MiddleDayTripperの徒然記

気ままな中年オヤジの独り言

エンタープライズを連想すると不思議な因縁が見えた

2012-04-29 21:22:16 | 小ネタにツッコミ

シャトル試験機を空輸 ニューヨーク中心部周回

スペースシャトルの試験機「エンタープライズ」が27日、展示場所の変更のため、米ワシントンからジャンボ機の背に乗ってニューヨークに空輸された。
日本時間の28日未明にニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に到着。着陸前に「自由の女神像」の近くを低空で飛ぶなど市中心部を周回し、見守る市民が歓声を上げた。
エンタープライズは滑空、着陸試験をこなしたが、宇宙飛行はしていない。7月半ばから、ニューヨークのイントレピッド海洋航空宇宙博物館で公開される予定。
これまでワシントン郊外のスミソニアン航空宇宙博物館新館で公開されていたが、昨年引退したスペースシャトル「ディスカバリー」が同館に展示されたことに伴い、ニューヨークに移されることになった。

スペースシャトル「エンタープライズ」OV-101はスペースシャトルの試作1号機。シャトルの最も特徴的で重要な能力だった「大気圏内では飛行機のように飛行して着陸する」事のテストが主な任務だった。(大気圏内ではエンジンは使わないので滑空)最初の計画ではテスト終了後には実用機として改造して宇宙に打ち上げる予定だったが、「新規製造の方が安上がり」となったため宇宙飛行はしていない。エンタープライズの改造と爆発事故で喪失したチャレンジャーの代わりに製造されたのが、エンデバー(OV-105)である。

エンタープライズの滑空試験はB-747に背負った格好で搭載されて行なわれた。当初は70年にアメリカン航空向け製造されたB-747-123を74年に取得(アメリカの大手航空会社は数機の747を発注していたものの、大きすぎる収容力と直後に発生したオイルショックで手放した会社も多かった)し、76年からテストを開始した。

実用機によるミッションが開始された後も、シャトルは着陸した飛行場から整備工場と発射台のあるケネディ宇宙センターへ運搬するために、747にオンブされて飛行していたが、実用機が揃ってくると747が1機では効率的なミッションが出来なくなるため、90年に747が追加導入された。その機体は747-SR46。73年から88年までJA8117としてJALの国内線で運航されていた。JALがこの機体を売却したのは85年に発生した123便墜落事故とされる説もあるが、25年経過しており、収容力が多く推力の高いエンジンの146SUDや346SRと交代させた説の方が有力だと思う。またSR46をNASAが導入したのはノーマルに比べて着陸装置が強化されている点が重いシャトルを背負うには最適だったのだろう。90年以降の「オンブ飛行」はSR-46がメインで使用されたようで去る2/8に退役したため、今回のオンブは1号機が行なった。

エンタープライズの引越し先はNYのイントレピッド海上航空宇宙博物館。この博物館は航空母艦「イントレピッド」を利用しており飛行甲板に航空機が展示されている他、隣接する地上にはSSTコンコルド(s/n210:BA)が、桟橋には通常動力潜水艦「グロウラー」(SSG-577)が展示されている。エンタープライズはおそらく地上展示になるだろう。

空母「イントレピッド」(CV-11)はエセックス級の3番艦として43年に就役。44年2月にトラック島付近で日本海軍攻撃機による魚雷を受けて中破。10月レイテ沖海戦に参加中に特攻機の攻撃を受け、11月にも2機の特攻攻撃を受けた。45年2月に硫黄島攻略作戦に参加し、沖縄上陸作戦にも参加。日本海軍の戦艦「大和」出撃を受けて航空攻撃を実施し「大和」を撃沈。その作戦中にも2機の特攻を受けたが、大きな支障もなく作戦行動を続行していた。その後は日本本土空襲作戦に参加して終戦を向かえ、占領作戦支援を行ない本土へ帰還して予備役となった。朝鮮戦争が勃発すると攻撃空母(CVA)として再就役し、航空作戦に参加。その後に斜め着艦システムやカタパルト、サイドエレベータなどの大規模な近代改装を実施し艦種を対潜空母(CVS)に変更。ジェミニ計画ではジェミニ3号の回収を担当した。ベトナム戦争に参加し、日本にも度々寄港したが、67年11月の横須賀寄港時に乗組員4名は日本の反戦団体の支援を受けてスウェーデンに亡命した事件が発生し日本でも有名になった。74年に予備役となり係留保管されていたが、82年に博物館として再利用が決定し、マンハッタンの桟橋に曳航された。

