・富士製鋼の支配人兼工場長となり、この会社を再建させる。

しかし、数年後の世界大恐慌で、再建したばかりのこの会社は再度倒産寸前に陥り、追いかけられる暮らしが何年も続く。

当時、石川島飛行機の社長とバーター方式で、上手く成功をおさめることが出来、その後にやってくる相場の急騰で大きな利益を上げ、追いかけられていた安田銀行に借金を返し担保に抑えられていた会社の権利を復活させることが出来た。

そして、1934年の製鉄大号令で富士製鋼が日本製鉄に統合され、彼は日本製鉄富士製鋼の室蘭の北海道支部長になった。

その後10年もしないうちに大東亜戦争が始まり、軍需産業を司り、巨大な工場を要する軍港室蘭一帯はアメリカ艦船に囲まれ、艦砲射撃と空からの爆撃・機銃掃射で電線に止まるカラスのように人間があっち・こっちにぶら下がるほど痛めつけられた。



終戦は小樽市・銭函にいて玉音放送で知った。

戦後すぐにはGHQ の「過度経済力集中排除法」の適用指定会社となり統合されていた日本製鉄富士製鋼は
八幡製鉄と富士製鉄(室蘭市)へと二分された。

そして彼は北海道の「富士製鉄所」の社長に就任する。

数年後から戦後の復興の機運が高まりやがて、永野の鉄の知識は業界を牽引し学者等、知識人の協力も得て日本は世界一の鉄鋼生産国になった。

時はたちその2つの会社は合併し「新日鉄製鋼」となり、その会長に推挙される。

また、様々な経済模様のフィクサーとして経済界で名を知らぬものがいない程の力を誇示してきたが、現役を追行しながら84歳で戦死しました。

戦後の日本の急激な成長は鉄が基本で未来を見つめこの先、薄い製鉄技術が必要と知るといち早く技術者を向かい入れ、それは車の軽量ボディー等に使われ、北海道だけではなく底から日本経済を支えた偉大な人だったのです。

北海道を創った Dreamer 「島 義勇」

2019年02月03日 | 歴史コラム
やがて彼は江頭新平と共に「佐賀の乱」を起こすが・・・・

1822年 佐賀藩氏の長男として(ヨシタケ) 生まれる。

弘道館に学び、諸国を遊学する。

ある時、藩主の命で、箱館奉行の堀氏の近習となりそして、1856年から樺太・蝦夷地を探検・調査し「入北記」と云う記録を後進の為に残した。

やがて新政府において藩主・直正が蝦夷開拓督務になると彼は蝦夷地に通じているとのことで蝦夷開拓御用掛に任命され、同年1869年7月に北海道開拓使官に就任した。

そして、小樽・銭函に開拓使仮役所を開設し何もない札幌原野を本府と決め着手。
都市計画は京都などの碁盤の目を採用し効率の良い整然とした町並みを目指し「五州一の都」・世界一の都を創ろうと夢を託した !

ところが南国の者達が極寒の雪国で、労力を投入し困難を経験する他、多額の費用が発生し、西部13群から集まる請負人へ開拓費用を負担させるか否か、開発長官の東久世通禧との間で予算をめぐり衝突し、志し半ばで開拓職を解任された。

・・・・・

島は帰京し直ぐに大学少監に昇任し、明治5年には秋田県の初代知事となり、八郎潟海塩湖を干拓する案を出し、竣工し始めるも1872年に定年と思しき年齢50歳で退官となる。



郷里に戻り、明治5年佐賀で憂国党代表に担がれるが、新米政府から湧き出る数々の理不尽な強硬策に士族の不平不満が爆発し、江藤新平に同調し「佐賀の乱」に加わる。

しかし、追われる身となり島津藩の島津久光を頼るが受け入れてはもらえず大久保利通の命により、4月13日に
斬罪梟首となってこの世を去った。



それから月日が経ち、明治22年「大赦令」により大正5年に生前の勲位に対し従四位を送られた。

現在、札幌市役所と北海道神宮に顕彰銅像、円山公園に島義勇の碑が建てられ、今でも毎年北海道神宮で、命日には慰霊祭が催されています。

北海道を創ったドリーマー 「和田郁次郎」

2019年02月01日 | 歴史コラム
1847年7月 郁次郎は広島(南区)に生まれた。

彼は体が大きく、力もあり大きな夢を持っていた。

家督を相続しこの土地に暮らしていて何ら、不都合は無いのだが、大きな志しがありました。

それはまだ開拓しきってはいない未開の地、北海道へ渡ることだった !

