吉良吉影は静かに暮らしたい

植物の心のような人生を・・・・、そんな平穏な生活こそ、わたしの目標なのです。

阪神大震災から29年(正月から地震‼️)

2024-01-17 05:46:00 | 日々の私の主張とか考察とか
 はじめに、能登半島地震で罹災された方々に心からお見舞い申し上げます。

 また正月から地震ですよ‼️
 29年前の記憶がまざまざと甦りました。

 阪神大震災は『いきなり❗』大地震。
 気が付けば家の中はぐちゃぐちゃ、真っ暗な中茫然としていました。

 割れた食器やグラス類が散乱し、スリッパなしでは歩けません。覚悟を決めて明るくなるまでベッドから出ませんでした。

 思い返せばジタバタしなかったのが正解。明るくなってから状況を確認しました。コンクリート製の電柱が折れて電線にぶら下がっているのが見えて結構シュールな情景だったのを覚えています。

 電気がないと全て役に立たないことを改めて思い知りました。電話もファンヒーターもダメ。さーらーにー、ガスも水道もなし。

 非常時に役立ったのは携帯用のガスコンロ。普段『すき焼き』以外に出番がなかったガスコンロが命をつなぐアイテムになりました。

 当時は水道水を一旦タンクに溜めて圧を掛けて最上階まで送り込むタイプのマンションに住んでいたのでタンクからバケツで水を汲んで数日保たせた記憶があります。

 何日か経つと近所の小学校のプールから水を汲んで生活用水にする知恵がつくようになりました。

 電気は3日くらいで修復されたのですが、通電時に近所でも結構火が出たのを覚えています。『あの火が迫ったら逃げるしかないなー』と燃え盛る火を眺めていました。水道が出ない以上、人間にできることはなかったのです。

 結局、水道とガスは復旧に2ヶ月掛かりました。しばらく大阪の叔父を頼って避難していました。

 大災害のとき、結構皆でチカラを合わせたので、それまで疎遠だったマンション内部での人間関係が構築され、付き合いが増えました。やはり『人との繋がり』が一番ですね。

 見も知らない人から『訪ねてきた親戚が見つからなかったので支援物資置いていきます』と、水や様々な食品を頂戴したりしました。

 ありがたいことです。

 能登半島地震でもこうした『人との繋がり』が機能しますように、と祈らずにはおられません。何かの役に立てばと思い出を綴ってみました。
 


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