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世界中が気がついていない

2019年08月07日 | 歴史コラム

世界中が気がついていない



この暑さを温暖化現象だと思い込むのは 大変な間違いである。


この現象は氷河期が近づいている時の一過性の異常気象であり


温暖化を危惧するのではなく、むしろ地球の地軸が定期的にずれて起こる


地球の変化の一つなのである。


ですから今、地球人が行動することは温暖化を防ぐ様な事ではなく、せまりくる地球寒冷化による対策を、


そろそろ始めなくてはならない。


それには日本人の英知が必要で、彼らなら必ずやってくれると信じる。


ですから互いに罵り合い、領土を奪う云うな愚かな行動にエネルギーを費やすのではなく、


この青いかけがえのない地球を今の現在の世界中の人類の力によって救い、次世代の人類へバトンを


繋げなくてはならないのです。


今こうして我々第四世代の人類が生きていられるのは「賢者」がいたからであり、今ふたたびその「賢者」の


生誕を待たなくてはならない。


・・・・ 


この危機の様相は三段階になっており


1️⃣ 最初はもう始まっている異常気象が、さらに酷くなってくる


2️⃣ 赤道付近の高地を除き世界中の85%が氷河期で覆われる


3️⃣ 数百年後、地軸が元に戻り始め今度は急激な温暖気候になり始め世界中で大変な雪解けが始まり


とんでもない大洪水が始まる


(現に日本のアルプスの頂上付近からも海底の化石が見つかっているのです。かつてここは海の底だった証拠である)



これらをやり過ごすには


人類が住める星を見つけ地球外へ逃げ出す


高地にて巨大シェルターを建造しそれを押し寄せる大洪水に耐えられる様に設置するか


箱舟の様に大波に飲み込まれない様に球体の巨大な船を何十隻も建造する。


一隻に数十万人のれる様な規模で、その中は自給自足が出来て、何世代も生き続けられるようでなければならない


さらに巨大宇宙ステーションを世界規模で建造し、地球の側で氷河期と大洪水を上から見ながらやり過ごす。


これらの事を世界人類がもう始めなくてはならない


確かに今の人類のほとんどの命は問題ないであろう


しかし、何世代後か200年後辺りから氷河期前段階の異常気象はとんでもないことになる。


子孫へ地球人を繋げて行くため我々が、もう動き始めなくてはならないのです。


それは地球温暖化の会合ではなく、南極探検のデーターを研究し地球の危機に対し対処するための


世界規模の会議を行わなくてはならない。



それはダボス会議ではない。





おいちゃんSF 第1案 「不沈船の建造」

2019年07月04日 | 歴史コラム

人類は生き残れないだろう


でも、でき得る限りのことを祖先に向けもう、始めておかなくてはならない。


5,000万人から1億人を乗せられる不沈船を今から、世界規模で建造を始めるのだ。


完成までに100年以上かかろうとも。


人間用と動物・植物用をとりあえず最低合計4船は建造する。


それに乗り異常気象で荒れ狂う海を不沈でやり過ごし世代を超えあとの人類に繋げるのだ。



現在は、間氷期であるが、それも もう終盤に差し掛かっている。


これは地球の地軸が定期的にずれて起こるもので、その遊びで気候は大幅に影響を受け第六期


の氷河期が到来する。


現在、隠密に進められている「人口削減計画」も「地球温暖化」と云うフェイク情報もこの事が発端である。


でも、人をじわじわ殺すのではなく、これ以上増えないように子は一人までと全世界で話し合い、不沈船に乗せられる人口を絞る必要があります。


もう一つ、不沈船建造の「ノウハウ・技術」を確かなものにして後世へリレーして行かなければならない。


最低何千万人が、その中で数百年間も浮遊し続けても支障ないように色々な自給自足や様々な生活の検証を構築しておくべきなのです。


・・・


明らかに この異常気象は、第六氷河期の前触れなのです。


早ければ1,000年以内から数百年以内に危機が訪れてもおかしくはないのです。


世界でどうするかを市民代表も入れ話し合わなければならない。


計測によると地球の60%が100メートルも氷雪で埋もれるが、東南アシアのラオス、ミヤンマー、タイ近辺の山脈地帯は北極からの冷気・氷河を山脈でブロック出来て地表が出ているであろう。


