昨年、横浜の山手資料館の玄関でとても懐かしい物に出会った。
横浜「山手資料館」
玄関に置かれたレトロな「乳母車」。この絵柄から多分外国製ではと思われる。
懐かしいとは言っても、生後7ヶ月の私には全く記憶には無い。
父が撮ってくれた一枚のモノクロ写真が残っている。
乳母車の車輪の部分までは撮れていないので残念だが、
折りたたみの日よけの幌も付いている籐製の乳母車。
今から半世紀以上も前の写真である。
何故、この籐製の乳母車が東北の街の我が家に在ったのか。。。(日本製と思われる)
写真を見ると新品ではないようにも見える。
ということは、母の2人の弟、又は私の5歳上の兄の為に購入したものなのか。
今も元気で西武線の沿線に娘夫婦と住んでいる92歳の叔母(母の妹)に電話で話を聞いてみた。
記憶を辿り、「乳母車」と聞いて懐かしい~と話してくれた叔母だが、それは終戦後のことであった。
結婚して叔父の勤務地である北海道に住んでいた頃、確かに籐製の乳母車に子供を乗せて散歩していたという。
散歩の途中で乳母車が溝に落ちてしまい、乗せていた赤ん坊も溝に落ちたが幸い怪我もなくほっとした事、
それ故、今でもその事は良く覚えているという。
しかし、その乳母車が、私が乗っている写真と同じ物かどうか、
その事故の後、乳母車はどうなったかについての記憶はないらしい。
戦後の物のない時代の話である。
両親は既に他界、実家も既に無い現在、知るすべもない。
母が生きている間に聞いておけば良かったと。。。
今はベビーカー(和製英語)とか、バギーとかお洒落な乳母車?をよく見かける。
「乳母車」という名前すら知らない世代が多くなってきているようだ。
曽祖父母、祖父母、両親などと一緒の大家族の中で育った私、
資料館で見た一台の乳母車から、
今は亡き懐かしい人々の顔、その日常、街の風景などが、
走馬灯のように私の頭に浮かんでは消えたひと時であった。
横浜「山手資料館」
玄関に置かれたレトロな「乳母車」。この絵柄から多分外国製ではと思われる。
懐かしいとは言っても、生後7ヶ月の私には全く記憶には無い。
父が撮ってくれた一枚のモノクロ写真が残っている。
乳母車の車輪の部分までは撮れていないので残念だが、
折りたたみの日よけの幌も付いている籐製の乳母車。
今から半世紀以上も前の写真である。
何故、この籐製の乳母車が東北の街の我が家に在ったのか。。。(日本製と思われる)
写真を見ると新品ではないようにも見える。
ということは、母の2人の弟、又は私の5歳上の兄の為に購入したものなのか。
今も元気で西武線の沿線に娘夫婦と住んでいる92歳の叔母(母の妹)に電話で話を聞いてみた。
記憶を辿り、「乳母車」と聞いて懐かしい~と話してくれた叔母だが、それは終戦後のことであった。
結婚して叔父の勤務地である北海道に住んでいた頃、確かに籐製の乳母車に子供を乗せて散歩していたという。
散歩の途中で乳母車が溝に落ちてしまい、乗せていた赤ん坊も溝に落ちたが幸い怪我もなくほっとした事、
それ故、今でもその事は良く覚えているという。
しかし、その乳母車が、私が乗っている写真と同じ物かどうか、
その事故の後、乳母車はどうなったかについての記憶はないらしい。
戦後の物のない時代の話である。
両親は既に他界、実家も既に無い現在、知るすべもない。
母が生きている間に聞いておけば良かったと。。。
今はベビーカー(和製英語)とか、バギーとかお洒落な乳母車?をよく見かける。
「乳母車」という名前すら知らない世代が多くなってきているようだ。
曽祖父母、祖父母、両親などと一緒の大家族の中で育った私、
資料館で見た一台の乳母車から、
今は亡き懐かしい人々の顔、その日常、街の風景などが、
走馬灯のように私の頭に浮かんでは消えたひと時であった。
確かに今では「乳母車ってなに!」って言われそうですね。
私の赤ん坊のころは乳母車なんてなかったと思いますよ、何せ生まれて数日後には防空後の中だったそうですから。
山手資料館の玄関に置かれた乳母車からいろいろなつかしいことが思い出されたのですね。よい時間をもたれましたね。
「乳母車」・・・わたしもうっすら自分が乗っていた乳母車を思い出しています。
いつもコメントをありがとうございます。
昨日、古くからの友人と会いましたら、彼女も籐の乳母車が自宅に在ったと云っていましたので、
その頃流行っていたのかも知れません。
検索してみました。
現在でも籐の乳母車を作っている所が名古屋あたりにありましたが、
四角い形でブレーキなども付いて6~7万円はするようです。
写楽さんは終戦直前のお生まれなんでしょうか。
コメントありがとうございます。
タキコさんはお若いので、乳母車といっても今の形に近いものでしょうね。
最近とみに昔の頃が懐かしくなって。。。年をとったということです。
地元の同級生の訃報が続きましたので、
元気なうちにみんなに会っておきたいという話が多いのです。
乳母車
今は確かに言わないですね。
私の記憶には特に中庭の朱塗りの欄干がある部屋に通されたことがあり奇麗なお家であったこと。貴方の曾祖母さんとお話をしたことがあり多いに励まされたこと。そしてマンドリンが居間にあってすごく興味を引かれて帰って来たことなど若い頃の沢山の思い出がつぎつぎと走馬灯の如くに・・・
あの頃は今よりも雪が多くて子供には大変でしたよね。
箱ぞりは乗ったことがありませんでしたが、「角巻」はとても懐かしい響きです。
幼稚園時代の冬、登園拒否気味の私を、祖母が自分の角巻の中に入れて連れて行ってくれた事を
今でも鮮明に覚えています。
懐かしいですね。
いつもコメントをありがとうございます。
横浜で籐の乳母車を見たときに、自分の幼い頃の写真と重なって、
一気に昔を想い出してしまいました
歳をとったものだと思います。
恵那爺さんはあと10年ぐらいすると、こんな気持ちになるのかも知れません
いつも見てくださってありがとうございます。
実家の奥の方に離れがあって、その縁側から父がこの写真を撮ってくれたと思います。
曾祖母のおりゅうさんは、kinoさんの祖母にあたるのですね。
マンドリン懐かしいです。
母や叔母たちがいつも弾きながら唄っていたり。。。
でも音色が子供ごころにも哀しげで、私はあまり好きではありませんでした。
港祭りの日に、kinoさんのお宅にもお邪魔した事がありましたよ。お祭りの情景はほとんど覚えていませんけど。。。
一台の古い乳母車に出会って、涙が出そうな懐かしい光景を想い出しています。