通常動力潜水艦「グロウラー」グレイバック級2番艦として就役した。グレイバック級は世界初のミサイル搭載型潜水艦で艦首に核弾頭を装備可能な巡航ミサイル「レギュラス」を装備していた。浮上して格納筒を展開してミサイルを発射するのだが、その技術は日本海軍の大型潜水艦で3機の特殊攻撃機を搭載する「伊400」が大きく貢献したと言われている。

スペースシャトルと引越し先と日本は何がしかの関係があった。

このシャトルの「エンタープライズ」と言う名前は元々は「コンスティテューション」と命名される予定だったが、テレビドラマ「StarTrek」に登場する宇宙船の名称だった「エンタープライズと命名して欲しい」と言う嘆願が多く寄せられて、当時の大統領によって変更が決定された。「StarTrek」は60年代に放送されたSFドラマ。当初はまだSFに馴染みが無かったため一部のコアなファンに受け入れられたものの全体としては低調で3シーズンで打ち切られたが、ローカル局などに販売されて再放送される度に話題となり、70年代に入るとファンがコンベンションを開くまでになった。77年の「StarWars」や「未知との遭遇」の大ヒットでSFブームが来ると、StarTrekも劇場版映画となり、TVもシリーズ化され05年まで続いた。このドラマに登場する宇宙船の名称がエンタープライズとされたのは当時の社会情勢があった。60年代は原子力は「夢の動力源」だった。イギリスの「サンダーバード」や日本のアニメ「鉄腕アトム」もそうであったようにSF=原子力だった。またベルリンの壁やキューバ危機など米ソ冷戦が一気に高まった時期でもあったが、アメリカは世界初の原子力空母「エンタープライズ」と原子力巡洋艦「ロングビーチ」、「べインブリッジ」で原子力機動部隊を編成して燃料無補給の世界一周クルーズを行ない、ソ連に圧倒な海軍力を誇示した。「エンタープライズ」はアメリカの強さと技術力の象徴であり、国民にも親しまれた。当時の日本は原子力=爆弾=放射能があり、佐世保入港時にデモ隊と警官隊が衝突して多くの逮捕者と負傷者を出した。

世界最大の原子力空母(CVAN-65)が「エンタープライズ」となったのは先代の功績である。先代の「エンタープライズ」(CV-6)は中型空母ヨークタウン型の2番艦として38年に就役した。

41年12月の日本海軍による真珠湾攻撃時はウェーキ島へ航空機を運搬してハワイへ帰還中だった。空母艦載機による空襲の情報を受けて周辺海域で日本空母部隊を探索したが見つけられなかったものの、潜水艦(伊70)を発見し艦載機による攻撃で撃沈。

42年1月に南太平洋へ航空機を運搬し、(合流する予定だった空母「サラトガ」(CV-3)が潜水艦の雷撃により中破し本国へ帰還したため単独で)北上してマーシャル・ギルバート諸島の日本軍基地を攻撃。ハワイで修理したのち2月下旬から3月にかけてウェーキと南鳥島を空襲。4月には真珠湾報復のドゥリットル爆撃隊のB-25を飛行甲板に満載したホーネット(CV-8、ヨークタウンの改正型)を護衛して日本近海に進出した。5月にはレキシントン(CV-2)とヨークタウンを派遣した珊瑚海で日本軍機動部隊発見の知らせを受けて急行したが間に合わず、レキシントンは沈没しヨークタウンも大きな損傷を受けた。