また、そろそろ200年前後には、寒冷化でもう都会には住めず赤道直下に人類が移動するであろう。


かつて絶滅した人類、ネアンデルタール人がアフリカを目指したように


今のうちに赤道付近のアジアに大規模な居住の拠点を造って置かなくてはならない。


氷河期が1万年から6万年続いた後は今度は、


解氷期の到来で超巨大洪水などにより山頂以外80%は水の下となり人類のほとんどが海の下に沈むのです。


・・・


(続く~)



おいちゃんSF 「消えた日本民族」

2019年07月01日 | 歴史コラム

メタンハイドレートの掘削をすると・・



これはタイムマシンに乗って見てきたことを綴るものです。


今から1万年前に、既に日本列島には人が住んでいました。


彼らは宇宙人と交信しアドバイスも受け、何千年以上も一世を風靡して、かなりの繁栄を築きました。


しかし日本列島にも地殻変動や氷河期が到来し99%の民と建造物は海の底へ深く沈んでしまったのです。


沖縄にある海底の階段状の建造物はその名残です。


アイヌ以前にかなり古くから残る遺跡は今から1万年前から2万年前に栄えた、かなり文化の高い日本列島の民族の証しなのです。


重機もない時代に大掛かりな8階建ての高さの木造の祭祀的な建造物の痕跡も残っております。


我ら日本民族は法律に縛られることなく、一万年以上 平和に暮らしていましたが、あちらこちらで起こる火山噴火などの異常気象に見舞われ、この日本民族は一旦リセットされるが如く消え去ったのです。


・・・


その後、一万年以上の月日が流れた・・・。



今から四千年前から氷河期が沈静化しだし、温暖となり始め流氷がまだ樺太と、稚内が繋がっている時代、冬季にオホーツク人が、さらにアイヌが鎌倉時代前から日本へ移住して来ました。



蝦夷から東北と南下しその地に住み付いたのです。


ある程度、馬が互いに交差できるほどの道幅、広場は既にありました。


アイヌ民族は縄文時代の先住民族跡を利用し海、湖、そして鮭の遡上する河の近くに


次々とを形成したのです。


ですから和人が、蝦夷に来てある程度アイヌが、開拓の基礎を作っておいてくれた訳ではありません。


文字を使う習慣はなくそこまで幾何学的な数式で、割り振りをし大規模建築は出来ません。


日本は既に一度開かれてあったのです。



きっと、徹底的に海底をメタンハイドレート等の地質調査を本格的に繰り返す事により


1万年、2万年前の当時としてはありえないような遺物が出て来るでしょう。



本当にタイムマシンで見て来たのかもしれないぞ・・・・




おいちゃん


北海道を創ったDreamer 最終回 「阿部比羅夫」

2019年06月28日 | 歴史コラム
この将軍の生誕と死没は分からない


ただ、阿部比羅夫がいなかったら、北海道は粛慎の領土になっていたかも知れないのだ・・・


比羅夫は飛鳥時代、斉明天皇に使え、今の新潟、越國の豪族だった。


当時、東北地方と、蝦夷地には温厚なアイヌ人、オホーツク人が平和に暮らしていたが、


樺太や満州の東部から船に乗りよく粛慎(みしはせ)が、進出して来る様になっていた。


彼らは大柄でアイヌから赤鬼と呼ばれ恐れられていた。


勝手に住み付き始めた粛慎に対し斉明天皇は自ら658年に、将軍 阿部比羅夫を従え水軍180隻を率いて蝦夷を討ちに向かった !


