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MiddleDayTripperの徒然記

気ままな中年オヤジの独り言

エア・フロリダ90便墜落事故

2011-01-11 23:06:51 | Weblog

82年1月13日。エア・フロリダ90便(N62AF)はフロリダ州タンパ経由でフォート・ローダデールに向かう予定のエア・フロリダ90便(N62AF、以降AF90)は寒波に見舞われたワシントン・ナショナル空港で出発が遅れていた。ようやく離陸したAF90だったが、機首上げ状態のまま水平飛行の失速状態で1mileほど進み、14番街とバージニア州を結ぶ橋に激突し、渋滞中だった自動車7台を巻き込みながら氷結したポトマック河に墜落した。AF90便の乗員乗客79名と自動車の4名のうち生存者は乗務員のCA1名と乗客4名だった。

救出に駆けつけたパークレンジャーのヘリから降ろされるライフリングを最期まで他の生存者に譲り続け水面から消えたアーランド・ウィリアムス氏は今日のテレビでも取り上げられていたが、この事故ではもう2人のヒーローがいる。ヘリの救急救命士は1度目の救出ではヘリのソリ部分に立って両手が骨折したCAを引っ張り上げたまま救出した。2度目の救出でライフリングに捕まった女性を引っ張ったが、彼女は途中で手を離してしまった。割れた氷の上でもがく彼女は水面に洩れたジェット燃料が目に入り視界を奪われていた。河岸で救助を見つめる救助隊員や群衆の中から凍てつくポトマックに男性が飛び込み、彼女の元に泳いでそのまま救助した。彼は彼女を救急隊員に託すとそのまま現場から消えた。後に連邦議会の予算委員会の職員レイニー・スクトニック氏と判明した。

全米運輸安全委員会(NTSB)は事故原因を次のように指摘した。

直接の墜落原因はアンチアイスをオフにした結果、ピトー菅が氷結してエンジン圧力計が誤作動を起こし離陸必要値2.04を指していたが実際は1.70の状態で機首上げをしてそのまま失速状態になった事だった。

他にもヒューマンエラーがあった。機体に降り積もった雪が氷結していたため、アメリカン航空のグランドクルー(エア・フロリダはワシントンでのグランド作業をAAに委託していた)がAF90にグリコールの解氷剤を散布したが、直後に雪がひどくなり空港が閉鎖されてしまった。再開された頃には機体にまた雪が積もったが、出発がさらに遅延する事を恐れた機長は解氷剤散布を断った。

またスポットからプッシュアウトする際にトラクタがスリップしてしまったため、機長はエンジンをリバース(逆噴射)させてタキシングウェイに出ようとした。この行為はFAA(連邦航空局)では禁止していなかったが、AAは社内規定で禁止していたためグランドクルーが機長に忠告して中止されたが、このリバースで地上に積もっていた雪を翼やエンジン吸気口に巻き上げて氷結させる事態になっていた。

チェーンタイヤを装着したトラクターでプッシュアウトし、ようやくタキシングを開始したが、滑走路までは離陸順番待ちの行列が出来ていた。ここでAF90は先行するニューヨーク・エア(アップル)のDC-9にかなり接近していた。翼や機体の氷結状態は機長も気にしていたらしく、先行機のエンジンの熱風で解氷しようとしていた。(回収されたVレコーダには翼に積もっていた雪が消えたと喜ぶクルーの会話が録音されていた)しかし、実際には吹き飛んだのではなくシャーベット状態に溶けただけで、それが翼に氷着して揚力を大きく失わせていた。

また空港管制官にも間接的な原因があったと指摘している。事故当時の悪天候で空港は閉鎖と再開を繰り返した結果、離着陸を焦らせてしまっていた。実際にAF90が離陸した後で着陸するはずのイースタン航空のB-727のパイロットは「タッチダウンした際にAF90はまだローテーション(機首引き起こし状態)で滑走中だった」と証言しており、これは航空法の違反行為であった。

グランド作業をしていたAAも解氷剤と水の混合率が機械故障で間違っていたのも間接原因とされた。

またFAAの勧告では空港の防災体制にも問題があったと指摘された。AF90が激突した橋は夕方のラッシュに悪天候が重なった上に橋の空港側の道路上で多重衝突事故が発生して、空港から現場へは全く進めない状態で、空港の消防・救助隊の車両が現場に到着したのは事故発生から30分近く経過していた頃で、徒歩で向かった隊員は15分程で到着していたが、装備が無いため河岸で何も出来なかった。また離陸の最終判断をしたのは機長だったが、AF90が離陸に使用したランウェイ36は可走帯が短く、V1(滑走中の離陸中止可能速度)でも圧迫感があると多くのパイロットが証言した。

機長は飛行時間は十分だったが、大半は南部や西部の飛行で酷寒となる東部での経験は皆無だった。コ・パイも同様であったが、この背景には70年代末にカーター政権が航空デギュレーション政策を推進した結果、多くの中小キャリアが誕生してクルーが不足した副産物とも言えた。

この事故が起こるまでアメリカでは旅客機による航空死亡事故が2年間発生していなかったため、確証の無い航空安全神話は利用者にも芽生えていた。しかし実際には重大事故に繋がる恐れのある小さなトラブルが毎月のように発生していて、ワシントン・ナショナル空港でも事故の3週間前に雪の悪天候の中で小さな接触事故が発生していた。

アーランド氏の行動を英雄視し出演者に涙を流させる演出も結構だが、大事故の原因は些細なヒューマンエラーの積み重ねなのだ。また日本もLCCの乗り入れや羽田の24時間化があった。民放はそれらの提灯ネタで盛り上がっているが、東京周辺の空は超過密状態で一歩間違えば空中衝突もあり得る。

ところで事故を起こしたエア・フロリダは72年に設立された中古のエレクトラでフロリダ州内を結ぶ小さな航空会社だった。社長に元ブラニフのアッカー社長を招へい、78年の規制緩和で12月に事故を起こした新路線を開拓したのを皮切りに欧州へのチャーター便やロンドン-マイアミ線を開設して急成長。さらにアッカー社長はブラニフから南米路線を買収してドイツのエア・ベルリンに資本参加して買収を試みたが失敗して社長を退任した。するとアッカー氏は再建中でライバルのパンナムの社長に就任して主要路線でのダンピングを仕掛けてきた。資本力の弱いエア・フロリダは苦戦している最中にこの事故が起こってしまった。それにより利用者が激減し、78年から新規開設した路線や国際チャーター便から撤退したが、業績は回復せず84年7月に運航停止に追い込まれ経営破綻した。

 

 


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