その頃、日本軍の次の目標がミッドウェー島である事が判明した。珊瑚海海戦で損傷させた翔鶴は無理にしても残る5隻の空母艦隊の襲来は明白だが、稼働できる空母はエンタープライズとホーネットだけ。これでは勝ち目が無い。そこで3ヶ月前後必要と見られていたヨークタウンの修理を必要最低限にして24時間体制で3日間で済ます命令が出された。修理は破損箇所を鉄板で溶接する方法が取られ、電力確保のためオアフ島の一部では計画停電が実施された。消耗して航空隊はサラトガが本国回航される際に降ろした部隊と交代された。こうしてヨークタウンは33ノットの最大速力も30ノット弱しか出せなかったが、エンタープライズ、ホーネットと共にミッドウェー海域に出撃した。ヨークタウン型空母3隻が顔を揃えた最初で最後の海戦だった。アメリカの予想に反して日本の空母は4隻が参加していた。結果は「ヨークタウン」を失ったのに対して、日本は参加した主力空母4隻全滅だった。8月から開始される反攻作戦のために7月にハワイを出港し、南太平洋のソロモン海域へ向かった。上陸部隊への補給線確保のため警戒行動中に日本の艦隊と遭遇し第2次ソロモン海戦となった。復帰した「サラトガ」と大西洋艦隊から回された空母「ワスプ」(CV-8)も参加して空母「龍譲」を沈めたが、ワスプと潜水艦の雷撃で沈没。サラトガも大破し航行不能。エンタープライズも航空機による爆弾を被弾してハワイへ帰還。10月に戦列復帰するとホーネットと共に南太平洋海戦に参加。ホーネットが日本空母艦載機の集中攻撃を受けて大破。エンタープライズはホーネット艦載機も収容して反撃し、日本艦隊に損害を与えた。ホーネットは曳航不能なため駆逐艦による処分命令が出されたが失敗。炎上しながら漂流するホーネットを日本艦隊が発見し曳航を試みたが失敗して駆逐艦によって沈められた。エンタープライズはニューカレドニアで応急修理をして戦列に復帰し、ラバウル基地からの航空攻撃に対して防空支援をしたり、巡洋艦「衣笠」を撃沈するなど活躍。この頃から「ビッグE」のニックネームが付いた。

43年に入り、ソロモンでの日本軍の抵抗が下火となったのを見届けて5月末にハワイへ帰還。その際に空母としては初めて「大統領感状」が送られた。本土へ回航されて本格修理と改装が実施されて、ハワイへ戻るとマーシャル・ギルバート諸島の上陸作戦を支援。

44年にはビスマルク諸島の上陸支援ののち、連合艦隊の拠点であったパラオの空襲に参加。6月にマリアナ諸島への上陸支援中にマリアナ沖海戦となり、襲来する日本の航空機を迎撃し壊滅させ、反転攻撃も実施。一旦ハワイへ戻ったのち8月には小笠原諸島を空襲し、10月には沖縄、台湾、フィリピンの日本軍基地を空襲して陸上航空戦力を壊滅させた。10月になるとレイテ島に上陸した部隊に突入攻撃をかけようとする日本海軍を攻撃。シブヤン海で戦艦「武蔵」を沈め、エンガノ岬沖では宿命のライバルだった空母「瑞鶴」を沈めた。

45年は硫黄島上陸作戦の上空援護に参加した後、沖縄、九州の各飛行場と日本海の輸送船団を空襲したが、3月に爆撃を受け損傷し前線基地のあったウルシー環礁へ戻り修理を実施。4月には沖縄攻略部隊の防空任務についたが、日本艦隊発見を受けて攻撃隊を出し、戦艦「大和」を沈めて日本海軍の息の根を止めた。しかし5月に26機の航空攻撃を受けた。25機を撃墜したが、残る1機に前部エレベータに体当たり攻撃を受けて大破炎上。突入したパイロットの遺体は艦底で発見され、丁重に水葬された。作戦行動が不可能となり、本国に戻り、修理途中に終戦となった。戦後はハワイからと北アフリカからの復員任務に従事。46年にニューヨーク海軍工廠に入渠、47年2月に海軍から除籍となった。除籍後も太平洋戦争最大の殊勲艦だったエンタープライズを記念艦にする運動は起こったが、資金が十分に集まらなかった。(度重なる戦闘での損傷によりキールも破損しており、保存が難しかった事もあった)民間業者に払い下げられて60年5月に完全に解体された。その4ヵ月後の9月に進水式を迎えた世界初の原子力空母に名前が引き継がれたのである。