そして、ツングース系民族の粛慎を今の函館から石狩の間で徐々に追い詰めほぼ討伐に成功した。



その地のアイヌは阿倍比羅夫を尊敬し後方羊蹄(今のニセコの山々)を比羅夫と呼んだ。


全ての粛慎やアイヌを平定させる為に何度か比羅夫はその後も遠征し続々と降伏し従わせて、


恩荷を行い、津軽二郡も郡領に定め渡島の蝦夷人を饗応した。


彼らアイヌからは生きたヒグマ2頭、ヒグマの皮70枚の献上を受ける。


659年には再度、蝦夷を討ち241人と逆らう捕虜31人そして、胆振地区の蝦夷20人の協力者20名を集めて饗応し禄を与える。


当時の現状は粛慎から生活を脅かされ攻められ強い和人に助けを求めて来たアイヌ人が多かった。



阿倍比羅夫はしつこく居座る粛慎を追い、遂に樺太まで追い詰めその際、直属の能登馬身龍が戦死するもこれを打ち破った。


・・・


しばしの時は流れ


662


天皇と縁戚にあたる朝鮮半島の百済王から和国へ救援要請があり、阿部比羅夫はその大規模な


「白村江の戦い」へ向かうが、圧倒的な数の唐と新羅の連合軍に大敗した。



これにより百済の再興はならなかったが、比羅夫がその時の戦いで戦死したのか


人生を往生したかは歴史だけが知っている・・・。



北海道を創ったDreamer 「尾崎 豊」

2019年06月27日 | 歴史コラム

1919 札幌からおよそ80キロメートル離れた月形町で産まれる。


小学は初山別村尋常小学校で、1938年に弟子屈産業組合に勤務し、1956年には中標津町の第三代目 首長として中標津町の発展に貢献する。


この地には大東亜戦争時に計根別と中標津に、軍用飛行場が建設されソ連・米国等の脅威に備え北海道北方の国防に中標津町は一役かっていた。


しかし、大東亜戦争の終盤には2箇所とも米軍の空襲に遭い、その後も


十勝沖地震、等もあり空港は荒れ果てて放置されたままだった。



それを政治家の尾崎氏が尽力し中標津空港を民間用としてリニューアルさせた。


国後墓参はこの空港から現在発着している。


他にこの辺一帯に手を付け中標津自動車学校、開陽台を名付け従六位勲五等双光5旭章を授与されています。



元々この地には縄文時代中期から既に人が住んでいて遺跡やチャシ跡*が、多数発掘されています。


その後アイヌが後続として住むようになり1901年に内地から移住者が増えたが、大正から昭和初期にかけてイナゴの大襲来、冷害、凶作そして世界規模の経済不況となり中でも1932年の大凶作は開拓農民に大打撃を与えた。


