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北海道を創った Dreamer 「島 義勇」

2019年02月03日 | 歴史コラム
やがて彼は江頭新平と共に「佐賀の乱」を起こすが・・・・

1822年 佐賀藩氏の長男として(ヨシタケ) 生まれる。

弘道館に学び、諸国を遊学する。

ある時、藩主の命で、箱館奉行の堀氏の近習となりそして、1856年から樺太・蝦夷地を探検・調査し「入北記」と云う記録を後進の為に残した。

やがて新政府において藩主・直正が蝦夷開拓督務になると彼は蝦夷地に通じているとのことで蝦夷開拓御用掛に任命され、同年1869年7月に北海道開拓使官に就任した。

そして、小樽・銭函に開拓使仮役所を開設し何もない札幌原野を本府と決め着手。
都市計画は京都などの碁盤の目を採用し効率の良い整然とした町並みを目指し「五州一の都」・世界一の都を創ろうと夢を託した !

ところが南国の者達が極寒の雪国で、労力を投入し困難を経験する他、多額の費用が発生し、西部13群から集まる請負人へ開拓費用を負担させるか否か、開発長官の東久世通禧との間で予算をめぐり衝突し、志し半ばで開拓職を解任された。

・・・・・

島は帰京し直ぐに大学少監に昇任し、明治5年には秋田県の初代知事となり、八郎潟海塩湖を干拓する案を出し、竣工し始めるも1872年に定年と思しき年齢50歳で退官となる。



郷里に戻り、明治5年佐賀で憂国党代表に担がれるが、新米政府から湧き出る数々の理不尽な強硬策に士族の不平不満が爆発し、江藤新平に同調し「佐賀の乱」に加わる。

しかし、追われる身となり島津藩の島津久光を頼るが受け入れてはもらえず大久保利通の命により、4月13日に
斬罪梟首となってこの世を去った。



それから月日が経ち、明治22年「大赦令」により大正5年に生前の勲位に対し従四位を送られた。

現在、札幌市役所と北海道神宮に顕彰銅像、円山公園に島義勇の碑が建てられ、今でも毎年北海道神宮で、命日には慰霊祭が催されています。


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