このエンタープライズもアメリカが空母を投入した戦争すべてに参加し、ビッグEの名に恥じない活躍をしたが、艦齢が50年を超えた老朽艦でもある。最初の予定では15年に就役する最新鋭の原子力空母(CVN-78)と交代で退役だったが、12年いっぱいに早められた。

このCVN-78の艦名は第38代アメリカ大統領「Gerald R. Ford」とされた。そうスペースシャトルの試作1号機の名をコンスティテューションからエンタープライズに変更したフォード大統領だ。これも何とも因縁めいている。

予定されていた「コンスティテューション」の名も調べていくと面白い。

海軍創設時の3隻の帆走フリゲートの3番艦(1797年就役)。米英戦争(1812~15)で老朽船ながら活躍。イギリスの軍艦からの砲撃を跳ね返した事から「Old Ironsides」のニックネームが付き、アメリカ市民の士気を高揚させた。1830年に老朽化から海軍は解体の意向を示したが市民の不評を買い、議会の反対を受けて35年に再就役。南北戦争(1861~65)は練習船として活動し、その後も練習任務の傍らでパリ万博に出展品を輸送し1882年に退役。その後はポーツマスで接待船として利用された。1905年に再び廃船の危機を迎えたが、また市民の反対運動で助かった。25年には有志の募金で修理が施され、31年から3年間をかけて曳船に引かれて全米の港を訪問した。40年に永久保存が決定し、54年には海軍長官が維持管理の責任を持つ事が議会の承認を得た。92年~95年に分解修理が実施され帆走が可能となった。97年には生誕200年記念式典が実施されて、2隻のフリゲートを護衛に従え、上空は海軍航空隊アクロチーム「BlueAngels」を引き連れて116年振りに自力帆走を実施した。

永久保存が決定する前、各国が海軍力を拡充していた1917年にレキシントン級巡洋戦艦の5番艦(CC-5)に名前を譲る事が決定した。(名前にオールドが付け足される予定だった)22年にワシントン海軍軍縮条約が発効し23年に建造中止となった。ネームシップのレキシントン(CC-1)と2番艦サラトガ(CC-2)は空母改造が認められたため工事は続行された。48年7月にトルーマン大統領は「大型ジェット機が運用可能な超大型空母5隻の建造を承認した」と発表した。大型の核爆弾を装備できるジェット機の運用を海軍も行なう事であった。これは今後敵対が予想されるソビエトよりも戦略核兵器を独占したい空軍を刺激してしまった。空軍は陸軍を巻き込んで反対のロビー活動を展開し、国防長官フォレスタルはその調整に疲弊して辞任。(その後うつ病を発症して自殺)議会でも予算を拒否された後任のジョンソン長官は1番艦「ユナイテッド・ステーツ(仮称)」(CVA-58)の起工式の僅か5日後に建造計画中止を発表し、計画を起案したサリバン海軍長官も辞任に追い込まれた。海軍はこのCVA-58級の3番艦に「コンスティテューション」を予定していたと言われる。戦後誕生した空軍にとって「ユナイテッド・ステーツは空軍が唯一沈めた空母」と皮肉られている。なお「ユナイテッド・ステーツ」は海軍創設時の3隻の帆走フリゲートの1隻目の名前で2隻目は「コンステレーション」だった。海軍はジェット機や核兵器に対応した大型空母の計画を練り直して50年代に「SuperCruiser」として4隻を実現させた。その1番艦(CVA-59)は辞任後自殺した国防長官の名前「フォレスタル」と命名された。 

 

 

 

 


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