そこで政府は穀物から畜産を主体とする農業へと転換を計り


今では日本有数の畜産の広大な農業地帯として発展を遂げた。


一方、三代目町長の豊氏は1970年に退任し、1979年の2月にお亡くなりになりました。




*チャシ跡古代人のお城に当たる砦、祭祀場、見張り台用の柵囲いのような中規模の建築跡


根室半島 海沿に本格的なチャシ跡があります。


北海道を創った Dreamer 「藤野喜兵衛」

2019年06月26日 | 歴史コラム

明和7年、藤野喜兵衛は、近江で産まれる。


やがて、蝦夷地へ商人の夢を求め渡り、それから10代続く「藤野喜兵衛ブランド」を築くこととなる。



1812年に2代目を娘婿に襲名させ、彼は藤野場所の全盛時代を築く。


当時「網走場所」には、約2万年前からアイヌとは別種のオホーツク人が、この地帯に文化を形成していて、網走場所には、その中の「ニブウ人」の子孫が生活を営んでいた。


刺激せず、藤野一族はニブウ人に道案内をさせ、漁法や畑を教え互いに争いのない様に暮らしていた。


やがて、網走右岸に弁天社を創設する。


彼らの繁栄の礎は松前の福山にあったが、6代目の藤野喜兵衛こと宮部与作


の時に箱館へ柏屋本店を移した。



そして時代は変遷し明治新政府の体制に代わり「場所請負制」は廃止されてしまった。


しかしオホーツク沿岸での交易事業と物産は続けることにした。



そして1884年、箱館店は北海道営業所となり10代目の藤野喜兵衛が、直接管理することになって、この代で10代続けた藤野名義は廃止された。



他に一族は別海町にも藤野缶詰工場を経営するなどして北海道初期の経済発展に多大な


貢献をしてくれました。




・・・・






このシリーズは、あと2回ほどで終了させて頂きます。






支配者 第一章 「菌」 ①

2019年05月16日 | 歴史コラム
かつてこの世界はある支配者のものだった・・・・それは地球外生命体「RNA」を根源とするのだ

まだ地球が地球として成り立っていない時
もう彼らは、来ていた
それは、人間のような大きな生命体ではなく
ナノ人
育種もの生命体が繁殖し、地球が落ち着いた頃から
何億年もこの青い地球を一時期支配していたのだ
彼らの食事は体から「酵素」を出し、相手を溶かし、自分の体はすべての食べるための口(養分を吸い込む)でちょうど人が軟膏を皮膚に塗ったら次第に体内に浸潤して行くような食事法で栄養を蓄える。
たらふく食うと一定時期から一気に細胞分裂して繁殖する。

動物とも、植物とも違い、判定し難く人間側からしてみれば、味方でもあり、敵でもある。
種族により違うのです。
彼らは人間の中奇生し大概6割位の「ナノ人」は良いことをする。
しかし抗生物質に弱い
それを入れられると弱体化し死んでしまいそれはつまり人にとって致命的で、体の中のバランスを崩し、病気を炎上させることもあるのだ


次回は同じ仲間でも嫌われ役のRNA
「白癬菌」です。

北海道dreamer「稲田邦植・稲田侍達の苦悩」

2019年04月18日 | 歴史コラム
安政2年11月18日(1855年)

徳島藩、14代当主、植誠の養子となり、やがて養父が亡くなり11歳で、家督を継ぐ



鳥羽、伏見の戦いでは新政府軍に帰順し、高松藩の征伐、親王の護衛の任を務めも、徳島藩の裁可を得たものでなかったため、新政府によく思われず、さらに明治維新の後の身分の変更に異議を持つ蜂須賀武士が稲田家へ襲撃する庚午事変(稲田騒動)を契機として兵庫県の貫属となってしまう。

政府は両氏を離した方が良いとの思惑か

それから10月に稲田家は蝦夷地の色丹島と静内群を賜り開拓を命じられる。

その際、殿は残り先発隊として稲田家臣が、 1871年に汽船三隻で蝦夷地へ上陸したが、まだ雪の残る荒涼とした地の果てに一行はどうしたものか途方に暮れる。

ここでどうやって住むのだ…。

まず、原野に道を作るため刀を鍬に変え袴を汚れないようにめくり上げた。

そうするとブヨに刺され血を流しながら開墾に励んだのだった。

一行の荷物は「静内場所」と言う港の詰所のようなところに一時置かせてもらっていたが、そこが火事で全焼し持参した、米、農具、ねぐらもほとんどが燃え尽きてしまい。

温暖な暖かいところに慣れていた稲田侍たちはこの北の地で途方に暮れる。

だが、殿を向かい入れる為にある程度の農地と道路を開拓するため眠る間もなく働いた・・。


しかし、世の情勢が変わり 7月に「廃藩置県」が発令され、箱藩(松前藩)を除き、北海道全域が中央の北海道開拓使の管轄下となる。

家老他の家臣達・侍の身分は剥奪され稲田家のここまでの努力の末の所有権は全くなくなってしまった。

彼らは唯の開拓貫属の立場となる。

それでも稲田侍たちはがんばり、ついに明治5年に稲田邸(簡易的なお城)が完成し、 1873年に邦植は家族とともに静内郡へ移住した。

それから、時が経ち、1877年に西南戦争が起こり邦植は予備少尉の任を受け東京へ出陣する。

1879年、陸軍少尉となり札幌にしばらく在勤となったため静内の土地、邸宅を弟の邦衛に譲った。

月日が流れ、1年も早く感じる・・・

さらに時が経ち

邦植は老いて徳島県へ引退した。

墓標は洲本市の江国寺に眠る。



(あとがき)