当時、広島県としては、先発隊の「根室地区」への入植がうまく行かずそれには反対の立場を取っていた。

それは根室入植で失敗し中数人の病死者を出していたからだった。

しかし和田郁次郎の気持ちは何が何でも北海道へ渡りたいと強い意志を持ち、様子を見に2度北海道へ渡り、札幌村近くの月寒地区や野幌原野、熊・狼の出る輪厚(ワッツ)川筋を拓き新天地を開拓する決意をした!



当時は車はなく札幌町と月寒(北広島市)を牛馬で何往復もしなくてはならない、冬にはブリザードの中過酷な日々が続いた。

特に入植の年は大凶作で収入が入らず、とても大変だったが、徐々に安定に乗せ、この地区に村らしきものを作った。

長官は喜び「和田村」と名付けようとしたが、彼は大反対し仲間でみんなで開墾したんだとこの地を
「広島村にしょう」とつげたのです・・・。

そして、郁次郎を慕い同じ広島県から第二入植隊、第三入植隊と続き、土地勘のある郁次郎は可能性のある所を次々と紹介していった。

旭川へ行く国道の中の「奈井江町」札幌町の「穏やかな平稜地、西野地区」「大滝村」「手稲・星置」函館近くの「旧大野村」「北見市留辺蕊町」を勧め広島県から、どんどん移住者が集まり北海道の一部を形成していった。

「アメリカ合衆国」が元々いろんな国からの開拓民がタッグを組み「ユーロ圏」のような大きな国を形成したように北海道は全国の県から勇気ある方達の尽力により北海道合衆国と呼べるような広大な大地を彼らは用意してくれたのである。

その5本の指に入るのが「和田郁次郎」です。

彼は郵便局長・村長を経て日本全国の長者番付に顔を出すほどの林業の実業家としても成功を治めた偉人であります。

こういった開拓者がいて 今があるのです。

僕たちは、彼らドリーマーに感謝しなくてはならない。

北海道を創ったドリーマー「京極高徳」

2019年01月31日 | 歴史コラム
(このシリーズは歴史小説的であり史実に 忠実とはいえません)

丸亀藩:
四国の丸亀藩は播磨藩より讃岐国への入封があり讃岐丸亀藩となった。

その主家として「京極高徳」が明治時代から昭和初期に生き、華族の子爵として貴族議員をすることになる。

彼は北海道の羊蹄山を望む広大な倶知安村の東寄りワッカタサップ番外地へ移住し農場を営みながら土地を開拓
する決意をした。

息子の京極高修は京都帝国へ行きのちに父と同じく貴族議員として勤めることになる。



京極は水の綺麗な所で「名水の郷・きょうごく」として遠路から名水を汲みに訪れる人が多い。


平成の京極家の詳細は分かりかねるが、孫の「高晴」氏は19歳でお亡くなりになっており、農場の引き継ぎはわからない・・。

しかし高徳子爵が、この京極町の礎になったことは間違いなく、その通りのちに多大な功績を残した「京極高徳」氏の名を拝借し「京極町」として東倶知安村から分村し今この名称になったのです。


(道順)
札幌からとしますと、定山渓を過ぎ中山峠で一山越えると間も無く「蝦夷富士」羊蹄山が壮言な佇まいを見せてくれる!

喜茂別町・留寿都村・真狩村・ニセコ町・倶知安町・京極町がこの富士を大事に包む混む。

あぁ きっと京極氏も「お気に入り」の番外地として此処に移住することを決意し農場を開墾し北海道の一躍を担ってくれたのでしょう・・。

そういった開拓者がいてこそ今があるのです。


僕たちは、ドリーマーに感謝しなくてはならない。

12月24日(月)のつぶやき

2018年12月25日 | 歴史コラム

12月23日(日)のつぶやき

2018年12月24日 | 歴史コラム

12月22日(土)のつぶやき

2018年12月23日 | 歴史コラム

12月21日(金)のつぶやき

2018年12月22日 | 歴史コラム

12月20日(木)のつぶやき

2018年12月21日 | 歴史コラム

12月19日(水)のつぶやき

2018年12月20日 | 歴史コラム