事実と映画は多少異なるが、稲田侍である家臣達の努力は相当なもので、侍の意地と誇りの狭間で、プライドは捨てきれなかった。

それでも新しいこの地で生きて行かねばならない男の悲しみ、

その背中に夢と希望だけを頼りについていくしかなかった

妻たちの苦悩と壮絶な人生が、この地にありその末裔達はこの気候は競走馬の生育に適していると考え

数々のサラブレッドの生誕地と発展して行きました。

それでも頑張らなくてはないと云う侍の工夫が150年前の


「新ひだか町、旧静内町」にあったのです。



ナウちゃん オムイを通る

2019年04月11日 | 歴史コラム
はるか昔

ナウちゃん(ナウマン象のおちびちゃん)もこの辺一帯のオホーツク海岸を流氷に乗って、通った。


ここはオホーツク人の暮らしの跡


シベリアから強く吹く暴風はいつの間にか河口を塞いでしまった。





それから2000年

・・・・・・・



蝦夷地を冒険・開拓する内地の倭人は道案内するアイヌからこの地を「オムイ」と呼んでいると云う。

あぅぅオムイ・オムイ

塞がっちまったぞ・川が止まったぞぃ・・・



オホーツク人の末裔とアイヌが混血し純粋なホーツク人はいなくなった。

開拓一行はこの地を「雄武村」と名ずける。

それは1870年の頃だった・・



近くの幌内村と沢木村は合併しこの辺一帯を「宗谷場所」とする。





現在では「ナウちゃん」も旧忠類村でミイラとなり

ナウマンファミリー達が追われ、かつて通ったこの地は

その後

オホーツク人~アイヌ人の造りの跡


漁業・酪農・畜産・林業の街となり

沿岸ではホタテ、鮭、カニなどがよく獲れるのです。





道の駅もあるので、氷河期から縄文時代に思いを馳せナウちゃんと車中泊でも楽しんでやってください。


早朝にはオホーツクの海がオレンジ色に染まって・・



ホラ

耳をすましてごらん



ナウちゃんが鳴いてるよ・・・。

北海道を創ったDreamer「村山伝兵衞の系譜」後編

2019年03月13日 | 歴史コラム
春になると、大きな川を大量の木々が運ばれていく風景が、かつてはあった・・・・


◆ 村山伝兵衛 三代目から六代目へ ◆

当時の林業は冬季のうちに大木を伐採し1月2月までには段取りを決めておき、春の雪解けの増量した川の流れを利用し下流域へ集めては巨大な、いかだを組んで行く・・・そんな風景だったのだ。


村山氏たち豪商のやり方は往路で蝦夷地の昆布・毛蟹・シャケ等の海産物・毛皮・ヒノキに匹敵する美しい木目の材木を江戸・大阪へ運びそして、復路を大阪等から仕入れた酒・米・生活物資を蝦夷地へ持ち込み商う方法だった。

こうして村山伝兵衛他の豪商たちも利を蓄えていった。

同時期のライバル飛騨屋久兵衛の元々のスタンスは、海の村山に対し山の飛騨屋だったが、先のクナシリ・メナシ(知床の羅臼町)の戦いの戦後処理を幕府が進めるうちに、

アイヌ娘への拉致・強姦、食事をほとんど与えずに働かせ餓死者も出ていた横暴ぶりが明らかになり、海にも進出しだしていた飛騨屋は財産没収、

陸奥国の本拠地も含め地元へ賠償金を課され撤退せざるを得なくなって帰っていった。



その後、海彦だった伝兵衛へは山林の伐採業も命じられ、さらに六代目の伝兵衛の頃には土木、小樽銭函と千歳を結ぶ現在の国道5号線・弾丸道路36号線の道路開発事業の請負も任された。

それから日本海沿岸のゴキビル(濃昼)山道や増毛山道も切り開き交通インフラの整備に本格的に乗り出して行くようになっていった。



明治中期の大々的な北海道入植事業が始まる遥か100年前からアイヌと協力し合い人の手で開拓の基礎は既に築いていたことになる。

一方
松前藩の遊女を江戸から呼び寄せ多大な借入金を豪商からして返せず裏取引をしていた実態、

その他のイギリス・ロシアの通商交渉など幕府は色々なこともありこの島を藩一つには任せておけない。と

幕府直轄領とする。

そんな危急の状況の中、幕府にとって「場所請負商人」たちは使い勝手の良い駒だった。

伝兵衛たち豪商は主要原産地のほとんどに拠点を持っており、漁業や林業・治安維持対策・災害・疫病対策にも長けていた。一つの政府と言っても良いだろう。

彼らは北海道の経済的支配者であり、本格的な明治政府の入植事業は村山・飛騨屋たち豪商がいなければ頓挫していたであろう。

そんな有数の戦国大名のくらいに位置する程の功績を持つ豪商の財力を当時の政府は歴史から消えさせて財産を横取りしたのである。

当然そのことに歴史書は触れないで、素通りして行くのである。

これから真実が明らかになって行くであろう・・・・



追記:現在 その村山家の子孫十代目の方が石狩に住んでおられる。

北海道を創ったDreamer「村山伝兵衞の系譜」前編

2019年03月11日 | 歴史コラム
1683年 村山 伝兵衞は能登国 羽笮郡 安倍屋村にて生まれた。

それから月日は過ぎ、渡島半島の松前藩に阿部屋の伝手を助け舟に伝兵衞は初めて蝦夷地へやって来る・・・・まだ十代だった。



藩士 工藤八郎右衞門の宅に居候させてもらいながら徐々に商人の真似事を覚えて行く。

そして当時松前に住むには この地の住民と縁戚になる必要があり、伝兵衞は松前藩の専属船頭である古谷勘左衛門の家に娘と養子の形で婿に入り、それから松前城下に店を開いた。

所有する船は増えて行き10隻程となり域を延ばし宗谷・苫前・留萌・石狩などの藩主直領の「場所」・強い権威のある漁場・港の権利、の経営も任されるようになる。

現地のアイヌには効率的な漁法を教え尊敬されていた。

・・・・・

時は流れ

偉大な一代目は亡くなる。

その「場所」の権利を二台目「村山理兵衞」から「村山伝兵衞こと兵右衛門」が、祖父の死後に引き継ぎ、やがては昭和年鑑に石狩場所を設けるまでになる。

1778年には増毛場所も請負、遂に三代目の伝兵衞の代で苗字と帯刀を許される。

1782年には町年寄と町奉行下代役を兼任し、長崎俵物買付取締役までも務める。

これもあれも偉大な先代の名声から繋いで出来上がったことである。



ある時大変なことが・・・

1789年のアイヌの蜂起「クナシリ・メシナの戦い」で、東蝦夷地の「場所」を請け負っていた飛騨屋久兵衛は罷免され、9月に実務を伝兵衞に任されることになる。

この状況はアイヌが戦いに敗れ、悲惨な状態にあり、この時の喫緊の業務は困窮するアイヌへの救援の輸送を厳冬の中で行う冬の海の危険な行為であり、伝兵衞は辞退しょうと話しかけた。

しかし、許されなかった !

だが、この気持ちを伝兵衞は反転させるべく胆力を出し、ピンチにチャンスありとばかりに、飛騨屋の後釜へ収まる気持ちで積極的に乗り出した。



戦後の混乱を巧みに収めた伝兵衞は1790年、藩令により、樺太の「場所」開発に船を派遣することができるようになる。

さらに、知床・斜里場所の実権をも握り「日本長者鑑」に日本国内長者番付で、西の鴻池善右衛門と並ぶ東の横綱と称されるまでになっていった。


続く・・・・

北海道 Dreamer 旭川市を創った軍人「永山武四郎」

2019年02月18日 | 歴史コラム
1837年薩摩国 西田村の鹿児島藩士の四男として生まれる。

そして、この子は親類の永山喜八郎の養子となる・・・。

武士の武四郎は戊辰戦争に従軍し、明治維新後の明治4年に陸軍大尉・2番大隊付に任命される。

そして、明治5年から蝦夷地の開拓使に移り、北海道を開拓する屯田兵の大隊長として指揮をとるも、故郷 九州で士族の乱が起こり命令で鎮圧に従軍することになる。

戦から帰還して屯田兵の大佐となり、1年間の欧米視察・出張をへて明治21年若くして北海道長官に就任する。
2代目である。



永山氏は北海道内陸部の開発に夢をはせ上川のこの地に京都・東京いや「北京」を創る構想を持って政府に働きかけていた。

ところが反対も出始めており、そんな中、上川(旭川)に離宮を設ける案に対しては、明治天皇も裁可し、宮内庁を経て閣議決定され、この地は御料地に指定される !

話題は広まり次々と永山村・旭村・神居村が開村し、北海道中心部への入植者は一気に増加してきたが、この「北京」都市計画建設に反対する意見が札幌・小樽から上がりさらに、日清戦争が始まり計画は頓挫してしまった。

月日が経ちそれからも永山氏は出世し、最後には陸軍中将となる。

1900年まで旭川市等で勤め、やがて定年となり退役するに至る。

1903年11月から貴族勅撰議員を務めるが、1904年に、議会出席のため上京する途中で倒れ、5月27日に死去しました。



ロシアから北海道を守り生涯防人を指揮し、開拓した功績は大きく親しい者たちに自分が死んだら「我が体躯は北海道に埋めよ。

必ずや彼の地をロシアから守らん」と述べていた。

その遺言により、ご遺体は札幌市豊平墓地に葬られた。のちには近代的な里塚霊園に改葬される。

現役時代は屯田兵を掌握し軍部内で大きな勢力だったが、本人には政治的野心はなく、終生北海道を案じ、その身を捧げた武人でした。

北海道を創ったDreamer 「最上徳内」後編

2019年02月16日 | 歴史コラム
10月には本州へ最上徳内は戻るが、この年にロシアのアダム・ラクスマンが大黒屋光太夫ら日本人漂流民を返徳のため根室に来航した。日本は鎖国中でありいたずらにロシアを怒らせてしまった。

色々な出来事の後、日本は自国の国境線を引き自国領土を確かなものにする必要性を強く感じる。

1798年 老中の戸田氏教が、大規模な蝦夷地調査を立案し、徳内は7度目の蝦夷地の上陸を果たす。

その後、幕臣の近藤重蔵の配下として択捉に領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を建立する。

そして、徳内は蝦夷地に残り日高山脈を切り開く新道(現・日勝峠ではないか)を普請する。

この工事の測量中に見聞隊の総裁・松平忠明と意見が衝突し、免職される。
江戸へ戻った徳内は忠明の失策を意見書として提出する。

そして、忠明に辞表を提出するが、忠明はこれを受け取らず徳内は公職のままとなった。



1804年徳内は再び山林御用を務め、著述も手がけていた。

そして、1805年8度目の蝦夷行きがあり、遠山影晋の下で活躍することになる。

1808年4月に樺太詰めを命ぜられ、渡樺することになった。

樺太調査を続け白主から亜庭湾方面へ向かい樺太の大迫郡大迫町に上陸する。

樺太の警固として会津藩役800名も渡樺して来る。

それから1823年に来日したドイツ医師シーボルトが江戸へ参府した際に徳内と意見交換し、間宮林蔵に自分が調査した樺太の大まかな地図を渡したこと、アイヌ語がわかる徳内はシーボルトが編纂中のアイヌ辞典編集に協力した。

のちのシーボルトの情報によればサガレン(樺太)に滞在した時に105人中53人が寒冷のため死亡したとのこと。

しかし、徳内はアイヌの言い伝えから大量の昆布を食べ、すこぶる健康であったとのことです。

記録によると1828年にシーボルトがスパイだったことが国禁の日本地図無断持ち出しで発覚し、大きな事件となる。しかし、徳内は無関係となり、この追求は逃れていた。



時が経ち、晩年は浅草に住み1836年に、徳内は82歳で死去し今は東京 文京区の蓮光寺に眠っている。

北海道を創った Dreamer「最上徳内」前編

2019年02月13日 | 歴史コラム
1754年 現・山形県村山市楯岡にて生まれる。

長男であったが、農家を継がず奉公に出て数種類の学問を積む。
そんな中、師・利明の代理として蝦夷地探検・調査に青島俊蔵等に随行した。

釧路から厚岸、根室まで探索し、地理やアイヌの生活・風俗を調査する。

さらに、千島列島南端、樺太も探索し国後へ渡る。

徳内はこの活躍を認められ、彼の地に越冬して翌1786年に今度は単身で国後へ渡る。

その時、交易の為に滞在していたロシア人とも接触し、アイヌを仲介に彼らとも交流をしてロシアの実情を学ぶ。

ただ、場所請負制*を行使していた松前藩から徳内は目をつけられていた !



1789年に「クナシリ・メナシの戦い」が起こり両者 100人近くが殺害され処刑された。

事態を知った徳内は江戸の青島へ知らせる。

真相調査のため派遣された青島は徳内を同行させ、3度目の蝦夷地上陸をなす。

所が、何故かもう騒動は収まっており、せっかく蝦夷へ着いた一行はオホーツク一帯を調査して廻り、青島は江戸へ戻りその調査書を提出する。

しかし、幕府は青島等の蝦夷地における職務を離れた行動を問題視して、話し合われ背任を疑われることになる。

徳内共々入牢させられる。

厳しい処置の果てに青島は病死してしまう。徳内も病に冒されるが、師の利明らの運動で釈放され、1790年には無罪となる。

その後、すぐ同年に普請役となり幕府から松前藩に命じられたアイヌの待遇改善が行われているかどうか実情を探るため蝦夷地へ派遣される。

この4度目では再度択捉・国後・得撫島の北端まで行き、状況を視察し土地計測法の統一を指示し、神社を奉納しアイヌへ教化を試みた。(日本の神道を教えようとした)

そんな中ロシア人が日本漂流民を送還する予定であるとの渡航の噂を得る。

1792年には、樺太調査を命ぜられ徳内は5度目の蝦夷地への上陸を果たす。そんな中

鎖国法の中にあって、松前藩はロシア・満州・とは密貿易を行い、アイヌへは弾圧を強めている情報を察知する。

そして、日本との通商のきっかけになる目論見を予感させる行動を、ロシアは取って来るのでした。

後編へ続く・・。


*場所請負制→当地に指定された地区で、商い等を行う交易権を松前藩が行使して、一定の運上金を徴収する制度で、石高の望めない蝦夷地で認められていた、独特の制度である。


北海道を創ったDreamer 「坂 一太郎」第2部・夕張

2019年02月11日 | 歴史コラム
そのうち助けにくるべや、こんな状態だ待つしかないってば
「どくどく、ゴー !・・・・・おい 何だこの音~」

会社側は作業員がタバコに火を点け引火し、二次災害になるのを恐れ、ホースで水を注入し始めたのだ。
当然 穴の中では逃げ場はなく、岩に足が挟まって動けず竿を出してやり小便を手伝ったりしているのだ。

実証は出来ていないが、もっぱらそういう噂らしい。

「美空ひばり」が歌った丁未会館で、合同慰霊祭が行われた。

今回の犠牲者は53名だった。

仕事は三交代制で、一番がた、二番がた零時近くに帰宅、三番がた朝帰宅。
とは言っても昼は眠れず外はやかましい、深夜フラフラになり暗い穴の中で重労働をするとんでもないキツイ仕事だった。

厚生年金はランクが蟹工船に続き二位に位置している。

しかも斜陽化の波は酷くなるばかり待遇も落ちどんどん街も寂れ出してきた。

議会では何か新興産業を起こすべく思案していた。

そんな中一人の若き農業技術者が、この地の寒暖の差が大きい事に着目しメロン栽培を試していた。

しかし、もっと予算がいる。

議会のロートルは皆 大反対で何がメロンだとこの案は潰れそうになった。

そんな時ある女性議員が、この人の訴えるカボチャとプリンスメロンを掛け合わせる案にかけてみるべきと思いますと、全面的に後押しし、これといって良い代替案もなく、その熱意に押され「夕張メロン」と名を付けて産地特産物として売り込む事に決定した!



夕張は美人とジャズの街で常に市街地では、音楽が流れていた。
喫茶・ダンスホールにはバンドが入り、その後「リリーズ」「大橋純子」「レスラーの三沢光晴」氏
札幌市長の「秋元克広」氏が出ている。

今は 寂れてしまったが、まだ石炭は掘り尽くしてはいないそうだ。

未来に向けてロボット化等 新しい技術が生まれると「坂 一太郎」氏の功績も見直されると思うのだが、いかがだろうか。